平安朝の鬼
まだこの国に武士という者が存在していなかった頃、諸国には律令制の下、農民から徴兵された軍団が存在したが、やがて、これも無くなり、代わりに、国衙、郡衙の守りに国司、郡司の若者から徴募した健児が置かれるようになった。いずれは健児も消滅し、武士が台頭してくることになるが、それはもう少し後のことである。
美濃国の郡司の息子に安麻呂という者がいた。安麻呂は弓馬の心得があったので健児に徴発されて、国司の館の守備に当たることになっていた。
「明日、近江へ物を運ぶ。」
国司からの命令があった。公的物資の護送警護も健児の仕事であった。護送の長には安麻呂が選ばれた。
「(何の荷物だろうか…。)」
騎馬の健児数名と農民から徴発された人夫数名で荷物を運ぶ。荷物は長櫃に入った大きな物であった。
「(美濃と近江の境に運ぶように…。)」
国司からはそう言われただけであった。文書のやり取りもいらないようだった。安麻呂一行は美濃と近江の境に着いた。後に寝物語の里と呼ばれるところである。指定の期日まであと一日あったので、安麻呂らは近くの寺に仔細を話して一日泊めてもらうことにした。
「(何の荷物だろうか…。)」
夜半、寝床で寝ていても、そのことが気になって眠れなかった。
「(少しだけ…。)」
安麻呂は寝床から這い出ると、荷物が置かれている場所へ行った。荷物は縄で縛られて静かに置かれていた。安麻呂は縄を解いて、蓋を開けた。
「ぎゃ…!」
中には、手足に縄をかけられて口に轡を当てられた子女が三人入っていた。
「(まずいものを見てしまった…。)」
安麻呂は蓋を閉めて、元通りに縄を結んだ。
「(国司が子女を拐かしている…。)」
その夜、安麻呂は一睡もできなかった。
翌日の昼頃、荷物の迎えが来た。待っている間も安麻呂は長櫃の中のことが気になってしようがなかった。
近江の国衙からも、健児数名と人夫数名が来た。
「ご苦労様でした。」
荷物は近江国の健児と人夫によって運ばれて行った。
「(彼らも櫃の中身のことは知らないのだろう…。)」
安麻呂らは美濃国へ足を向けた。
「痛たた…。」
「どうされました安麻呂殿?」
「急に腹痛を催してしまった。私は少し休んでから美濃国へ戻る故、先に参られよ。」
「左様ですか。」
共に来た者たちはそのまま美濃国へと戻って行った。安麻呂は二、三町程離れたところから荷物の一行を追った。
「(おや…?)」
てっきり、大津に向かうと思っていたが、一行は進路を北に向けた。
「(山の方へ行くぞ…。)」
伊吹山であった。一行は麓の伊吹の社に到着すると、そこで荷物の受け渡しをして、彼らは戻って行った。荷物は社の雑役たちによって、さらに上へと運ばれて行った。安麻呂も馬を降りて、山を昇った。崖の中腹の洞穴のところに神縄が張ってある。雑役たちは長櫃をそこに置いて山を降りて行った。
「(山の神への生贄か…。)」
定期的に近江国と美濃国から農民の子女を生贄として捧げているのかもしれない。
「(成る程…。)」
昔から美濃国では、子どもたちが夕暮れや夜に隠れ鬼などをして遊んでいると、いつのまにかその内の一人がいなくなるという噂を、小さい頃から安麻呂は聞いていた。それらは神隠しと呼ばれていた。
「(山の生贄に国司が拐かしておったのか…。)」
安麻呂は合点がいった。
「(さて、どうしようか…。)」
分かったところでしようがない。
「(とりあえず蓋を開けてみよう…。)」
単純に安麻呂は中が気になっていた。
安麻呂が木陰から出て行こうとした、そのとき、洞穴の奥から何かの気配がした。安麻呂が再び、木陰に身を隠すと、洞穴から異形の風体の者が出て来た。
「(なんだあれは…!?)」
異形の者は牛の頭を持ち体は人であった。
「(鬼だ…。)」
安麻呂はそれを伊吹山の神だとは思わなかった。角の生えた牛頭人身の怪物は長櫃に近づいて、縄を外そうとしている。
「(まずい…。)」
牛頭の怪物が長櫃の中の子女をどうするつもりなのかは分からなかったが、いずれにせよ、安麻呂はその怪物よりも先に長櫃の蓋を開けたいという欲求に襲われた。
「(先に蓋を開けるのは私だ。)」
安麻呂は弓に矢を引き絞って射た。
「ウオオオン…!」
一の矢は牛頭人身の額を撃ち抜いた。安麻呂はすかさず二の矢を継いで射た。二の矢は牛頭人身の右目を撃ち抜いた。
その後、安麻呂と牛頭人身の者がどうなったのかは伝えられてはいない。ある美濃国の伝承によれば、牛頭人身の者は伊吹山の神ではなく、伊吹山に巣くう鬼で、その鬼を退治した安麻呂は伊吹山の神から感謝されて、生贄の三姉妹の子女たちとともに美濃国へ帰り、その三姉妹を嫁にもらったとも言う。また、近江国の伝承では、生贄の子女たちは、実は伊吹山の三姉妹の神であり、鬼を退治した安麻呂はその三姉妹を嫁にもらい、伊吹山に住んで自らも、安美男神という神になったという。いずれも古い伝承に過ぎない。