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タジアムの卵の黄身で汚れた口を拭いた後、後片付けを終えてこの後どうしようか伊織は考える。
この世界のことを伊織はまだ何も知らない。
伊織にとっては不思議と思えるこの家が、もしかしたらこの世界では普通のことかもしれない。
クドナのどの辺りにこの家があるのかもわからない。
まずはこの家がある国を調べよう。せっかく本も大量にあるのだから。
「まずは勉強からね」
そう呟きながら伊織が台所を出ようとすると、タジアムが肩に乗ってきた。
『本を読むのか? ならば良い方法を教えよう』
本を読むのに良い方法も悪い方法もあるまいと伊織は思ったが、何故かタジアムは自慢そうに胸を張っているのでここは言うことを聞いておこうと口を閉じた。
『この球の前に立て』
暖炉の上にある座布団にちょこんと乗っているあの球のところへと誘導された。
「これってやっぱり神様の分身みたいなもの?」
『それほどの力はない。だがたまに神が気紛れにここへ来る場合もあるそうだ』
「へぇ~……」
よくわからないが、多分寄り代みたいなものなのだろう。
伊織は素直に球の前に立った。
『知りたいことを口にしろ』
「んーと、この国の歴史が知りたい」
すると言葉がキラキラとした小さな光の粒になり、上空へ舞い上がった。
「……え? 何、今の?」
光は一冊の本へと吸い込まれていく。その本がひとりでに本棚から離れて、伊織の手元へと飛んできた。
「お、おぉ~……」
『触れてみよ』
タジアムの指示通りにその本に触れると、閉じていた表紙が勝手に開き一気にページが捲れいく。最初から最後までパラパラと捲れると静かに裏表紙が閉じ、元にあった場所へと本が戻っていった。
『本の内容は理解できたか?』
もの凄く変な気分だった。短い時間で、かなり神経を使わされたような感じ。
頭がボォーとする。
「記憶が……」
この家がある国はウィドマーク王国。いや正確にはその端に隣接する広大な森。この森は誰も入ってはならない場所とされていた。
何故なら青の魔女の住処だから。
世界一の魔力を誇る魔女を怒らせては国が滅びる。そう人々の間で密かに囁かれてきた。
「……。青の魔女って、私のことよね?」
確か精霊がそう教えてくれた気がする。
『そうだ』
タジアムが肯定したことで、それは確信に変わった。
「え……? 前の青の魔女って、そんなに恐ろしい人だったの?」
『人の噂ほど不確かなものはない。だが我も前の青の魔女がどのような人物だったかまでは知らぬ』
「……何か、やばくない」
青の魔女だってばれたら、魔女狩りとか起きない?
(な、何か怖いんですけど……)
『まあ、魔女はいる世界だ。ただ青の魔女だと露見しなければいいだけのこと。そう神経質にならなくてもよいであろう』
確かにそうだろうけど、それでもこの世界で魔女は生きにくい存在なのだとは理解した。
「折角、魔法がある世界なのに全力で使っちゃ駄目なんて……」
理想と現実は大きく違うということか。
ならばこの世界のことを多少は学んでから街へ行った方がよさそうだ。
伊織も一人でここに住み続ける気はない。他の人とも仲良くなりたいのだ。
「話し相手がタジアムだけっていうのもね~」
確かにここに住み続けようと思えばできるだろう。何しろ食料には困らないのだから。
でも新しい服も欲しいし、お洒落もしたい。この世界の娯楽もどんなものがあるのか知りたいのだ。
「でもそれにはお金よね。どうやって稼ごうか」
何でも揃っているように見えたが、お金だけはなかった。宝飾品などの貴金属もだ。
欲張ってはならないと思うものの、もの凄くがっかりした。
だが薬とかは作れそうだ。庭にはハーブも種類多く育っていた。この世界の薬事情がどんなものなのかはわからないが、魔女と言えば薬だろう。怪しげなものや、効き目が凄そうなものにはしばらくは手を付けないでおこう。
あとはお守りとか魔法で作れないかなと考えた。
「薬の作り方が知りたい」
また伊織は球に向かい本という名の知識を請求する。
パラパラとページが捲れるだけで、頭の中に知識が入ってくるなんて本当に便利だ。無理な勉強もしなくていいなんて最高だと思えた。
それからしばらく伊織は家へ閉じこもり、この世界のありとあらゆる知識を蓄積していった。
そして、満を持してその日がきた。
伊織は黒いローブを羽織り、鏡の前に立つ。
「ローブと箒がないと魔女らしくないわよね。ちゃんとそれらが備え付けられていたのって、やっぱり神様の親切心かな?」
しかしとんがり帽子がどこを捜してもなかったのは、もの凄く残念だった。
「帽子がないだけで、何か締まらない」
姿見で自分を見てそう呟いていると、外からタジアムの声が聞こえてきた。
『伊織、街へ行くのであろう? 早くせぬと日が暮れるまでに戻って来られぬぞっ!』
タジアムがこう叫ぶ理由は知っている。夕飯はこちらで食べたいのだろう。すっかりタジアムは伊織のご飯の虜になっていた。
「餌付けはしておかないとね。逃げられちゃったら、私どうしていいかわからないもん」
すっかりこの姿にも慣れた。
可愛らしい顔の少女が、にっこりと鏡の中で微笑んでいる。
「薬は持った。お守りの袋に、紙とインクに筆記用具……あと手作りの看板」
肩から斜めにかけた鞄の中身を確認する。
「よし、忘れ物はないわね」
『伊織~っ!!』
「は~い、今行きま~す」
伊織は箒を手に取り、タジアムの待つ玄関へと向かった。
『遅いぞっ! 何をしていた』
「だって初めての街だよ。初めてこの世界の人間と会うんだもの。ちゃんとしておかないと」
そう言葉にするともの凄く緊張してきた。
「ああ、何だか緊張してきた」
『行くのか? 行かぬのか? すぐに決めろ』
「行きますっ! そう焦らさないでよ~」
伊織は箒に横乗りした。この日のために箒には何度か乗って訓練した。
その時に遠くの方に人が住む街を確認していたのだ。
高い外壁に囲まれた、結構大きな街だった。
この森には危険な獣がいるので、それらが攻めてきた時に外壁に設置されているいくつかの門は閉じられるのだろう。
伊織もこの森の獣と争う気はない。だから空を飛んで街へと向かおうとしていた。
「行くよ。タジアムも乗って」
ぴょんぴょんと跳ねてタジアムが伊織の肩へと飛び乗る。
「さあ、行こうっ!」
この世界クドナでの生活の第一歩を、伊織は踏み出そうとしていた。