16話 望みはある。それだけで生きていける。
「それじゃ、今日はここまでね。おつかれ」
「ふぃー、つっかれたー」
冬香の勉強終了の合図で、俺は仰向けになって寝転ぶ。
そのタイミングでふと置時計を見やると、時刻は22時半を指し示していた。
「ごめんな、こんな時間まで付き合わせて。冬香ママ、絶対心配してるよな」
「……ううん。たぶん、逆に機嫌よくなってると思う」
「は? 機嫌が良くなる?」
幼馴染だとはいえ、愛娘が男の家に行ってるってのにか?
「うん……。なんなら、今日はもうそのまま泊ってきていいとか言ってたし……」
「え、泊まるのか? なら、お袋に――」
「ち、違うからねっ! 泊まんない! お母さんのいつものジョークなの! だ、だいたい……シュンの家にお泊りとか……私……」
「ん? なんだ? 結局泊まんないのか?」
俺が問うと、冬香はこくんとうつむきながら頷いた。
「私……彼氏いるもん……」
「はっ。あー、そうだな。ナツタロウ君だろ、ナツタロウ君」
もう一度、うつむきながら小さく頷く冬香。
LIMEだとあんなに嬉々としてナツタロウ自慢してたってのに、リアルになると弱々しくなるのがネット弁慶感を醸し出してる。
「そういやお前、最近彼氏のこと俺に話さなくなったな。つい最近までめちゃくちゃ話してきてたのに」
「っ」
「なんだ? キャピキャピ期から一足早い安定期に入ったってか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「弁当作りもテンプレなおかずなら割と上手く作れるようになったんだってな。ママさんに前たまたま会って聞いた。これでナツタロウ用にも作れるな。俺の努力も報われたってもんだわ」
「ち、ちがっ」
「べーつになんも違わねーだろ。微笑ましいことじゃん。彼氏のために上手な弁当を作る。俺の利用方法も間違っちゃいねーよ」
「ねえ、シュン」
茶化すように言っていると、真剣なトーンで冬香に名前を呼ばれた。
天井をなんとなく見やっていたが、視線を移動させ、冬香の方を見る。
声のトーン通り、冬香の表情にはふざけた感じがない。
真剣に俺を見据えてきていたのだが、そこにはわずかに悲しんでるような、そんな色も伺えた。
「……? なんだよ?」
「ちょっと聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
「うん」
「そんなにかしこまらなきゃいけないことなのか?」
「……うん。かしこまらないといけないこと」
なんだろう……?
一瞬頭をよぎったものがあったのだが、それを想像すると、全身から体温が奪われていくようだ。
――私、赤ちゃんができた。
そんなこと言い出さねーよな!?
「じゃ、じゃあ言ってみてくれよ……。その、かしこまらないと言えないことってのを……」
ドクドクと動悸が早くなる。
冬香は頷き、意を決したように口を開いた。
「わ、私がナツタロウ様と別れたって言ったら……どうする……?」
「ほっ。なんだよ、そんなことか――って、は!?」
安堵からの動揺。感情ジェットコースターである。
「え、え、ええぇっ!? なにその質問!? お前まさかナツタロウと別れ――」
「た、例え話だよ!? あくまで例え話っ!」
「例え……話ぃ……?」
「そう。例え話! わわわ別れるわけないじゃん!」
んだよ……。別れてねーのかよ……。一瞬マジで嬉しすぎて昇天しかけちまったよ……。
ぬか喜びの反動でグダッとなり、俺はだらけながら返した。
「そうだな。そうなったら俺はアキナコちゃんと別れるよ」
「……へ?」
「アキナコちゃんと別れて、ふゆ――」
っと、ちょっと待てぇぇぇぇぇ!!!
寸前のタイミングで無意識に動いていた口をふさぐ。
いや、なに言ってんだ俺! なに言っちゃってんだ俺ェ!
「い、いやぁ、ハハハ! アキナコちゃんと別れて、冬になったらまたアタックしてみようかなぁ! 男なら振られてもまたぶつかってみろー! なんつってな! ナハハハ!」
あああ危ねぇぇ……! これで言い逃れできたか!?
「で、でも……なんで私がナツタロウ様と別れたら……シュンも別れるの……?」
「っっっ! そ、それはっ!」
全然言い逃れできてなかった。
例えるなら、自軍の旗を付けながら敵兵に「ハッハッハッ! 俺、味方味方!」なんてバカ言ってるようなもんである。撃ち殺されて終わりだ。今はそんな状況。
「ねえ、なんで?」
ほのかに赤くなった冬香が、食い入るように俺の顔を見つめながら問うてくる。
心なしか距離もどこか近くなってるような……。
「あ、あれぇ? おおお俺、そんなこと今言ったっけぇ?」
「言ったよ? ほら、これ」
言って、冬香はサッと胸ポケットから小型の機械を取り出した。
『そうだな。そうなったら俺はアキナコちゃんと別れるよ』
「ろ、録音機ィ!? いつの間に!? てかなんでそんなもん持ってんだよ!?」
「常備してる。ていうかそんなの今どうでもいい。ねえ、シュンどういうこと? なんで私がナツタロウ様と別れたらアキナコちゃんと別れるの? ねえどうして?」
「ふ、冬香さん、ちょっと近いですっ……! きょ、距離が……!」
「お願い。答えてシュン。私、もう――」
ガチャリ。
「ふゆちゃーん、アキコちゃんが今日はもう泊まらせてって言ってるけどどうし」
空気が凍りついた。
四つん這いになって俺に迫る冬香。
迫られている俺。
そして何も知らずに部屋の扉を開けたお袋。
………………………………。
状況的に言って、自家発電してるところを見られるよりもそれは恐ろしいことであり、とんでもないことであり、ヤバいことであり、恥ずかしいことだ。
だって、傍から見ればそれはもう――
「オホホ……。お邪魔しちゃったみたいねー、ごめんなさーい」
「「違うからぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」
おっぱじめようとしてた。そんな状況と捉えられてもおかしくないのだから。
〇
結局その日、冬香は帰った。
そりゃあそうだ。このまま俺んちに泊まってしまえば、お袋と冬香ママの間で『それ』をやってしまった仲だと捉えられてしまうことは確実。
ついでに言えば、付き合ってると思われてもおかしくないのだ。
それはあり得ない。
冬香にはナツタロウがいるし、俺には……アキナコちゃんがいる……ことになってる。
それは揺るぎない事実でなのだ。変な勘違いは生み出させちゃいけない。
だけど、俺の中でちょっとした疑問が残ってるのもまた事実ではあった。
あの時、なんで冬香はあんな質問をしてきたんだろう?
まさか、別れはしてないけど、不仲だとかそういうことなのか?
解消されない分、憶測で考えるしかない。
まあ、その憶測を頭の中で飛び交わせたところで無意味なものなのだろうが。
「……つっても、俺からすれば帰り際のあの一言だけで充分だな……」
仕方なしに言ってやった俺の言葉。
『付き合ったばっかだけど、あんま上手くいってないんだよ。俺、アキナコちゃんと』
その冬香の返しだ。
『……ふーん。そう』
背を向け、顔を隠しながら、心底嬉しそうな表情で言ってくれたあいつの一言。
それは二つの文字からなるそっけない言葉以上の意味を持っていて、俺を幸せにしてくれるには充分なものだった。




