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銀行強盗、人質女性の失禁

作者: クリア

【1】


 椅子に縛り付けられた若い女性――横瀬麻衣は、周囲からの注目を避けるようにうつむき、苦悶の表情を浮かべて唇を噛みしめた。足首を椅子の足にロープで厳重に拘束されていたが、わずかに動かせる部分だけを使って激しく足踏みする。静まり返った室内にハイヒールの音だけが鳴り響いていた。


 ――どうして私だけがこんな目に……。


 彼女は自分の定めを呪わずにはいられなかった。他にも人質になった人はたくさんいるのに、なぜ、自分だけが衆目の前で拘束させられなければいけないのか。自分だけが、女性の尊厳を貶められなければならないのか。


 ――どうして。


 女の呪詛は誰にも届かず、胸の中で空虚にこだました。



【2】


 麻衣は街の中心部に居を構えるとある銀行の窓口担当だった。誰しもが名前に聞き覚えがあるような銀行で、世間一般的にこの銀行の行員であることはいわゆる勝ち組の人間であることを意味していた。


 特段学歴が優れているわけでもない麻衣が一般職とはいえメガバンクの行員になれたのは、ひとえに彼女の見た目が特段に優れているからであった。


 一輪のバラのように凛とした顔つきは見る者から時間を奪う。それなのにお高く留まった素振りを見せず、時には少女のように可憐な笑顔を見せた。その笑顔を見た者は、男はおろか同じ女であっても彼女の虜になってしまう。現在の銀行に就職して3年目になるが、客はもちろん、先輩からも後輩からも好かれる彼女は支店の華といっても過言ではない存在だった。


 その日の午前中は忙しく、客もひっきりなしに来ていた。麻衣は窓口が混雑するのが苦手だった。彼女の見た目は否応なしに人目を引く。来店した男性客の、麻衣の顔や胸、腰回りを値踏みするような視線。見ず知らずの異性に性の対象として見られることに吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えた。高校生くらいのころから体つきも大人の女らしくなり、頻繁に男性から性的な目を向けられていることに気付き始めた。それから10年近く経っても、性的な視線の気持ち悪さに慣れることはない。


 しかし、誰かにこんな悩みを相談することなどできなかった。同性に話しても自分の容姿が優れていることをマウンティングしていると思われるかもしれないし、異性に相談するなどもってのほかだ。


 午前の業務はあっという間に終わった。気づけば、ただの一度も自分の担当窓口から離れることはなかった。


 この程度の混雑はそれほど珍しいことではなかった。彼女は、銀行の窓口は基本的に午前中に混雑することを経験則で知っていた。正午を回ればはけていって、午後になればまばらになるだろう。


 この日も混雑を想定して始業前にトイレに行っておいて正解だった。朝に自宅でコーヒーを飲んで来ていたので一抹の不安はあったが、お昼を迎えた今も、尿意が皆無というわけではないが、まだまだ我慢できる程度に収まっている。


 ――午後の業務が始まる前に行っておけばいいか。


 麻衣は昼当番の行員と席を代わりながらそんなことを考えていた。


 彼女の勤める支店では、行員は執務室の奥、パーテーションで仕切られたスペースで昼食を食べる。昼休憩中であっても咄嗟の事態に対応するためだ。一方、職員の更衣室やトイレは執務室から出た通路の奥にある。そのため、多くの行員は朝のうちに自分のお弁当をあらかじめパーテーションの奥に置いておく。いちいち取りに戻る手間も省けるし、夏場はエアコンの効いていない更衣室に放置すると傷んでしまう恐れがあるからだ。


 麻衣はパーテーションの奥に隠れるや否やペットボトルのお茶を一気に飲んだ。朝から忙しかったせいで一度も水分補給ができず、喉がひりつくほどの渇きを感じていたのだ。気づけば500mlのペットボトルのうち半分がなくなっていた。


「横瀬さん、そんなに喉が渇いていたんだね」


 斜向かいで、総合職の男性の先輩が呆気にとられて見ていた。


「ごめんなさい、午前中ずっとお客さんが来ていて水を飲むタイミングがなかったんです」


 麻衣は急に恥ずかしくなってはにかんだ。


「時間内でも適宜休憩していいからね」


 そう言ってほほ笑む先輩行員は、名を桜庭といった。


 麻衣は桜庭を快く思っていた。年はアラサーくらいで、きれいな奥さんと小さな子どもがいる彼は、他の下品な男とは違い麻衣にいやらしい視線を向けることはない。女性に対する扱いが丁寧で、しかも見た目で差別することがなく、麻衣も他の女性行員も平等に扱ってくれる。見た目も爽やかな好青年で、女子更衣室でいい意味で話題に上る男性行員の上位に君臨していた。


 桜庭の隣に上司の行員が来て話かけたため、彼とそれ以上会話を続けることはない。


 ――やっぱり、いい人だな。


 麻衣は上司と談笑する桜庭の横顔と、お弁当箱を持つ左手で透き通った光を放つ指輪をぼんやりと眺めていた。



【3】


 そんな時だった。室内に男の怒声となにかを蹴り飛ばすような鈍い音が響き渡る。次いで、女性の甲高い悲鳴が雷のように全身を貫いた。


 麻衣は反射的に身を起こし、パーテーションの外を窺う。


 黒い覆面で顔を覆った男の3人組。手には拳銃のようなものを握り、そのうちの1つが執務室の方に向けられている。


 窓口担当だった行員たちは待合室の隅に集められて縮こまっている。すぐ隣に男のうちの1人が立ち、銃口を向けて彼らの動きを制していた。


 男たちは麻衣の姿を見止めると、こちらに銃口を向けてなにやら怒鳴り声を上げていた。手を振ってなにかを促している。


 麻衣は頭の中が真っ白になった。相手がなにを言っているのかさえ理解できない。耳に入ってきても頭が働かず、同じ国の言葉を喋っているのかさえ判別できないのだ。足がすくみ、震えだす。胸の中が凍り付くような恐怖だけを強く感じる。男がまた強く叫び、肩がびくっと跳ねる。


「手を挙げて、前に出よう」


 後ろで低い声がして、麻衣は現実に立ち戻る。


 振り返ると、青白い顔を浮かべた桜庭が手を挙げて前に進み出た。それにならって麻衣も続いていく。


「これで全員か?」


 店内にいた人たちが待合室の一画に集まった後、覆面の男の1人が尋ねた。


 しん、と場内が静まり返る。


「全員かって聞いてんだよ!」男が椅子を蹴り飛ばすと、


「全員です」麻衣の隣で桜庭がか細い声を絞り出して答えた。


「そうかい」


 男たちは手分けして持っていたロープで行員たちの両手を縛って回った。慣れた手つきで、あっという間に麻衣たちの自由が奪われていく。


「支店長はこっちに来い。金庫を開けろ」


 促されて、覆面の男に随行して支店長が執務室から出ていく。背中には拳銃を突き付けられている。恰幅のいい両肩も小刻みに震えて小さく見えた。


 行員は皆一様に不安そうな顔を浮かべ、支店長が出ていったドアを見つめていた。


「まあそういうわけだから」残った覆面の男が行員たちを振り返る。「命が惜しかったら何もするなよ」


 その言葉で、麻衣はようやく彼らが銀行強盗であることに思い至った。


 ――お客さんのいない昼時でまだよかった。


 次に出てきた感想は不自然なほどこの場に似つかない暢気なものだったことに自分自身で驚いていた。



【4】


 待合室の時計で数えて3時間ほどが経過した。


 窓にはスクリーンが掛けられていたので外の様子はわからなかったが、なにやらただごとではない騒々しい雰囲気だけは伝わってくる。おそらく警察車両が支店の周りを取り囲んでいるのだろう。待合室には2人の強盗がいて、1人は警察と交渉しているのか席を外していた。人質の中で言葉を発する者はいなかった。皆、気配を押し殺して自分の存在をできるだけ小さくしている。呼吸さえできるだけしないようにしていた。


 そんな中、麻衣はこの状況下できわめて不都合な生理現象を感じていた。


 ――と、トイレに行きたい。


 始業前に行ったきり行けていないのだ。最後に用を足してから、時間にして6時間は経過している。普通に過ごしていて尿意を催さないはずがない。それに、朝飲んだコーヒーと昼のお茶の利尿作用も効いてきているのかもしれない。


 生き物は生きている限り排泄行為から逃れることはできない。まして、男性と比べて小柄な女性にとっては6時間分にもなる大量の尿を膀胱に留めたままにしておくのは異常な状態であった。


 すでに麻衣の尿意は相当高まっており、膀胱の中の尿は普段ならトイレに立っている量を優に超えている。強い我慢状態に陥って、じっとしているのも難しい。


 なるべく目立たないように、タイトスカートから覗く黒タイツの膝を擦り合わせて尿意を紛らわせる。しかし耳が痛くなるような静けさの中ではかすかな衣擦れの音さえも目立ってしまい、隣の行員に咎めるような視線を向けられた。


 終わりの見えない我慢のことを思うと、次第に「トイレ」と「おしっこ」のことしか考えられなくなってきて、気づかぬ間に汗ばんでいた。


 ――ああ、トイレに行きたい。本当に、おしっこがしたい。


 自分の記憶をたどってもこれほどまでに尿意を我慢したことは数えるほどしかなかった。麻衣は物心ついたときからトイレのことで失敗した記憶がない。せいぜい大学のコンパで先輩に乗せられて酒を飲みすぎてしまい、終電から降りられず最寄り駅に着くまで身悶えしながら我慢したときくらいだろうか。だが、それでも今ほどの緊張感を覚えたことはなかった。銀行強盗という非日常的かつ下手を打てば殺されるという恐怖がスパイスとなって、麻衣の尿意を実際の尿量よりも強く感じさせていた。


 ――こんなことになるなら、昼休みに入ってすぐにトイレに行けばよかった。


 麻衣は眉間にしわを寄せつつ、ぴったりと閉じた両足に力を込めた。


 支店の待合室には10数名の行員が人質となり、拘束されている。これだけの人がいて、3時間も放置されていたのなら、麻衣の他にもう1人くらい尿意を感じている人がいてもおかしくないはずだ。麻衣はそう思い至り、他の行員の顔色を窺った。


 あわよくば、その人にトイレの申し出をしてもらって、自分も乗っかる形でトイレに行きたい。往々にして女性は自分からトイレを申し出にくい立場にある。トイレを申し出るということは、自分が我慢できない尿意を覚えていることを周囲に明らかにすることであり、このままでいると漏らしてしまうことを告白することに他ならないからだ。それゆえ、常に「誰かが行ったから私もついでに行く」とか「別に今行きたいわけではないけど時間が空いたから行っておく」とか、別に切迫していることを人に知らせず行けるタイミングを逃したくない。それは排泄行為やおしっこの我慢を異性に知られることに強い羞恥心を感じてしまう女性の宿命だった。


 ましてや今回は銀行強盗の人質という身分である。トイレに限らず、身体能力に劣る女性が、武器を持った敵意のある男性に対しなんらかの要求をすることは、男性のそれとは比較にならないほどの強い抵抗がある。


 麻衣は抵抗感と尿意の狭間で悶えていた。おしっこがしたくてたまらないです、トイレに行かないとお漏らししてしまいます、と自白するのは本当に避けたい。相手が犯罪者なのだからなおのこと避けたい。でも、本当にこのままだと漏らしてしまう。制服を自身の尿で汚し、自分の股間から水があふれだす姿をすべての人に見られ、聞かれ、嗅がれてしまう。今この場に警察が突入し、至極速やかに犯人を捕らえ、人質を解放してくれない限りは。


 麻衣は縋る思いで桜庭を見つめた。彼なら察してくれるはず。育児にも協力的で女性人気の高い彼なら、女性の身に差し迫った窮状を理解し、助けてくれると信じていた。


 こちらと目が合った桜庭は相変わらず青白い顔をしていたが、はっと何かに気付いた顔で麻衣を見返し、神妙な面持ちで小さくうなずいた。


「すみません。お手洗いに行ってもいいですか」


 桜庭は相手を逆撫でしない穏やかな声色でありながら、しっかりと要求を呑んでほしいことを伝える口調で尋ねた。


 覆面の男がお互いに見つめ合い、顎で指示された方が、「ついてこい」と、銃口を桜庭に向けつつ指示を出した。


 ――さすが桜庭さん。


 麻衣は感動のあまり涙をこぼしそうになった。彼の洞察力と、このような状況下においても行動に移せる意志の力を称賛したい気持ちだった。彼が妻帯者でなければ好きになってしまうところだ。


 3時間も拘束されていたので当然のことであるが、やはり他にも数人トイレに行きたかった人はいた。桜庭が口火を切ってくれたおかげで、皆「私も」と声を上げる。もちろん麻衣もそれに続いた。


「1人ずつ、順番だ、馬鹿ども」男が不機嫌そうに制する。


 そうして、トイレに行きたい人が列になって執務室のドアの前に並んだ。犯人と行員の1人が通路の奥に消え、用を済ませたら別の行員と入れ替わる。


 桜庭は順番を譲ってくれたが、それでも一番乗りで行くのは気恥ずかしくて遠慮した。事ここに及んでもなお自分の尿意が危険水域に達していることを周囲に悟られたくなかったのだ。


 結局、麻衣は前の方でも後ろでもない中途半端な位置に並んだ。トイレに行くために、立って動いてみると、自分の尿意が想像以上に高まっていたことに気付いた。少しの振動を与えただけで、腹の奥にずん、と響く。膀胱の中で尿が波打つのを感じられる気さえした。


 前の人が帰ってきて、ようやっと麻衣の番が回ってきた。


 ついに、思い切り用を足せる。


 人目を憚らない個室で、陰部を露出して、ウォーターカッターのような水勢の小水を、勢いそのままにほとばしらせることができる。


 我慢に我慢を重ねたことで溜まりに溜まった女性の尿を、思うがままに便器にぶちまけられる。


 ――本当に、間に合ってよかった。


 麻衣は執務室の扉の向こうに洋式便器の幻影すら思い描いていた。


 そして、通路に向こうに踏み出そうとしたとき、


「待て」


 男の無情な声が響く。


「……え?」


「お前はだめだ。戻れ」


「ど、どうしてですか」麻衣の頭はショート寸前だった。


 トイレに行けると思い気が緩んでしまったのか、ここにきて抑えきれない尿意の波が訪れた。衆目の視線が自分に集まっているのにも関わらず、もじもじと内股になって膝を擦り合わせてしまう。もはや誰の目にも麻衣がずっと前からおしっこを我慢していてもはや限界が近いことが明らかになってしまった。


「理由なんかねえよ、戻れ」


 男がにたにたと下卑た笑いを浮かべているのが覆面越しにもわかった。


「それ、最高っすね」


 もう1人の男も名案といわんばかりにほくそ笑んでいる。


 一瞬で彼らが何を考えているのか理解した。


 愉しんでいるのだ。


 1人の美しい女性が人質となり、自由にトイレにも行けず苦しむ姿。身をよじり、地団駄を踏み、すらりとした両足をもじもじさせて苦悶の表情を浮かべる姿は、特定の性癖を持っていなかったとしても男性の嗜虐心をそそることだろう。


 もっと見ていたい。この女が許容量を超えた尿意に苦しみ、人目を憚らずに足をくねらせおしっこを我慢する様を見続けたい。そして、本当に漏れてしまいそうになって涙ながらにトイレを懇願する姿を拝みたい。それでもなおトイレを許されなくて、ついに我慢ができなくなって、幼子のように泣きじゃくりながら失禁する姿を見てみたい。女の股間から漏れ出た水が下着を汚し、黒いタイツを伝って床に黄ばんだ池を作る瞬間を見届けたい。


 そんな悪魔のような欲望の対象になっていることに気付く。


 麻衣が他の女性と比べ容姿に優れ、男性の性欲を駆り立てるせいで。


「待ってください。行かせてあげてください」すかさず桜庭が犯人に詰めよる。


「口答えするな! ぶち殺すぞ!」男が椅子を蹴り上げて怒声を張り上げる。


 麻衣は反射的にきゅう、と両足をきつく閉じ、手で股を押さえてしまった。そうしないとちびってしまいそうになったのである。


「戻れ」


 再度、男は有無を言わさぬ口調で命令した。


 麻衣は他の人質のところに戻るしかなかった。


 状況が解決するどころか、悪化した。自分の抱える非常事態をこの場にいる全員が知ることとなってしまったのだ。ずっと隠し通そうと思っていた都合の悪い事実を麻衣自身で暴露してしまった。


 人質たちは気の毒そうに麻衣を見つめる。


 ――見ないでよ。


 麻衣はうつむいてしまった。悔しさのあまり涙がこぼれそうだった。


 女だから、こんな目に遭うのか? 女の中でも特に容姿に優れ、男に劣情を催させるから、トイレの許可ももらえないのか? 誰も好んで恵まれた容姿に生まれたわけではない。こんなふうに男の性欲による暴力に苦しめられるなら、醜い見た目に生まれた方がよっぽどよかった。


 ――お望み通り、今すぐにここで漏らしてやろうか。



 冷静に考えればあっけらかんと自発的に漏らすという手は悪くない。犯人が見たがっているのは、お漏らしをしたくなくて、それなのにおしっこを我慢できなくて苦しむ麻衣の姿だ。逼迫した尿意に取り乱したのなら彼らの思うつぼなのだ。


 つまり、何食わぬ表情で放尿してしまえば奴らのお楽しみを奪うことができる。我慢できずにおしっこしましたけどそれがなにか? とでも言い放ってやれば犯人はがっかりするだろう。やろうと思えば簡単にできそうなこと。女性の股間を締め付ける括約筋を緩めるだけのことだ。ほんの一瞬だけ筋肉を弛緩させてやれば、たちまちにして濁流が麻衣の下着を呑み込み、床に広がっていくことだろう。


 麻衣は目を閉じ、頭の中で「ここはトイレ、ここはトイレ」と唱えて自発的な排泄を促してみる。


 しかし、できなかった。人は誰しも子どものうちから排泄はトイレでのみ許される行為と教えられている。他の場所で、異性に見られながらするのは恥ずかしいこと、と。それは体に染みついたルールといっても過言ではない。それ以外の場所で、しかも着衣のまま放尿しようとしたところでどうしても理性がストッパーをかけてしまう。


 ――こんなところで漏らすのだけは嫌……!


 それゆえ、麻衣にだけ理不尽にトイレ禁止の命令が下されてもなお、お漏らしという末路だけはどうしても受け入れられなかった。


 もはや我慢を隠す必要もなくなってしまった。麻衣は前後に体を揺すり、股に手を当てて尿意をこらえた。全身に痛いほど視線を感じる。哀れみの視線と、性的な興奮の熱を帯びた愉悦の視線。


 ――私がおしっこを我慢してもじもじする仕草でそんなに興奮するか? この、変態。


 悪態を吐くことさえできない。麻衣は全身が茹で上がりそうなほどの憤りと、無力感と、焦燥感を、すべて両足の付け根と手に込めて、おしっこの出口をぎゅっと押さえ続けることしかできなかった。



【5】


 そこから更に1時間と30分くらいが経過しただろうか。


 1人、2人とトイレを申し出る者がいた。もちろん、彼らはトイレに行くことを許された。


 麻衣だけが、依然としてトイレに立たせてもらえない。新しくトイレに立つ者が出るたび、犯人は性欲まみれの興奮した視線を麻衣に向ける。


 まだ漏らさないのか、早く漏らせ。いい年した女が人前で尿意を我慢するも力及ばず失禁した時にどのような顔をするのか見せろ。下着もタイツもスカートも自身の尿で濡らし、床に羞恥の水たまりを作れ。その中でなすすべもなく赤子のように泣きじゃくれ。


 そんな心の声が聞こえてくるようだった。


 麻衣の尿意はすでに限界を超えていた。膀胱に溜まりきった尿がその出口を開こうとしてぐいぐいと押してくる。熱っぽい痛みさえ感じる。


「うっ、うぅ」


 声を押し殺すこともできなくなってしまった。尿意の高まる瞬間に吐息がこぼれ、全身が強張る。あと何回、この波に耐えることができるだろう。全身が異様に発汗し、体温の上昇を感じる。


 それでもまだ、失禁という絶望の未来を避けようとして我慢を続ける。諦めるという選択はどうあっても取ることができなかった。それは死ぬのとほぼ同義。麻衣の女としての矜持が失禁という結末だけはどうしても許せなかった。


 まだわからない。犯人の気が変わってトイレに行かせてくれるかもしれない。漏らしてしまう前に警察が突入して解放されるかもしれない。失禁を逃れる希望が1ミリでもある以上、我慢を諦めるのは最低な男たちに屈したことを意味する。


 ――トイレに行きたい、行きたいよぉ。


 間違いなくこれまでの人生で最大の尿意であった。学生のときの我慢もこれほど過酷ではなかった。人前であからさまなおしっこ我慢のポーズを取ったこともなかった。


 高校の修学旅行の時、バスの中で女子生徒が尿意を催し、途中のSAで急遽トイレに寄ってもらったことがあった。その時の彼女は、他の生徒やSA利用者が見ているにも関わらず、股間を全力で押さえる手を決して離しはしなかった。あの時はよく人前であんな恥ずかしい真似ができると内心小馬鹿にしていたが、自分がその立場になってみると他人の目を気にしていられないことがよくわかる。


「トイレ」と「おしっこ」が支配していた脳内に「お漏らし」が割って入り、今となってはもっとも比重を占める言葉になってしまった。


「い、嫌だ……」


 麻衣は涙目になって頭を振る。お漏らしだけは、どうか許してください、神様。


「っく、うぅぅぅう」


 また尿意の波が高まって、全身に力が入る。太腿を震わせ、両の手で股間を握りしめ、揉みしだく。その行為は自慰のようでもあった。


「……限界か?」


 ふと、頭の上から声がして、見上げる。


 麻衣にトイレ禁止を命じた、諸悪の根源の男だ。


 我慢に集中しすぎて、近くにきたことにさえ気づかなかった。


「げ、限界です……」


「限界になるとどうなるんだ?」男の声音から真意を探ることができなかった。「言え」


「っ……も、漏らしてしまいます……」


 漏らす、と改めて言葉にすると本当に出そうになってしまい、両手に力が入る。


「来い」そう言って、男は部屋の奥に進む。


 ――行かせてくれるの?


 麻衣は希望を抱かずにはいられなかった。


 考えて見れば、ここで失禁されたら犯人も困るのだ。床は汚れるし、液体だから広がって犯人の靴や他の人質の衣服に染み込んでしまうかもしれない。そうなれば待合室は臭くてたまらない空間になるだろう。ここに籠城する犯人にとっても、部屋の快適さが低下するのは嫌なはずだ。


 そんな甘い希望を持った自分を、即座に呪った。


「座れ」


 男が示したのは一人掛け用の椅子だ。


「……え」


「座れ」銃口が麻衣の眉間に向けられる。


「……はい」


 麻衣はふらつく足取りで、沈むように椅子に座った。


 男はもう一人にロープを持ってこさせ、麻衣の上半身を椅子の背面に縛り付けた。両手の拘束を解き、手首をそれぞれのひじ掛けに、足首を両足が閉じられないようそれぞれ椅子の足に拘束する。


「そんな、待ってください」


 縛り付けられる間も、麻衣は涙目になりながら懇願した。


「本当にもう我慢できないんです。じっとしていられないんです。こんなふうに縛られたら、ほ、本当に、駄目なんです」


 麻衣の願いが聞き入れられることはなかった。


 男は、囚人のごとく椅子に縛り付けられた麻衣を見て首を傾げる。


「こうだな」


 そうつぶやくと、麻衣のタイトスカートを太腿の上までまくり上げた。黒タイツ越しに下着が露になる。パンツが丸見えになってしまった麻衣の拘束姿を舐めるように眺めると、満足そうにうなずいた。


「……なんで、そこまでするんだ」


 人質の沈黙を振るえ声が破る。室内の目という目が声の主を振り向いた。視線の先に、青白い表情で小さく首を振る桜庭の姿があった。


 どうしてそこまでする必要がある。お金が目的じゃないのか。特定の個人をここまで辱める必要がどこにある。


 彼の言葉にはいくつもの憤りが込められていた。


 犯人は無言で桜庭の隣に歩み寄り、腹を思い切り蹴り上げた。


「う、ぐ」桜庭が悶絶する。


 犯人は追い打ちをかけるように彼の髪を掴んで顔を上げさせ、口の中に銃を突っ込んだ。


「がたがた抜かすんじゃねえ。人質の1人や2人、死んじまったって構わねえんだぜ。殺されたくなかったら大人しくしてろや」


 犯人が凄みを利かせると、桜庭は震えあがってしまい、何も言えなくなった。


 続けて、犯人は桜庭の髪を掴んだまま引きずり、麻衣の目の前まで連れてきた。


「てめえのために特等席を用意してやる。絶対に目をつぶったり、顔を背けたりするな。お前がちゃんと見ていないと判断したら即座に頭をぶち抜いてやる」


 彼のこめかみに銃口を突きつけ、ぐりぐりとねじりながら、犯人は続ける。


「よかったなあ、お前。こんなにきれいな姉ちゃんのパンツを間近で拝める機会なんてそうそうないぜ? ……よかったなあって聞いてんだろ!」


 桜庭が答えないと、犯人は銃口を突きつけたまま怒鳴りつける。


 桜庭は涙声で肯定し、震えた笑いを返した。


 麻衣は眼下の桜庭を直視できなかった。彼がどんな顔を浮かべて自分のスカートの中を覗いているのかを知るのが怖かった。


「お願いします、トイレにいかせてください。お願いします」


 もはやスカートを勝手に捲られた程度の些細な性的嫌がらせなどはどうでもよかった。ただただ漏らしたくない。なんならトイレで用を足している音を犯人に聞かれたっていい。でもどうしても、これほど大勢の前でおしっこの我慢ができなくなってしまった瞬間を明らかにし、失禁姿を公開するという辱めだけは受けたくなかった。


 体の中心に力を入れ、椅子を揺らす。表情は苦痛で歪み、唇は小さく震えていた。


 麻衣は椅子に縛られた状態で、人質の行員と向き合う形になった。彼らは哀れみの目を麻衣に注ぐ。


 その中で、ほんのわずかではあるが、色めき立ったような雰囲気を敏感に感じ取った。同時に、顔面に水をかけられたような気がした。あろうことか、同僚のはずの行員でさえ、目の前の状況に興奮しつつあるのだ。


 銀行強盗に襲われ、人質に捕らえられた行員たち。椅子に拘束されたのは支店の中でもっとも美しく、一輪のバラのように凛として、男性を欲情させる女だ。女性は椅子に縛り付けられたまま身動きできず、タイトスカートが捲れて、黒いタイツの奥にパンツが見えてしまっても隠すことができない。そして、この女性はおぞましいほど強烈な尿意を我慢している。あとほんの少しこのままの状態でいれば女は失禁する。露になったパンツのクロッチ部分から、つぅー、と尿が漏れ、パンツの吸水力を超えた尿は滝となり、タイツを伝って床に降り注ぐ。女の恥部からあふれた液体がびちゃびちゃと卑猥な音を立て、足元に水たまりを作る。そんな、普段の生活の中ではとうてい起こりえない出来事をこの目に焼き付けたいという、女性の尊厳を踏みにじるような欲望。


 麻衣は女がつくづく哀れな生き物だと感じていた。


 人以外のほとんどの生き物は、野生下にトイレを持たない。どこでだってする。他の生き物の目を忍んだとしても、それは無防備な状態で襲われるのを避けるためでしかない。


 人間は食物連鎖の頂点に立つがゆえに排泄を隠す必要がない。それでもトイレ以外で用を足さないのは人に理性があるからで、幼少期から排泄はトイレでのみ許される行為であると教えられているからだ。


 それゆえ理性の壁を越えれば外で排泄したっていい。男ならば簡単に超えられる小さな壁。田舎へ行けばおじいさんが立ションしている光景も珍しくない。渋滞にはまったって、男なら最悪道端で用を足せる。


 人の女だけ、自分の排泄行為が異性に性的興奮を覚えさせる可能性を秘める。そのせいで女は排泄に強い羞恥心を覚え、人前で尿意を告白することもできず、自分が尿意とは無縁の生き物であるかのように振舞うことが求められるなんて、あんまりじゃないか。


 もはや、麻衣に失禁以外の道は残されていないように思えた。仮に今この瞬間に警官隊が突入したとしても、弾みで漏らしてしまう。


 それなのに、麻衣は限界失禁に向かうための我慢を続けざるを得ない。女として生まれ、女としての尊厳を持ってしまったがゆえに。



【6】


 椅子に縛り付けられた麻衣は、周囲からの注目を避けるようにうつむき、苦悶の表情を浮かべて唇を噛みしめた。足首を椅子の足にロープで厳重に拘束されていたが、わずかに動かせる部分だけを使って激しく足踏みする。静まり返った室内にハイヒールの音だけが鳴り響いていた。


「トイレにいかせてください……。お願いします、トイレに行かせてください」


 全身の自由が奪われ、もじもじと両足の付け根を締め付けることも、そわそわと膝を擦り合わせることもできない。手で局部を押さえるなどもってのほか。尿意の波に、股間の括約筋ただ一つで立ち向かわなければならない。


 コツコツコツコツ。


 ヒールが響く。


 ――どうして私だけがこんな目に……。


 身をよじるたびに椅子が軋む。


 彼女は自分の定めを呪わずにはいられなかった。他にも人質になった人はたくさんいるのに、なぜ、自分だけが衆目の前で拘束させられなければいけないのか。自分だけが、女性の尊厳を貶められなければならないのか。


 瞼を閉じると後悔ばかりが浮かんでくる。朝のコーヒーを控えておけば、昼休みになってすぐにトイレに行っておけば、あんなにごくごくとお茶を飲んでいなければ、警官隊の突入まで我慢できたかもしれないのに。


 ――どうして。


 女の呪詛は誰にも届かず、胸の中で空虚にこだました。


【7】


 麻衣の我慢は最終局面を迎えた。


 これまでで最大の尿意が股間を襲う。麻衣は全身を痙攣したかのように震わせる。それでも押さえられない。尿が着実に体の外に出ていこうと麻衣の頼りない尿道を押し進む。


 ――い、いやだ、もらしたくない、もらすのだけはいや……!


 願いも空しく、ついに水門はこじ開けられる。


 じゅわ。


 一滴の尿がパンツを湿らせた。


 熱のような音のような感触が股間に染みていく。女性の股間が小水の温もりに包まれていく感覚は、これまで感じたことがないほどの快感であり、同時に最悪の感触でもあった。


「ぅっっああ! ほ、ほんとにもうだめなんです! おねがいします、と、トイレにいかせて……!」


 麻衣は髪を振り乱して泣きじゃくった。もう、駄目だ。10秒たりとも我慢できない。


 一度水門からこぼれた尿の、ひび割れた防波堤を超えようとする力は想像を絶した。もはや麻衣の意志に介入の余地はない。膀胱は絶望的な収縮を始め、トイレではない場所で排泄するなという脳の指示に逆らい排泄体勢に入った。


 麻衣は最後の力を振り絞り、おしっこの出口を閉める。先ほどちびってしまった尿が冷たい。この感覚だと外からでもわかる染みを作ってしまっているだろう。


 頭の中が「お漏らし」に埋め尽くされていく。おしっこが括約筋の壁を越え、じゅわ、じゅわ、と少しずつこぼれ出てくる。そのたびに頭がおかしくなりそうな温かさが股間を襲う。


 誰も彼もがその目を哀れみから好奇の色に変え、麻衣の股間から目が離せなくなっていた。本当は男も女も、若く美しい女性の失禁姿を見たい、美しいものが壊れていく瞬間を見たいというかすかな欲望を持っていたのだ。普段は理性という分厚い壁に阻まれていた背徳的な欲望。それが銀行強盗と麻衣の尿意限界拘束という非日常のハンマーがぶち壊し、本来の欲望を丸裸にしてしまった。


 そして、麻衣の括約筋が限界を迎えたとき、一息で全身の筋肉が弛緩した。


「あ、や、あぁ……」


 しゅううううう……


 麻衣はついに、衆人環視の中、パンツを穿いたまま失禁した。トイレの申し出も自分だけ許されず、椅子に拘束された状態で、残酷なまでの生理現象に苦しみ、女のプライドを懸けた我慢も及ばず、異性も同性も含めた人前で下着の中におしっこをほとばしらせてしまった。


 パンツの中におしっこを出してしまった麻衣は、下着の中に今まで味わったことのない気が狂うほどの熱を感じた。自分が普段から排泄しているものがこんなにも熱いものだとは知らなかった。


 あっという間にパンツの色が変わっていく。そして、尿の量はたちまちにしてパンツの吸水力を超え、あふれ出す。


 極限にまで我慢した尿をトイレまで我慢できず、パンツもタイツも穿いたまま衣服におしっこのお漏らしをしてしまう女。小水が椅子の座面に広がり、一方は直接、あるいはタイツを伝って床にたたきつけられる。


 びちゃ、びちゃびちゃ……


 誰も言葉を発するものはおらず、そのせいで麻衣の尿が奏でる旋律は待合室中に響き渡った。この場にいる誰もが、麻衣の失禁の映像を、徐々にあふれ出した尿が下着に染みを作ってあふれ出る様を、滴る小水が水たまりを作っていく過程を、床に幾筋ものおしっこが落ちる音を、湯気立って漂ってくるアンモニアの臭いも、五感を余すことなく用いて記憶した。


 じょおおおお……


 それでもなお、麻衣の失禁は続いた。8時間分の尿を垂れ流している時間は永遠にさえ思えた。水分を吸収して重くなったパンツに、次から次へと新しい尿が染みていく。


「……見ないで……見ないでよ」


 麻衣は小さく頭を振って、弱々しくつぶやく。その間も失禁は続いていた。括約筋が麻痺してしまったのか力を入れておしっこを止めることさえできなかった。まさに生き恥というほかなかった。人前でやってはいけない粗相を犯してなお、それを取り繕うこともできず排泄を続ける自分が情けなかった。


 スカートもぐっしょりと濡れて変色し、お尻の方に溜まった尿が冷たくなってくる。わずかにでも足を動かそうとすると、ハイヒールの中にたまったおしっこがじゅぶじゅぶと溢れてきた。


 椅子に拘束されたまま、着衣のまま衆人環視の中お漏らしするという最大限の辱めを受け、女性の尊厳を踏みにじられた女性。屈辱のあまりに涙を禁じえなかった。麻衣はうつむいて涙を見せないように努める。涙よりもよっぽど恥ずかしい液体を人前で流してしまっているのに、それでもなお涙を見せまいとする矛盾に麻衣自身もおかしいと思ったが笑えなかった。


 自分の作ったお漏らしの水たまりが広がっていき、桜庭の膝を濡らした。麻衣の人生で究極に恥ずかしい時間をもっとも近くで見届けた彼は、どんな顔で、どんな気持ちで見ていたのだろう。


 結局麻衣は一度たりとも彼の顔を見ることができなかった。痛みをこらえる獣のような荒っぽい吐息だけが何度も何度も麻衣の耳に突き刺さった。


 最後の水滴が水たまりに波紋を作り、麻衣の公開失禁ショーは閉幕した。


 静寂の中、麻衣のすすり泣く声が室内に響く。


 麻衣は顔を上げられなかった。どんな顔で正面の人質たちと向き合えばいいのかわからなかった。


 視線の先には自分のしてしまったことの跡がはっきりと刻まれていた。濡れて変色した下着、小水に浸って妖艶な輝きを放つタイツ。床に広がる水たまりが、麻衣の膀胱にこれほどの尿が溜まっていましたと告白していた。


 麻衣は肩で息をしていた。おしっこを限界まで我慢することと、限界までためたおしっこを漏らすことがこんなにも疲れることだとは知らなかった。


 ――もう、どうでもいい、全部。


 麻衣は憔悴しきって、自暴自棄になっていた。最大級の生き恥を大衆の前に晒してしまった。もはやこの場で殺してくれてもいいとさえ思えた。


「……これで満足ですか? よかったですね、銀行強盗のついでに若い女性のお漏らしを見ることができて……この、変態」


 心からの憎しみを込めた悪態も、強盗犯の嗜虐心をそそるだけだった。


 警官隊の突入はそれから数十分後のことだった。説得に応じた犯人が他の2人と話をするために呼び寄せて人質から距離が空いたところに、警官隊が雪崩れ込むように突入し、瞬く間に犯人たちを逮捕した。


 麻衣は椅子に縛られて失禁した姿のまま保護された。女性警官の持ってきた毛布にくるまって抱きとめられたとき、大粒の涙がこぼれだし、顔を隠すのも忘れて子どものように慟哭した。



【8】

 それから数か月経ったある日の始業前。行員の制服に着替えを済ませた麻衣が女子更衣室から出たところ、偶然にも向かいの男子更衣室から桜庭が出てきた。


「横瀬さん」


 桜庭は目を丸くして立ち止まったかと思うと、


「復帰、できたんだね」優しそうに微笑んだ。


「はい。今日からまたよろしくお願いします」


 麻衣は少女のように無垢な笑顔で答え、先を行く桜庭の後に続いて執務室に向かった。


 決して完全に立ち直ったわけではない。今でもまだあのときのことを夢に見る。男性が怖いという感情を植え付けられたまま、逃れられていない。


 それでも、麻衣は再びここに戻ることを決めた。自分のときのような悲劇を繰り返してはならない。そのために自分ができることをしていきたかった。


「あのときはすみませんでした。その……桜庭さんのスーツを汚してしまって」


 桜庭はわずかにこちらを振り返り、きょとんとしたかと思うと、すぐに神妙な顔で首を振った。


「君が謝ることじゃない。僕の方こそ、軽率な発言をしたと反省している。あの状況で犯人を逆撫でするようなことを言うべきじゃなかった」


 一瞬、ほんの一瞬だけ、桜庭がこれまで絶対麻衣に向けるはずのなかった視線を向けたような気がした。あのときの犯人や欲情した人質のような、性的ないやらしい視線を。


 ――気のせい、だよね。


 麻衣は脳裏によぎった嫌な予感を振り払う。


 節電で消灯しているためほの暗い通路から見ると、執務室の灯りが眩しく、輝いて見える。


 麻衣はいつものように屈託のない笑顔を浮かべ、あのときは一度も通らせてもらえなかったドアをくぐって執務室に入った。



終わり

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