第三話「旅の始まり」
空に太陽が昇る頃、僕と朱里は神殿の入り口でカムズさんと向き合っていた。
「ありがとうございました。とても助かりました」
「使徒様方のお役に立てたのであれば本望です。どうかお気をつけて」
「あの、ありがとうございました」
挨拶を交わすと、2人で並んで歩き出す。
旅立ちに際し大きく変わったのは服装だ。下着やシャツの類はそのままだが、制服ではなくこの世界の衣服に着替えている。
荷物はお互いに背負い袋を1つずつ。中身は食料と予備の衣服、着ていた制服や財布等の持ち込んだ小物が幾つか。そして細々とした生活用品に軽くて高く売れそうなものを少々。あとは腰に小さな水袋がある程度だ。
元の計画ではもっと大荷物になる予定だったのだが、ここ数日で荷物の大幅削減に成功したのは、自慢ではないが僕のおかげだ。
魔術。
リア様の指示通りこの世界の住民たるカムズさんに教えを請い、神殿の書棚にあった魔術の本を読み、二日前に覚えたのが水を出す魔術。これにより水の補給の目途が立ち、最低限のみ持ち歩けばよくなった。更に身体がコツをつかんだのか、順調に火、風を起こせるようになり、昨日の昼には光源も生み出せるようになっていた。
神殿の蓄えは有限であり、一人ほぼ廃村状態の場所に残るカムズさんの事も考えれば、無駄遣いは出来ない。2人で話合いそう考えた僕たちは、旅に必要な最低限の準備、その最後である光源の魔術を覚えたその日のうちにカムズさんを夕食に招待し、旅支度の手助けをしてくれたお礼と、たった1人でここを守っていてくれた事に感謝を告げた。
「カムズさんが一緒に来てくれれば心強かったのですが。いや、むしろ心配事が増えるのか?」
「それはあの人の体力的な意味で? それとも、僕たちの立場的な意味で?」
おそらくどちらもだろう、と思いながらここ数日で再設定した今後の予定を思い出す。
一番変わったのは学友との接触について。恩恵の調査をする必要がなくなった為、積極的に関わる理由がなくなったのだ。それにも関わらず神都に向かっているのは、リア様の言っていた魔玉に関する情報があるのではないかと考えたからだ。
魔玉、と言う名前から察するに、恐らく魔族が住むという魔大陸に、下手をすれば魔王あたりが所持しているものなのだろうと予想できる。有名な品であれば、魔王軍と戦っているという人界連合軍、そのまとめ役である中央神聖教会で情報を聞けるかもしれない。
無論、それだけが理由ではない。生活基盤を整えるための初期資金を得る為に稼いだり、神殿から持ち出した貴重品を売ったりするのに神都商業同盟があり、経済活動が活発で裕福な大都市に向かうのは理にかなっている。住み心地が悪ければ移動すれば良いし、その可能性はどの都市に向かっても同じだ。
「速度、上げますか?」
「様子をみながら、徐々に上げる方向で行こう」
この世界にやってきて変化した幾つか事の1つに、身体能力の向上がある。どうやら恩恵にはそのような効果もあるようで、朱里の体力は既に僕以上となっており、3日前には腕相撲で大敗を喫したりもした。そんな状況から脱却出来たのは、偏に魔術の存在によるものだ。
「便利そうですね、魔術」
「身体能力強化魔術。便利だけど基礎能力が向上してるそっちの方が手間がなくて便利じゃない?」
魔力の込め方と量で性能が変わるこの魔術を、魔力を惜しまず全開で行使する事で腕相撲のリベンジマッチに勝利したのは昨日の夜の出来事だ。勝負がついた瞬間、折角勝てていたのに悔しい、でも女子的にはちょっと安堵、的な表情をしていたのが可愛らしかった。
「でも、色々応用が利きそうです。むしろ利かない訳がない。研究しないのは魔術に対する冒涜行為です。手始めに爆発させましょう」
「身体能力強化以外は今のところ攻撃力がほとんどないし、爆発させられれば色々と使い道は多そうだ。
まぁ、今でも十分便利ではあるんだけど」
便利、と言えばもう1つ検証結果が出たものがある。
日課の梳りをしている最中にふと、朱里の服が妙な汚れ方をしている事に気づいたのだ。肩から袖の一部、背中側の上部が妙に綺麗で痛みもないにも関わらず、腹や胸のあたりは汚れや痛みが散見している。
最初は食べこぼしでもしたのかとからかい半分に囃し立てていたのだが、もしやと気づき、朱里の許可を得て実行した結果、僕が建てた仮説が正しい事が実証された。その仮説とは、万能ブラシの効果が髪だけにとどまらず服にも作用しているというものだ。着用している状態の動植物由来の物限定ではあるが、数度ブラシでゆっくりと撫でると汚れが落ち、痛みも少しだけましになったように見えた。
検証がそれだけで終わる訳もなく、ある意味問題となったのはこの後の実験で判明した効果だ。人間は全身に産毛があるのだから効果が適応されるのではと気づき、万能ブラシならボディブラシにも変化させられるんじゃないですか、あと洋服ブラシと言うものもありますよ、と言う朱里の言葉に従い、実行。
結論から言えば、ボディブラシへの変化は成功し、洗身と洗顔、ついでに髭剃り替わりにも使えたのだが、服ブラシには変化すらしなかった。
他にわかったのは、正しく使えば効果は大きく、適当に撫でるだけなど雑に扱えば効果は小さくなる事。使用出来るのは僕だけで朱里が使っても効果は発揮せず、手渡してしばらくすると虚空に溶けるように消えてしまう事。故に、朱里の洗身はブラシ越しとは言え僕に見られて、触れられても良い部分だけ行う事になった。鎖骨のあたりを撫でていた時、間近で見たくすぐったそうな表情と僅かに漏れ聞こえた嬌声は、中々良いものだった。
「そう言えば髪、大丈夫?」
「大丈夫です。先輩が気合を入れて編み込みましたからね。邪魔にならない程度に切る事にならなくてよかったですね」
「本当によかった」
その長さでは木に引っ掛けたり、魔物やならず者に絡まれた時に掴まれたりして危ないと言う指摘をカムズさんから貰っていたのだが、納得しかけていた朱里を僕ががんばって邪魔にならないようにするから。編み込むからとどうにか説得したのだ。
髪型と言えば、最後にリア様に投げつけられたリボンも召喚可能だという事に気づき、現在朱里の編み込みを留めているのはその一部だったりする。複数召喚可能で、髪紐として使っている間は多分消えたりもしない。少なくとも数日間消える事はなかった。そしてなんと、髪紐のある場所がなんとなくわかると言うとても便利でストーカーちっくな能力を保持していたのだ。
「昼には街道に出られるはずだから、しばらく体力温存の為に静かに歩こうか」
朱里の無言の首肯を受け、僕たちはただひたすら歩き続ける。神殿から持ち出した鉈でたまに枝や草を払いつつ進むと、予定通り、には早い時間に街道へと突き当たった。
「早いけど、お昼にしようか」
「賛成です。さほど疲れはありませんが、神都までは長いようですし」
この旅はまず2日かけて最寄りの村へ。次に1日の距離の少し大きな街へ行き、そこから神都に向かう予定だ。出来ればそこで馬車などの移動手段を確保したいところだ。
「あんまりおいしくはないですね。慣れましたけど」
「スープがないのは思ったより辛い」
昼食は手早くすませようと、硬いパンと餞別に貰った小さな果実だけだ。この果実は早朝からわざわざカムズさんが取って来てくれたもので、日持ちしないので出来れば今日中には食べきってください、と言われている。
簡単な昼食を終えると、水袋に減った分を補給して出発となる。
「おかしい」
「おかしいですね」
街道に出て歩きやすくなった。あまり疲れが来なかった。それ故に徐々に速度を上げて移動していた結果、何故か遠目に小さな村を発見する事となった。
「そろそろ野宿の準備をするつもりだったけど、これはもう村まで行くほうが良いかな」
「かな、じゃなくて行くべきです。野宿しなくて済むならその方が良いです。はっ、まさか先輩、野宿中に私に何かするつもりだったのでは」
しない、と答えなかったのはちょっと下心があったからだと言う訳ではない。髪にちょっと触れるくらいなら起きる事もないだろうし、などとは考えてはいない。むしろ早く着いたのは嬉しい事だ。間違いなく。
「あら、旅の人なんて珍しい」
「はじめまして、アラタと申します。宿泊施設の場所を教えて頂けませんか?」
第一村人発見と同時に声をかけられ、僕は笑顔を心がけて言葉を返す。朱里は微妙に人見知りの気があるので、旅の間は基本的に僕が矢面に立ち続ける予定だ。
「宿泊施設、ねぇ。
こんな小さな村に宿なんてないよ。教会はあるから神父様に頼んで泊めてもらいな」
「なるほど。教会はあっちで間違いないでしょうか」
教会らしい建物を指さし、そう尋ねる。
ここ数日で学んだ知識によれば、この世界の教会は全ての神を信仰する場所であり、神殿は各神様を奉る場所であるのだそうだ。朱里に言わせれば、教会は出張所で神殿は聖地と言う事になる。
「そうだよ。あ、ここの神父様は火の神官だから気を付けな」
「ありがとうございます」
朱里もお礼を言ったのを確認すると、僕たちは教会へと向かって歩き出す。
火の神官だから気をつけろ、と言う助言。これは神官は崇拝する神様に関するものを大事にする傾向があるので、と言う意味だ。今回で言えば、火を蔑ろにしたりせず、丁寧に扱えと言う意味になる。具体的にどうすれば良いのかはイマイチわからないが、とりあえず気を付ける事にする。
「こんな時間に突然お伺いして申し訳ありません」
「神は何時でも門戸を開いております。もっとも、人の身である私はそうは行きませんが」
これは嫌味なのだろうか、それともちょっとした冗句なのだろうか。挨拶を交わした神官の言葉に少し戸惑いながらも、交渉して部屋をつ借り受ける事が出来た。喜捨として幾ばくかのお金を支払って。
「異世界で日本円が使える。違和感が凄いです」
「確かに」
先ほど喜捨として支払ったのは、日本から持ち込んだ日本円だ。書の神監修『お金について』と言う書籍曰く、現在この世界では金貨・銀貨・銅貨の代わりに日本円の流通が始まっている、との事だ。流通元は異世界から来た使徒、ではなく教会であり、神様の仕業であるらしい。
「なんか色々と日本ナイズされてるらしいけど、便利な反面ファンタジー感が台無しと言うか」
「観光地的な違和感を感じますね。観光気分で魔王退治か。何人かやっていそうですね」
教会経由とは言え、神様が価値を保障する通貨。旧貨幣と比較して軽く持ち運びも便利で、偽造すれば神罰がくだる、かもしれない。通貨が日本円のみに統一される日はきっとそう遠くはない事だろう。
「持ち込んだ所持金が使えるのはありがたいけど、そもそもそんなに持ってないからなぁ」
「所詮学生のお小遣いですからね。私は今月の食費と塾の月謝で小金持ちでしたが」
朱里の両親は共働きで、厳しいがやや放置気味だった。それも本にのめり込んだ理由の1つではあるのだろう。あえて家庭環境に嘴を容れたりはしなかったが、たまにそう愚痴を零していた。
「それは置いておくとして、旅程の変更を話し合わないと」
「想像以上に早く移動出来ましたね。恩恵、ちょっと怖く感じて来ました」
「運動不足の朱里があれなら、運動部連中はすごい事になってそうだ」
僕の方は運動不足と言うほどではないつもりだが、運動部とは比べるべくもない。
「実験も兼ねて、明日は目的地まで走ってみましょうか?」
「移動速度の確認、か。やっておくに越した事はないかな」
もしかしたら馬より早く移動出来たりするかもしれないし、と口には出さずに思いながら、背負いカバンに手を入れて本日の夕食を取り出す。竈の利用もその為の燃料も有料、と言うか個別に喜捨が必要と言う事なので朱里の提案で節約の為に夕食もパンと果実のみとなった。元々今日はその予定だったのだが、せっかく村に着いたのにと言う気持ちがない訳ではない。
「次の街に着いたら宿でちゃんとした食事をとれますよ、きっと」
「そうだといいなぁ」
手早く食事を終えると、寝床を整える。朱里が眠る予定のベッドは丁寧に、自分の方はおざなりに。
「ありがとうございます」
「次は朱里の方を整えよう」
「……何故でしょうか。感謝の気持ちが全部飛んでいきました」
良い笑顔でブラシを向ける僕に呆れ顔の朱里は、それでも素直に状況を受け入れてくれた。
編み込みを解き、櫛とブラシを通して行く。本来であれば野宿をする予定であり、髪を解く余裕もないはずだった。早く着いたおかげでこうして日課となりつつある朱里のお手入れが出来るのだ。嬉しくないはずがない。
「明日はポニーテールにしようか」
「森の中を歩く訳でもないですし、走りにくくもない髪型ですし、お任せします。あぁ、こうしていつの間にか先輩色に染められて行くんですね」
よよよ、と口元に手をあてる。泣き真似のつもりのようだが、相変わらず声色は平坦である。
「身体拭くなら水も準備するけど」
「お願いします」
雑談と共に髪の手入れと、ついでに朱里の服と身体の清掃を終えた後、僕は約束通りに水を準備した。もちろん、朱里が清拭する間は部屋を出て鍵のない扉を守っていた。その後は明日も早いからとすぐに床にはいる。
「ねぇ、先輩」
「ん、何?」
「そう言えば同室で眠るのは初めてですね」
それになんと答えれば良いのやらと考えていると、朱里の方から面白がっているような気配を感じた。揶揄われたと気づいた僕は、その言葉無視して眠る事に決め、目を閉じる。
こうして旅の初日は終わりを告げた。