第二話「女神様の夢」
意識が遠ざかったと思った瞬間、目が覚めた。
何故か妙にはっきりとしている思考が熱を帯びているのを自覚し、軽く混乱しながらもなんとか最低限の冷静さは失わないように努める。
「誰か居るのか?」
地平線も壁もない、どこまでも真っ白が続いている空間に向かって問いかける。僕はいつの間にか数時間滞在しただけの、しかし忘れる事の出来そうにない空間と同じ場所に立っていた。
「この景色はお気に召さない?」
鈴を転がすような声。
瞬きの間に現れたのは、黒い空とモノトーンの床。そこに立つ1人の少女。
「ここは貴方の夢の中、のようなものです」
ハイティーンと思わしき、透き通るような長い銀髪の美少女。その瞳はトルマリンよりも美しい碧。
こんなに美しい銀髪に巡り合う事はもう二度とないだろうと確信出来る、まさに神懸かり的な美しさだった。
「異世界の方。どうか、私の使徒になって頂けませんか」
「わかりました」
即断で返答を返すと、少女に向かって一歩踏み出す。
「怪しく思うかもしれませんが、私はあちらの神々と違って改宗しても寿命を奪ったりはしません。ですので、一先ずお試し感覚で、って、え? いいの?」
困惑している少女に手を伸ばそうとして、気づく。そういえば目の前の少女の名前を知らないな、と。折角の綺麗な銀髪の持ち主なのだ。名前くらいは知っておきたい。あと、触る前に自己紹介くらいしておくべきだろう。常識的に考えて。
「僕のことはアラタ、と。美しい銀髪さんのお名前を伺っても?」
「髪基準なのね。
私はタリアと言います。人界の女神、と呼ばれる事もあります。出来ればリアと呼んでください」
「わかりました。とりあえず髪に触ってもいいですか?」
返答を待たず手を伸ばす。しかし自称女神のリア様にするりと二歩分の距離を取られ、手は虚空を掴んでしまう。
「あ」
我に返る。
やってしまった。どうやら僕は朱里と出会った時と同じ過ちを繰り返してしまったようだ。
「ごめんなさい。不躾な事を」
「えっと、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないので髪に触らせてください」
まだ思考と行動がおかしい。制御不能だ。理性も「もう言っちゃったんだから許可を貰えればラッキーだし、ダメなら今謝っても後で謝っても一緒」と告げている。間違いなくおかしい。
「なんて執着心。怖いくらいですね。
申し訳ありませんが、女神として軽々しく触れさせる事は出来ません」
「そこをなんとか」
「ダメです」
「もう一声」
「ダメなものはダメです」
「リア様の従順な使徒になりますから」
その言葉に初めて、リア様が考えるような素振りを見せる。このまま押し切れるかな、と思っていたらとても嫌そうな顔をされてしまう。
「どのくらい触れさせれば使徒になってくれますか?」
「何時でも触り放題なら間違いなく」
「それはダメ。今、ちょっとだけ触らせてあげるから使徒にならない?」
「良いですけど、しばらくしたら改宗するかもしれません」
ぐっ、と声を洩らすリア様は、少し不満気で今まで一番可愛らしい表情をしていた。
これなら押し切れるかな。
「改宗したくなった頃にまた触らせてください。あ、何ならお手入れしますよ」
「むぅぅ。
はぁ、えり好み出来る状況でもないし、仕方ないか。その代わり、きっちりと働いて貰いますからね」
リア様がげんなりとしながらそう零し、手を右から左に振ると一脚の椅子が現れた。リア様は視線を向ける事なく、背もたれの低いそれに腰掛ける。
「はい、これ」
「リア様の仰せのままに」
大仰に返答を返しながら受け取ったのは、高級そうなブラシだ。
これで手入れをしろ、と言う事だろうと理解した僕は、ひとまず髪に指を通すのを我慢して一房手に取ると、その先端を丁寧に梳る。
「貴方にしてもらいたいのは、ある場所にある魔玉と言う宝石を手に入れる事です。
手に入れて、私の元へ持って来てください」
一房、また一房とブラシをかけていく。全ての髪が終わるまで、何回も何回も、繰り返し。
「この世界には魔術と呼ばれる技能があります。貴方たちが恩恵と呼ぶ異能を持つものは使う事が出来ませんが、貴方なら技能を収める事が出来るでしょう。使い方は現地の者から学んでください」
先端のブラッシングを終え、次は先ほどよりも根元に近い部分にブラシを当てていく。そろそろブラシの清掃を、と思ったのだがブラシには一切の汚れはなく、渡された時と変わらない新品同様の状態だった。女神様は抜け毛とかしないのだろうか。
「神の、いえ、万能ブラシの能力です。即興とは言え、私が作り出した物なので一応神器級の性能があります」
「便利ですね。これ、頂いても?」
「使徒にはその証として神器を与えるつもりでしたけど……」
どうやら貰えるらしい。
これで朱里の髪を梳ったら神級の黒髪になるのだろうか、と考えて思い出す。そう言えば契約切られたんだった、と。
「ついでにリボンとかゴム紐とかシュシュとかも貰えません? あ、櫛もあれば」
「女神相手にこれだけ要求する図太い神経の癖に、髪をとかす手は繊細で、とても上手ですね。
あ、ブラシの形状は色々と変えられますよ。万能ブラシの名は伊達じゃありませんから」
悔しそうな気持ちよさそうな表情のリア様を横目に、ブラシへと目を向ける。櫛になれ、と念じてみると、万能ブラシは櫛、いわゆるコームと呼ばれる板状のものに変化した。この櫛は見覚えがある。朱里の髪を手入れするために奮発して買ったつげ櫛と同じ形状だ。
「髪紐は、はいこれ」
言葉と共に中空に現れたのは、リボンが1つ。もしかしてと試しに万能ブラシと同じように念じて見ると、リボンはシュシュになり、次いで2本のゴム紐にもなった。
ふと思いついて剣と盾を思い浮かべてみたが、どちらも変化はなし。どうやら変化できる範囲は決まっているようだ。
「話を戻します。
いきなり魔玉を手に入れろ言われても困るでしょう。なのでまずはこの世界に慣れてください。貴方が力をつける度、その時々に必要な導きを与えます」
「そしてその度に髪に触らせてくれる、と?」
「むぅぅ。
仕方ないですね。私も気持ちよくない訳でもないですし、許可します」
髪を一房手にして、根元からブラシを通す。さらりと流れる髪の感触を指先で感じながら次の一房を手にし、同じようにブラシを通す。
そろそろ髪も梳り終わる。次はヘアメイクだ。
「そうそう。恩恵などと言って異能をばら撒いている自称神々に関してですが。
無理に敵対する必要はありませんが、邪魔なら排除してもまったく問題ありません」
右から髪を一抄い。ゴムで束ねたら左も同じ様に一抄い。後頭部でまとめてリボンを付けたら出来上がり。
「ただし、紫っぽい女は私の敵です。あれは魔界の神。絶対に誘いに乗ってはいけません」
脅しをかけるように目を吊り上げるリア様。しかし残念な事に後頭部に付けた可愛らしい特大リボンのせいで威厳はあまり感じられない。装いに印象がひっぱられるせいもあり、子供が精いっぱい背伸びしているようでむしろ微笑ましい印象すら感じる。
「わかりました、気を付けます」
「声が震えていますよ、私のアラタ。もう」
両腕を胸の下で組み、私は怒っていますと全身で主張しながらそう告げられても、やはりどこか可愛らしい印象が強く、僕は口角が上がるのを抑えきれない。
「もう、いいです。続きは次の機会に話しますから、今日のところは帰りなさい」
「わかりました、リア様」
リア様の宣言と同時に視界がぼやけ始め、瞼と頭が下がっていく。
この後はすぐに目が覚めるのか、しばらく眠れるのかどちらかな等と考えていたら、何かをぶつけられた感触が額を襲い、驚いて顔を上げる。リボンか、これ。
「人界の女神、タリアからの神託です。
この世界を旅して、強くなりなさい。そして出来れば、この世界を好きになってください」
心地よい鈴の音に誘われ、再び意識が微睡み始める。
そう言えば結局、手入ればかりであまり髪を撫でたり触ったり出来なかったな、と心残りに思いながら僕は瞼を閉じていく。
「あと、次は違う髪型を所望します」
気が付けば瞼は完全に閉じ、意識は落ちていた。
こうして女神様との初対話は終了し、僕はその使徒となったのだった。
*
目を覚まし、朝食を終えた僕は、硬い床に正座していた。
ある意味で自業自得の状況ではあるのだが、1つだけ納得いかない点がある。
「即決したのは朱里も同じはずでは?」
「今、私の話はしていません。
それに色香に惑わされた人にそんな事言われたくないです」
そう冷たく言い放ったのは、長椅子に座る朱里だ。
今朝の食事も先に終えた僕が、彼女が食べ終わるまでの時間を有効活用しようと昨夜の報告をしたのがこの状況の始まりだった。朱里と同じく即決しちゃった、と言う報告を聞いた朱里に根掘り葉掘り状況を聞き出され、途中で正座を申し付けられて今に至る、と言う訳だ。
「なんでそんな事をしたんですか?
先輩は節操無しではないと思っていたんですけど。たまに行動が衝動的ですけど」
その『たまに』の被害にあった本人に言われては反論の余地もない。僕が基本的に朱里贔屓なのは、あの至高の黒髪に触れさせてくれるからだけではなく、その負い目を感じていたからだ。とは言え、黙っていても状況は改善しないので、正直に理由を述べておく。
「今までに見た事がないくらい綺麗な銀髪だったから、つい」
「先輩がそこまで褒めるなんて……まさか私の髪より気に入りました?」
「あと、契約切られてお預けされて、もう二度とこんな機会はないかもしれないなと」
神の如き、と言うか文字通り女神の白銀と至高の黒髪だ。どちらがなどと優劣をつけられる訳もなく、誤魔化す様にそう告げる。その言葉にどこか思うところがあったのだろう。朱里はぐぬぬと小さく声に出して顔をしかめる。反応がいちいち可愛い後輩だ。
「少し焦らして良い条件を引き出そうなんて画策したばっかりに」
「あぁ、やっぱりそんな理由だったんだ」
右も左もわからない異世界で、頼れる相手は唯一人。その繋がりを強固にする為に手を打つことは悪い事ではない。実際、僕も従者と言う名分で色々と世話を焼く事で点数稼ぎをしている。勿論、髪に触らせて欲しいと言う下心も混みではあるが。
「……怒らないんですか?」
「極端に媚びを売られるよりは良いかな、と。あくまで対等であろうと言う姿勢はむしろ好感触」
自分が微妙に媚びていた件は棚上げして言葉を続ける。
「再契約、してくれる?」
「します。してあげます。
しないと先輩の命が危ないですから。社会的な意味で」
ちょっと調子が戻ってきたのか、朱里の口からは必要以上の言葉が溢れ始める。ちょっと面倒くさいところもあるが、この後輩がとても良い女である事に疑いはない。髪とか触らせてくれるし。
「先輩、今まで通り私の髪を触らせてあげますから、他の人の髪に無暗に触れてはいけません。
いえ、独占したいとかじゃないんです。そう、これは先輩を守る為に仕方なく交わす契約なんです。だって、今はお互いしか頼れる相手がいないんですから。
今回は一先ず大丈夫だったみたいですけど、変な勧誘にひっかかって、騙されたり殺されたり売られたりする可能性があったんですよ?」
さすがにそこまで不用意じゃないよ、と抗弁したいところだが捲し立てる朱里の勢いに負けて押し黙る。リア様の使徒になったのだって、最終的にはちゃんと条件を話し合って決めているし、最悪でも無条件で棄教出来るから問題ないと判断したからだ。多分。
「それに見知らぬ相手の髪をいきなり触るのはセクハラです。あれ、結構な恐怖体験なんですよ」
経験談からの言葉に、こちらはぐうの音も出ない。
「ごめんなさい。以後気を付けます」
「それ、前にも聞きましたよね?」
言った気がする。自分で言うのもなんだが、信用できる要素が欠片もない。
ちなみに自分でもあまり信用していないので「絶対にもうしません」とは言わなかったのだったりする。我が事ながら、ダメだこりゃ。
「あのレベルはそうそういないし、大丈夫じゃないかな。たぶん」
「……追加で別の女神様が来るような予感がします。ひしひしと。きっとこれがフラグと言うものですね」
そう言えばリア様が紫っぽい髪の女とか言っていたような、言っていなかったような。女神と敵対する相手なのだから女神級であってもおかしくないな、と思い浮かんだが懸命にもそれを口に出す事はしなかった。していたら大惨事間違いなしだ。
「……髪、お願いしていいですか?
違いますね。お手入れをしてくれたら触ってもいいですよ。契約ですから」
「イエス・マム」
怒れる朱里に逆らう理由なし。髪に触れられるのであれば猶更だ。僕は正座を解いて立ち上がると長椅子の後ろに回り込み、ブラシを取り出す。今朝、自分の髪で効果を実験済みの万能ブラシを。
「ブラシ、持ち歩いていたんですか? さすがの執念です。何がそこまで先輩を駆り立てるのでしょうか」
「好きに理由はないよ。あと、これはリア様――さっき言ってた女神様から貰った」
昨夜、リア様にしたように毛先から順にブラシを通し、梳って行く。
朝食前に少し実験したのだが、このブラシで髪を梳ると清掃・補修・保湿等の効果があるようで、一日洗わずにいた僕の髪は、現在まったくべたついていないし、何時もより指通りが良い。元の髪質が良くないので朱里のような感触にはならなかったが、お風呂もシャワーもないここでは中々に重宝する性能だ。
「使徒になった特典ですか?」
「そうらしい。恩恵は貰えなかったけど、なんか魔術とかも使えるらしい」
「魔術ですか?」
僅かに声を弾ませる朱里の気持ちは、読書仲間としてはとても共感出来る。だが僕は、残念なお知らせをしなければならない。
「恩恵が使える人は魔術が使えないけど、僕は恩恵を持ってないからこの世界の人と同じ様に使えるはずだ、って」
「魔術があるのは本にあったので知っていましたが……。そうですか。私は使えないんですね」
しょんぼりと肩を落とす朱里に、少しだけ申し訳なさを感じながらも手は止めない。
今日の髪型はシンプルにおさげ髪。神殿やその付近の調査、旅に必要な物資の調達と作成。朱里には恩恵の確認と検証、必要なら訓練もしてもらう必要があるので、不本意ではあるが手早く髪を整えていく。
こうして始めた旅支度は、カムズさんの手を借りつつ数日間に渡って行われる事になるのだった。