表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

内からの崩壊の後

作者: 藍崎万里子

 ぼくの名前は、橘五郎という。

 三人兄弟の末っ子だった。

 ぼくの家は専業農家で、ひどく貧乏だったのに、なぜ両親が三人も子供を作ったのかと言えば、お袋が、どうしても女の子が欲しかったからだそうだ。

 二人、男の子が続いて、今度こそ女の子だと思っていた三人目が、ぼく、男の子だったので、両親はガッカリして、もうそれ以上は子供を作らなかった。

 でも、名前は、悔し紛れに、三郎ではなく、五郎にした。三人目は女の子。そう思い込んで三人目という意味の女の子の名前をたくさん用意して決めていたのがおじゃんになったとはいえ、両親の想像の中では三人目の女の子が生きていた。じゃあ、四郎かと思うところだが、それは、四というのが縁起が悪いからやめたらしい。

 洋服も、全部兄貴たちのお下がりだった。

 部活動も、お金がかかるからといって、何もさせてもらえなかった。

 小学も中学も、学年一位の成績だったが、大学は諦めてくれ、と、早くから言われていた。高校に行く時も、国立か公立でないと行かせられない、と。もしそれを落ちたら、中卒の学歴で我慢してくれと言われた。

 当たり前ながら、楽勝で公立の工業高校に合格した。なぜ工業高校かと言えば、言わずと知れたことだが、就職に有利だからだ。そこでもぼくは学年一位の成績を卒業までキープした。

 就職は、学校に推薦してもらった。おかげで有名な大手電機メーカーに就職できた。


 地元北海道から会社のある東京に渡る。初めての一人暮らしが始まった。


 ぼくは毎日仕事に励んだ。

 しかし、大卒の人間ばかりのオフィスで、肩身が狭かった。

 仕事ばかりを頑張っていたせいか、二十五歳のときに、係長にならないか、と上司に言われた。

「橘くん、君しか適役がいないんだよ」

 と。しかしぼくは断った。ぼくは高卒だし、そんなに人望もないし、とてもそんな重責は負えない、と。

 しかし、上司は時間をかけてぼくを説得した。

 結局ごり押しされて、ぼくは係長になった。


 ところが、その途端、誰もがぼくをシカトするようになった。

 おそらく、ぼくが高卒のくせに若くして係長に抜擢されたことに対する嫉妬だったのだろう。誰も彼も、ぼくの言うことを少しも聞かず、全く仕事をしなくなってしまった。


 毎日、ぼくは一人で仕事をした。時には岐阜の工場にまで行って、電化製品の設計の指示までした。それは工業高校を出てなかったらできないことだった。そしてまた東京のオフィスに戻ってパソコン作業をする。早朝から出勤して、残業で午前様になることもしょっちゅうだった。それでも、誰もがこれみよがしに仕事をさぼった。


 ぼくはそのストレスからお酒に走った。残業が早く終わった日は、決まってスナックで飲んだくれる。しかし性格の悪い部下たちが飲みに行く時だけ付きまとい、すべてぼくに払わせるのだ。毎晩それが続いたので、ついには退職金にまで手を付けることになった。前借りを重ね、ついには一円も残らなくなった。


 恋人が欲しかったけれど、社内恋愛は無理だった。大卒にはどうあがいても勝てない。新入社員の女の子たちは大卒の男たちが早い者勝ちでモノにしていった。高卒のぼくは蚊帳の外だった。係長になっても、まるでモテなかった。ぼくが口下手だったせいもあるだろう。うまく口説けなかった。

 世の中、遊び人がモテるようにできているのだ。こつこつと真面目にやってるような奴は、まるきりモテない。


 係長になってから、部下たちにスカラピンにされていた頃、一時的にスナックのホステスの一人だった中国人の女が近付いてきたが、退職金がなくなったという話をすると、途端に去っていった。金目当てで日本に来ている女だったのだろう。危ないところだった。

 外国人は信用ならないな、と思っていると、今度は日本人のかわいい子がせまってきた。背は小さめで、身体は細目で、顔もぼくの好みだったので、ぼくはすぐにその子に夢中になった。


 ところが、後輩の一人と一緒にぼくの一人暮らしの家に彼女を呼んだとき、ぼくが寝ている間に彼女は後輩とセックスしていた。

 寝ている間、と言っても、酔っぱらっているので、眠りが浅かったから、すぐ目が覚めて二人のやっていることに気付いたのだが、そのまま寝たふりを続けた。

 こうしてぼくの恋は破れた。彼女は後輩の子を妊娠したが、すぐにおろした。後輩がスケコマシだったので、お金を渡しておろさせたらしい。


 そういうしているうちに、親父とお袋が立て続けに、風呂場で心筋梗塞を起こして、死んだ。

 ぼくは仕事が休めずに、葬式にも帰らなかった。

 それでも、ぼくは三人兄弟の末っ子だから、大丈夫だろうと思った。兄貴たちがうまく取り計らってくれるだろう。と。


 心に、仄かだが罪悪感がうごめいていた頃、それほど目立たないフィリピン人の女に出会った。彼女もスナックのホステスで、美人ではなかったが、心が優しかった。

「橘さん、お酒、飲み過ぎじゃない?」

 と、彼女はスナックの従業員なのに、そんなことを言った。

「ああ、もう、時々、目が霞んで見えなくなる時があるんだ。自律神経がいかれてるのかな」

「身体がどうかしちゃう。お酒は控えたほうがいいよ」

 と、彼女は、拙い日本語で言う。

 彼女はそのほかにも、優しく仕事の話や失恋の話を聞いてくれて、優しく慰めてくれた。そのことが嬉しくて、次第に彼女に惹かれるようになった。


 いつも休日も返上で仕事だったが、一度だけ彼女を早朝ドライブに誘った。

 その時、

「キスさせてほしい」

 と言ったら、彼女は応えてくれた。それは優しさからかもしれなかったが、ぼくたちはそのまま一体になった。


 ぼくは彼女と付き合うようになった。

 しかし、金目当てかもしれない、という不安もあった。そこで退職金がないという話をしたら、彼女は同情して、後輩たちに対して怒っていた。そして、そのことがもとでぼくから離れることも無かった。

 仕事の忙しさの合間に、彼女とのセックスにもいそしみ、それを慰めにした。


 ある日、

「子供ができた」

 と彼女は言った。ぼくは驚いたが、それは喜びの驚きだった。

「それじゃ、結婚しようか」

「ホントにいいの? わたし、フィリピン人だよ」

「全然かまわないよ。すぐにも結婚式をあげよう。……と言いたいところだけど、仕事が大変で、とても結婚式をあげる時間が無い。ぼくは仕事場に友達もいないから、来てくれる人もいないしね。君の友達には悪いけど」

「わたしも、友達いないよ」

「そんな気を遣わなくていいよ。店の人とか、呼びたかったろ?」

「上辺で付き合ってるだけだから」

 と彼女は寂しそうに言った。

「ごめんね。ついでに言うけど、新婚旅行も行けそうにない」

「いいよ。わたしは五郎がいてくれるだけで」

 彼女は行きたかったに違いなかったが、了解してくれた。


 ぼくは結婚してからと言うもの、お酒を飲まなくなった。スナック通いをきっぱりやめた。帰ることのできる家庭ができたからだ。彼女がぼくの言う通りにスナックの仕事をやめてくれたので、帰るといつも彼女が起きて待っていた。

 子供も無事産まれて、仕事ばかりのぼくが育児を放棄しても、彼女は愚痴一つ言わなかった。


 子供はすくすくと成長し、もう二年が過ぎようとしていた。

 そんなある日、 

「フィリピンに帰ることになった」

 と彼女は言った。家族が戻ってこいと言っているという。家族思いの彼女としては、なんとしても子供を見せに帰りたいのだろう。

「いいよ。行っておいで。ゆっくりでいいよ」

「ゆっくり……もうそのままかも」

 この言葉に、ぼくは取り乱した。そのままかも? 

「じゃあ、帰って来ないかもしれないのか?」

 ぼくは彼女の両肩を掴んだ。

「分からない。ねえ、五郎も一緒に、フィリピンに行こうよ」

「え?」

「家族に紹介するから」

 と彼女は笑顔を向ける。

「でも、ぼくには仕事が……」

「働いてる量が多すぎる。それに見合ったお金ももらえてない。誰からも感謝されてないじゃない」

 と彼女は言った。

「感謝はされていると思う。部下にはされてないけど、上司にはね」

 上司たちには昔から好かれてきた。だから係長にもなれたのだ。

「でも、仕事を手伝ってもくれないんでしょう?」

「上司は上司でやることがあるからだよ。ぼくがやってるような雑用はやらないんだ」

「このままじゃ、五郎、過労死しちゃうよ。ずっとほとんど寝てないし」

「じゃあなんだ? ぼくに仕事を止めろというのか?」

「止めろとは言ってない。でも、休みくらいとってもいいんじゃない?」

「休み……」

 ぼくが仕事を休んだら、いったい会社はどうなるのだろう。オフィスの仕事、取引先との約束、工場への指示もストップする。何もかも、グチャグチャになって、会社は立ち行けなくなるだろう。

「会社を休むわけにはいかないよ。ぼくがやらなかったら、会社が潰れてしまう」

「そんなことない。日本人はみんなそう思い込んでるみたいだけど、違う。あんな大きな会社が潰れたりしない」

「ぼくの代わりは誰もいないんだよ」

「……そう、じゃ、二人で帰るね」

 と、彼女は諦めて言った。

 そして、二人でフィリピンに発った。ぼくは仕事が忙しくて見送ることもできなかった。


 彼女がいない間も、仕事ばかりしていた。彼女がいる間もそうだったので、忙しさのあまり寂しさはあまり感じなくて済んだ。

 だが、彼女は本当に帰って来ないかもしれない。それを思うと居ても立っても居られない状態になりかけたが、ひたすら仕事に打ち込むことで、忘れようとした。


 ある日、総務課に呼び出された。

「え? 改革?」

 ぼくの前に、課長と部長と総務課の部長もそろって座っていた。

「ああ、役員会で決まったことだ。このところ減収減益が続いている。今から大勢の社員をリストラしなきゃならないことになった」

「ぼくがですか?」

「そうだ。君の部署のなるべく多くの者を、説得してもらいたい。早期退職をな」

「……」


 そんなにこの会社は業績が悪くなっていたのか。それは課長以上でなければ分からない内部事情だ。係長のぼくには知らされていなかった。

 それならば減っていたはずの給料明細も給料も、妻に見せるだけで自分が見ることはなかった。妻が発ってしまってからも、気にすることがなかった。仕事が忙しくて、そう金を使う機会もなかったし。寂しかったが、スナックにも行かなかった。


 ぼくは仕事の合間に、珍しくも会社を抜け出し、ATMに行った。そして通帳記帳して見てみると……、確かに、給料がどんどん減っていっている。ボーナスもだ。

 これを見ていた妻が、「それに見合う給料ももらえていない」と言ったのも、うなずける。


 春の給料と、夏と冬のボーナスの時の労使交渉も、組合がやってはいた。ぼく自身も組合員だったが、選抜に選ばれたことがなかった。うちの部署の者も、選ばれたことは一度もないはずだ。

 そんなこともあって、会社全体が減収減益とは迂闊にも気付かずにいた。ぼく一人で回しているこの部署では、そんな翳りは少しも見られなかったからだ。

 しかし、早期退職まで募るほどの業績悪化とは、もう再建不可能なところまで来ているんじゃないか?

 結局、ぼく以外の者が少しも仕事をしていなかったというわけだ。

 そして、今からその尻拭いもぼくがしなければならないとは。


 人望のまるでないぼくにそんなことができるとは思えなかったが、やるしかなかった。

 仕事をしない部下をクビにするだけだ、と割り切った。ぼくは片っ端から別室に呼び出し、説得し、総務課の部長室送りにした。彼らは言うことを聞かない部下たちだから、簡単に早期退職という名のクビにできる。そう踏んでいた。慌てふためく彼らに対して、ぼくは思い切り権力を乱用した。


「え? 降格?」

 ぼくは急な部長の言葉に驚きを隠せなかった。

 また同じように総務課に呼び出されて、前と同じ三人の前に座らされていた。

「ぼくの部署の者はほとんどをクビにしましたが」

「優秀な人材が育ってなかったということだろう?」

 上司三人、特にうちの部署の部長は尊大な態度でふんぞり返って言った。

「君の力不足としか言いようがない。悪いが、君には退いてもらう」

「しかし、ぼくがこの役職を退いたら、仕事を回すことが難しくなります。平社員ではできません。それでは仕事が回りません」

 すると、部長は高笑いした。

「君は何か勘違いしているね。君の代わりなんて、いくらでもいるんだよ。もっと優秀な係長を外部から招くことは、もう決まっていることなんだ」

「……」


 そのときは黙って引き下がったが、もうこんな上司たち、顔も見たくないと思った。

 自分たちはなんだというのだ。この会社を減収減益にしてしまったのは、上司たちがつまりはやる気がなかったからだ。やるべきことをやってこなかったからそうなってしまったのだ。

 あんな部下たちに長い間苦しめられてきていた中、ぼくは必死に仕事をしてきた。すべてを回してきた。自分の部署の仕事は全部やった。それも、やむを得ずそうしていたというのに。

 仕事をボイコットしていた部下が悪いのではなく、すべてをひっかるって働いていたぼくに責任がある、と。高卒だからといって苛酷な差別を受けていたぼくを理解するでもなく、彼らを育てられなかったのは力不足だと言って、自分たちの怠慢は棚に上げて、こんなに簡単にぼくを切って捨てるとは。

 結局、やつらがリストラしたかったのは、このぼくだったわけだ。


 ぼくはもう何もかも嫌になった。

 久し振りにスナックに行った。

 そこで、酒をがぶ飲みしていると、

「あたしと仕事、どっちが大事なのよ!」 

 という女の声が聞こえてきた。この声には聴き覚えがある。かつてぼくが惚れていたあのかわいい子だ。ぼくが寝ている間に後輩とのセックスを楽しんでいた。

 そちらの方を見ると、そのかわいい子とは思えない、痩せぎすの女が、わめいていた。

「またすぐ来てくれるって言ってたのに、ずっと来てくれないで……」

 その子は、イケメンのサラリーマンらしき相手に向かって泣きわめく。

 その様子を見て、ママが慌てて止めに入った。

「すみません、この子は今ちょっと……」

 と男の客に詫びてから、女の子を連れて奥まったところへ入り、

「やっぱりね、治療に専念した方がいいと思うのよ」

 と、女の子に言い聞かせていた。女の子は泣いていたが、ママの言うことに口答えはしなかった。

「!」

 そこで、ぼくと目が合った。

 彼女はそこから、ぼくをすごい目つきで睨み始めた。なんなんだ?

 彼女が店を出てから、気になってぼくも店を出て彼女を探すと、彼女は電信柱の影に佇んでいた。

 彼女はぼくにつかつかと歩み寄り、

「あんた、あたしの結婚の邪魔したろ」

 と、どついてきた。

「何? なんのこと?」

「あんたしか知らなかったじゃない。あたしが他の男の子供おろしたこと」

「待って。確かにそのことは知ってるけど、ぼくは何もしてない」

「嘘だ!」

「嘘じゃないよ」

「あたしの結婚相手だった男に言ったろ。あの女は身持ちの悪い女だって」

「言ってないよ。そもそも、君が結婚する予定だったなんて、今初めて知ったくらいだ」

「あんたと同じ会社の男だったんだから!」

「同じ会社でも、誰も深くは知らないよ。友達なんていなかった。部下はみんなぼくをしかとしてたし、上司も最低な奴等ばかり」

「だったら、他に、誰が、あたしをこんな目に遭わせるのよう……」

 彼女は泣き崩れる。

「とにかく、落ち着いて。家まで送るから」

 自分も少し酔っている状態だったが、もっと酔っている彼女の細すぎる身体を支えながら、彼女のアパートまで連れて逝った。

「……入っていかない?」

 彼女は慣れた素振りでそう言った。

「いや、帰るよ」

「……そう」

 彼女は寂しそうだったが、とてもその痩せ過ぎた身体を見て、そんな気にはなれない。

 孕ませても、結婚できない。自分は既婚者なのだ。それでは、他の最悪な男たちと同じになってしまう。コンドームも持っているわけないし。

「明日、病院に行こう」

 ぼくは言った。

「え?」

 彼女は驚いていたが、ぼくは続けた。

「また仕事場の帰りにここに寄るから、待っててくれる?」

 彼女は本当に好みの子だった。一度好きだった人だ。放っておけない。

「あなたもあたしを病人だと?」

「ぼくは、君が好きだったからね」

 とぼくは正直に言った。

「健康的に笑っていた頃の君に戻ってほしいんだ。君は、拒食症だよ」

「……」

「このところ、お酒しか飲んでいないんじゃない?」

 彼女はその問い掛けに答えることなく、扉を閉めた。


 ぼくは帰って、辞表を書いた。

 これを、明日提出する。そして、その足でパスポートも申請する。今ネットで調べたら、一週間後にはできあがるという。それに合わせて飛行機もとる。

 ビザは、フィリピンに行ってからでも取れるという。ぼくは結婚しているので、一般的なリタイアメントビザではなく、結婚ビザが取れる。これは簡単に取れるのだそうだ。それに権利は無制限に続くし、働くこともできるという。


『仕事とあたし、どっちが大事なのよ!』

 彼女の言葉を思い出す。

 その言葉を、妻もどんなにか言いたかったに違いない。しかし妻は言わなかった。最後までぼくを気遣う言葉だけを残して、行ってしまった。

 妻に会いたい。この一週間の間に、かつて好きだった人を福祉につなげてから、ぼくも飛び立つことにする。


 明くる日、辞表を提出して、パスポートの申請に必要な書類を集めるために区役所に行った。そして必要な書類を揃えて提出する。そうして申請を済ますと、ネットで一週間後の飛行機を調べて、予約した。


 そして、彼女のところへ向かう。

 彼女は着替えていたが、すっぴんのまま待っていた。昨夜は厚化粧だったから分からなかったが、素顔の彼女は肌は荒れ放題で、口の端はバリバリに裂けていた。

「さあ、行こう」

 ぼくは一番近くの精神科クリニックにしようかと思ったが、信頼度を考えて、少し遠くの大きな精神科病院を選んだ。

 そこで受付を済まし、外来で待つ。

 その間、次々と変わったことが起こった。上半身裸で駆け入ってくる20代の女の子、「俺に任せろい!」と独り言を繰り返す中年男、立って壁に向かって頭をぶつけ続ける少年……など、変わった人々と一緒に待つことになった。

「あたし……駄目。こんなところ、おかしくなりそう」

 彼女は怯えて呟いたが、ぼくは彼女の肩を抱いた。

「大丈夫。もうちょっとで呼ばれるよ」

 しかし、しばらく呼ばれなかった。彼女はついに外来を飛び出し、片隅の溝に向かって吐き始めた。

「水しか飲んでないのに……」

 彼女は吐き終わった後、疲れたように髪をかき上げる。

「戻れる?」

 ぼくが後ろから聞くと、

「ねえ……あたしも、あの人たちの仲間なの?」

 彼女はうつむいたまま言う。

「人間はみんな同じだよ。みんな弱いものを持ってる。君がもう一度元気になるためには、自分の弱いところと向き合わないと」

「……分かった」

 彼女は戻ってくれた。


 診察室に呼ばれると、ぼくはただの知人だからと、外に出された。彼女は未成年でも何でもないから、仕方のないことだった。まあ、大丈夫だろう。彼女は自分のことくらい、自分で説明できる。


 彼女はクスリをもらったようだった。

「また、来週。付いてきてくれる?」

「分かったよ、迎えに行くから」

 しかし、その日は、もうフィリピンに発つ日だった。

 診察時間を聞くと、ギリギリ付き合えそうだったから、ホッとした。二回付き合えば、その後はもう彼女も自発的に治療に通うだろう。


 会社の退職のための後片付けをいろいろと済まし、パスポートをとり、一週間後、彼女のアパートに行くと、少しだけ化粧した彼女が出てきた。そうして見るとやっぱりかわいくて、少しときめいた。

「少しは食べられるようになった?」

「ううん、まだ無理。でも、気分は前ほど暗くはないわ」

 と笑った。いい傾向だ。ぼくが去っても、このまま快方に向かってくれればいいが。

 ぼくたちは歩いて病院に行く。タクシーを使っても良かったが、歩いた方が健康にいいだろうということになった。

 病院に着くと、この間と同じように診察を終えて、クスリをもらって、彼女は出てくる。

 もう飛行機の時間が迫っていた。

「家まで送りたいけど、もう時間だ。行かなくちゃ」

「え? どこへ?」

「今から、日本を離れるんだ」

「え? 日本を離れるって……外国に行くの?」

「ああ。そうなんだ」

「……だったら、あたしも行く!」

「え?」

 ぼくは困った。飛行機の切符が一枚しかないのはもちろんのことだが、妻と子の居るところへ、他の女は連れていけない。

「あたしも付いていく。連れて行って」

「それは……できない」

「どうして?」

「君は日本に居て、治療を続けなきゃいけないよ」

「治療なんてどうでもいい。あなたと会うために、病院に通ってただけよ」

「え?」

「あたし、あなたのこと、好きになっちゃったの」

 彼女はひたむきな瞳でぼくに訴えかける。

 ぼくの心は一瞬グラついたが、もう昔のようではなかった。

「ぼくも、君が好きだったよ。だから元気になってほしくて。病院に行かせたのもそのためで……」

 彼女はじっと次の言葉を待つ。しかしぼくは、彼女の期待通りの言葉を言い出すことは不可能だった。

「でも、無理なんだ。ぼくは、結婚してるんだよ」

「!」

 彼女は驚きに目を見開く。その瞳の色は、徐々に絶望の色に変わっていった。

「子供もいる。だから、君を連れて行けない」

 ぼくは残酷にも最後まで言い切った。彼女はそれほど、ぼくに重くのしかかってきていた。その重さに困り果てた挙句、本当のことを言ってしまうしかなかった。

 彼女を助けたかった。それは本心だったが、しかし彼女は昔の彼女ではなかったし、彼女と妻とを比べてしまって、どうしても妻を思い出してしまう。かつては好きだった彼女だが、今のぼくには、心優しいできた妻の前では掠んでしまう相手だった。

「!」

 そこで、彼女は急に駆け出した。ぼくは悪い予感がして追い掛ける。しかし昔から少しも運動していないぼくは、彼女に追いつけなかった。

 彼女はアパートに戻り、その7階のベランダから飛び降りてしまった。

 ぼくはベランダから彼女を見下ろした。すると、頭が割れたのか、辺りに脳味噌や血らしきものが飛び散っていた。

「!」

 ぼくは発作的に吐き気をもよおし、彼女の部屋のトイレに駆け込んで、吐いた。

 だが、こんなことをしている場合ではないと思い直し、急いで救急と警察に電話した。


 駆け付けた警察に事情を話して、やっと解放されると、彼女の死体の行方も見ずに、ぼくは飛行場に向かった。

 予約していた時間には間に合わなかったが、キャンセルを待っていたら、幸運にも二時間後に空きが出た。

 ぼくは飛行機に乗り込む。


 機体が空高く飛び上ると、解放感から、気分がスッとした。

 もうこんなところには二度と戻らない。

 もうすぐ妻と子に会える。その喜びを考えて、彼女の死の衝撃をごまかそうとした。

 だが、簡単にはできない。彼女を殺したのはぼくなのか。あんな状態の女の子に下手に声をかけるべきではなかったのか。

 最後に、この小さな国の小さなものをぶっ壊して、復讐しようとでもしたのか。

 彼女のことを、本当はずっと憎んでいたのか。

 ぼくは自分の本心が分からなくなっていた。


 飛行機の中で、夢を見た。

 願望が夢になったのか。日本が戦争をしかけられて、負ける夢だ。日本中が火の海になっているのを、ぼくは喜んで見つめていた。どこで? 日本の外で。

 飛行機に乗っていたせいか、空高いところから見下ろしていた。


 復讐の歓びの中、目が覚めた。

 窓の外を見ると、下に広がる人口島の数々。そこにC国の基地がたくさん見える。あんな巨大な不沈空母がたくさん……。最新鋭の戦闘機がズラリと並んでいる。戦闘型ロボットのように見える物体も多数だ。

 夢ではないが、日本も、もう長くもたないかもしれないな。と思った。

 飛行機はそのまま、その危険地帯を通り過ぎていった。


                         終


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ