江戸の剣豪
藍染の半纏を着た仁吉と黒ずくめの弥助が、石畳の参道坂を駆け下りていく。
弥助の朱塗りの鞘が鮮やかに目印となる。
サクヤは更に上空へ上がって清水港を視界に入れる。
すると左手に美しく広がる三保の松原が視界に飛び込む。雄大な富士の姿が、新春の匂いをさらに強める。
清水は川で信濃・甲斐と繋がり、東海道と海運で江戸・東海を結ぶ交通の要所。古来多くの人と物資が集まる町だったが、江戸時代に入りその繁栄は殷賑を極めている。上空から見渡す町の拡大には、いつも驚かされるばかりだ。
冬の冷たい空気は澄み渡り、何時もよりさらに遠くまで広がる視界。
晴れ渡った町は活気にあふれ、神といえども気分の高揚を感じずにいられない。
「あ~いい天気!日本晴れっちゃあこんな日の事よ。」
いやそんな事言っている場合ではなかった。
「どれどれ、あの人だかりかしらね。」
なるほど清水港の一角に男たちが群がり、何やら揉め事が起きている様子が見て取れた。
「ありゃーダンビラ振り回して、中々白熱してんじゃないの。」
この時代のケンカと言えば、命のやり取りが当たり前。
港湾の労働者たちもドスぐらいは懐に忍ばせている。むしろ準備のないモノが間抜けなのだ。
参道坂の上空を滑るように飛んで弥助たちを置き去りにし、門前街を通り抜け瓦屋根の屋敷町を抜けると、サクヤは一足早く先にケンカの現場に着いてしまった。
揃いの藍染半纏を着ているのが、どうやらさっき援けを求めに来た仁吉の仲間のようだ。
既に勝敗はついたも同然、地面に転がる彼らの背に染め抜かれた『山長』の屋号は泥に汚れている。
「この屋号は山本長五郎一家....次郎長って通り名で呼ばれてたね。」
商売柄よく神社には参拝に来るし、縁日の出店を仕切っているのも彼等だ。サクヤには当然なじみの業界でもある。
売出中の親分で、一家の規模は中ぐらいといったところのはず。見たところ仲間は5・6人。
相手はどう見ても港の男じゃ無い着流姿の二本差しが混じり、20名を超えている。
「アタシが助太刀ってのも......妙な話よね。」
彼女にとってこの程度の有象無象ならば、存在自体消し去ることも訳ないが。
サクヤがそんな神の悩みで逡巡していると、ようやく弥助たちが現場にたどり着いた。
随分と息上がっている様子。仁吉などは参道坂の往復ダッシュで、足腰立たないほどである。
「山菱のぉ!チョットこっち見てくんない!」
弥助は息を切らしながら、ケンカ相手ににこやかに声をかけた。
さっきまでの陰気な印象とは違い、世馴れた雰囲気すら感じられる。
「うぇっ、弥助じゃねえか...。」
「おぉあの野郎、まだ清水をうろついてやがったか...。」
意外な事に、この陰気な男はこの業界で顔が売れているらしい。
居並ぶ凶悪なツラの男たちは、弥助の登場に著しく狼狽えていた。
「オメエらビビってんじゃねえ!こっちは助っ人がこれだけ付いて下さんだ!弥助一人に後れを取るもんじゃねえ、ねえ!旦那方?」
1人が虚勢を張って威勢のいいことを叫ぶ。
察するに着流しの一団は、流れ者の用心棒であるようだ。
ウデのほどは分からないが顔は厳つい。どう見ても弥助よりは場慣れしているように見える。
業火で焼き払っちゃおうかしら、とサクヤは再び悪い顔になる。
「おやおや何だか今日は威勢がいいと思ったぜ。用心棒がいやがったか。」
弥助は見慣れぬ顔を見渡しながら、力む様子もなく何だか楽しそうな声でそう言った。
(おや.....意外とケンカ馴れはしてるねえ、チョット手出しせずに様子を見ようか。)
サクヤは新しい契約者を見つつ、その力量を知りたくなってきた。
「ほざけや!こちらの先生方はなあ、江戸からお越しになったオメエ...何だっけ?いやそう!鏡新明智流の達人だぞぅ!」
折角威勢のいいお兄さんが紹介しているのに、弥助は聞いているのかいないのか、さっさと白刃を抜き放ってずかずかと一団に向かっていく。
「....いや待て、おっ、オメエ聞いてんのか?強えんだぞ?死ぬぞコラア!」
予想を裏切る弥助の出方に、相手は動揺を隠しきれない。
「口喧嘩じゃあ死にゃあしねえんじゃ。さっさと掛かってきやがれ。」
(言うじゃない?啖呵切るのも様になってるねえ。)
サクヤは弥助のの堂々たる態度にすっかり嬉しくなって、高みの見物を決め込むことにした。
(もしかしてコイツは当たり?...いや、まさかね。)
面食らっていた一団もようやく10人ほどが扇の形に陣取り、弥助の行く手を阻む。
「兄さんなかなかいい度胸じゃねえか。」
一団の首領らしき男が抜き身を放つ。
「それとも俺達が鏡新明智流の使い手と聞いても、何のことだか分からねえのか?」
弥助を嘲笑するように笑い声が飛び交う。ちげえねえアニキ!コイツは田舎者だから江戸の流派なんざ知らねえのよ!今や全員白刃を煌めかせ、応となったら膾に切り刻む準備が出来ている。
「士学館じゃあオメエらみてえな不細工は見たことがねえ。」
弥助は挑発するようにケラケラと笑い返した。
道場名を出されて、ガラ悪どもは少し驚いたようだ。
「そんならワシの顔は知っとるかい?」
弥助は続けてそう叫ぶ。オノレなんぞ知るかい!と口汚く罵るガラ悪さんたち。
「いいや、きっと知ってんだろう。」
含み笑いでつぶやく弥助。
「練兵館じゃあ閻魔の弥助っち言われとる。ちぃっとは表にも知られておるはずじゃ。」
そう言い放ったと思った瞬間、弥助は一気に正面の男と間合いを詰め、太刀を振りぬきざま通りずぎる。
左右にいた男は額から血を噴出してぶっ倒れた。
「こなくそお!」
後ろから切りかかる3人に体を翻したと思ったら、ビシリと音が響いて男たちは手首を砕かれていた。
「あらやだ、強いじゃない...。」
サクヤは呆れてそうつぶやく。この瞬間で5人を戦闘不能にした技は、ちょっとお目にかからないほどのレベルの高さだ。
おまけにたった今切られた相手の手からは血が流れていなかった。
(刀身に研ぎをかけてないんだ?)
打撃で相手をねじ伏せるだけの、十分な技量と自信があるようだ。
「練兵館の...閻魔だと?あの野郎が?」
どうやら首領格の男には、弥助の名前に聞き覚えがあるみたい。
「そろそろさあ、オボエテロヨ!とか言って逃げ出す頃じゃねえの?」
弥助は面倒げにそう言うが、これは煽って手を出させるスタイルだろうか。
「ふ、ふざけんじゃねええええ!!」
男は煽りに乗って、まんまと刀身を上段に振り上げる。だがスピードに格段の差があった。
瞬時に間合いを詰めた弥助は袈裟懸けに打ち込み、勢いそのまま後ろの2人の面をふっ飛ばす。
「あれは痛いわー。記憶も刈り取ってそう。」
サクヤは感心してそう言った。竹刀と同じように真剣を...まあ切れなくしてるわけだが、手首と腕全体を使って鮮やかに反動を殺している。
それにここまで一合も相手の太刀を受け止めてない。
それほど腕に差があるという事でもあるけが、刀身の損傷を防ぐため、刀同士の削りあいは避けているようだ。
思えばこの男、下駄を脱ぎすらしなかった。
ここに来てようやく悪者たちから『チクショウオボエテロヨ!』を頂いた弥助。
倒れた次郎長一家の若者たちを、仁吉と2人で引っ張り上げる。
「おお、どうやら深手はねえな。よし、ヤサまで運んでいくぞ。」
仁吉はしっかりしておくんなさい!と一家の者たちを必死に抱き起している。
弥助は....ナゼか姿を消しているサクヤの方を見ている。
(何よアンタ?見えてるって訳?)
普通の人間に彼女の姿は見えるはずがない。
ごくまれに『霊感の強い』人間にはそんな事があるらしいが。
この陰気な剣術家には、そんな力があるのだろうか?
「なあサクヤ!アンタもちっと手を貸しちゃあ貰えねえか?」
(....ホントに見えてやがる、クソッ!)
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「弥助アンタさ、十分強いじゃない?」
やむを得ず姿を現し手を貸すことにしたサクヤ。神としてアイデンティティの危機である。
傷ついた男達2人の襟首掴んで引きずりながら、美濃輪町の山本長五郎一家までズルズル歩く。
「ところでサクヤさん。その運び方、ケガ人にキツそうなんすが....。」
「うるせえわ!他にどうしろっつうのよ!」
つべこべ言う仁吉をサクヤは思い切り怒鳴りつけた。
ケガ人のうちでも比較的軽く、自分で歩ける者は弥助と仁吉が肩を貸している。
重傷の2人はこうするしかない。
「ねえ、神頼みするほど切羽詰まっているようには見えなかったけど?あの踏み込み、ただの速さじゃあなかったよ。」
(まるで帰還者が使う法力のようだった。いや、そんなはずは無いけど。)
弥助の力を図りかねているサクヤ。
あれほどの力があれば、どこの流派でも免許皆伝には届くだろう。いやもしかしたら既に皆伝を取得しているのかもしれない。
「あんなもん、ただの真似ごとに過ぎねえ。」
弥助は特に関心無さそうな声で応じる。
「真似?誰の真似したらあんな人外の速さになるわけ?」
弥助は答えなかった。
夕暮れが近づく港町に、ウミネコの騒がしい鳴き声が聞こえる。
(この男にアタシがしてやれることはなに?)
当初は適当にシゴいてやろうかと考えていたが、そんなレベルではないらしい。
もし本当にこれ以上強くなりたいのなら....サクヤは先ほどの思い付きを検討していた。
(危険はあるけどこの男なら....『探索者』の資格は間違いなくある。)
遠くの方から弥助と仁吉を呼ぶ、男たちの荒々しい声が響いた。
一家の男たちが迎えを寄越したらしい。
やれやれとケガ人を座らせ、自分たちも地面に座り込んだとき、弥助は重い口を開いた。
「いるんだよ。江戸に。千葉栄次郎ってえ人外が。」
弥助の言葉には力がなく、弱々しい響きは神仏に縋りつく人間のそれだった。