26 帝国の丞相
帝国丞相キロフ=サンヌル=ミングレアは、腰を折り、皇女に向かって深々と頭を下げてきた。
「貴様……いつのまに」
「いつのまに、はご挨拶ですね。ごく普通に、回廊を進んできただけなのですが。陛下にご裁可いただく案件がございましてね」
「ほう。いまや帝国の内政は貴様の掌の中にあると聞いていたが。今さら父上に裁可を仰ぐような案件があったのか?」
「とんでもございません。私は仕事の手順は完璧に守らねば気が済まないのです。秩序。これに勝る喜びはありません」
キロフは、マントについた埃を長細い指で払うと、その指をハンカチでぬぐいながらそう言った。
「秩序、ね。おまえが、サンヌルの得体の知れない複合魔法で維持しようとしているのは秩序なのか?」
ネルズィエンの言葉に、キロフがわずかに目を見開いた。
もっとも、傍目には、キロフが本当に不意を打たれて驚いたのか、あえて驚いた演技として目を見開いたのか、まったく判別ができなかった。
「……ほう。ネルズィエン皇女殿下。薄々そうではないかと思っていましたが、やはりそうでしたか」
闇色の瞳を向けられ、ネルズィエンは後じさりそうになった。
が、それを堪えて聞き返す。
「どういう意味だ?」
「どうもこうも、あなたの言った通りですよ。どういうわけか、あなたには私の魔法が効かないようだ」
「貴様……! それではやはり……!」
身を乗り出し、ネルズィエンはキロフの胸ぐらをつかもうとした。
だが、伸ばした手が空を切る。
ネルズィエンは、その光景に既視感を覚えた。
その正体に気づくいとまもなく、ネルズィエンは反射的に振り返る。
ネルズィエンの背後の影から、闇色の男が音もなく現れた。
(なんだ……この光景は)
ネルズィエンの脳裏に何かがちらつくが、その何かは像を結ぶことなく霧散した。
……むろん、この時ネルズィエンの脳裏に浮かびかけたのは、三年前にエリアックと対峙した時の記憶だった。
目の前の丞相と同じように、エリアックもまた、ネルズィエンの影に飛び込むことで身をかわしていた。
「『炎の剣よ』!」
ネルズィエンが右手に炎の剣を生み出し構える。
それに対し、キロフは両手を広げ、おどけた口調で言った。
「おっと、私にあなたを害するつもりはありませんよ」
「嘘を言うな! 自分の術が私に効かぬと知って、私を亡き者にするつもりだろう!」
「ふふっ……」
キロフが、おもわずといった様子で笑みをこぼす。
「な、何がおかしい!?」
「自惚れないでいただけませんか? 私があなたを殺そうと思えば、いつだってそうすることができました。
それでも私はそうしていない。
なぜか?
あなたに、殺すだけの価値がないからです」
「な、何っ!?」
「あなた一人が騒いだところで、何ができるというのです? 皇帝陛下もあなたの言葉には耳を貸さない。他の帝国民だってそうでしょう」
「それも貴様の術で……」
「くくっ……神かけて誓いますがね、私はほんのささやかな誘導しかしてません。
あなたが周囲から軽んじられているのは、あなたが大事な遠征をしくじったからだ。あなた自身の身から出た錆びなんですよ。認めたくないかも知れませんがね」
「くっ……」
嘲りたっぷりに言うキロフ。
その言い分には理があった。
魔法をかけるまでもなく、大失態を見せた皇女に対する周囲の目は冷ややかだ。
「あなたはもはや、ただの道化でしかないのですよ、ネルズィエン皇女殿下。
ご存知ですか? とある国では、王の側に道化師を置き、その言葉を、戯れに政の参考にすることがあったそうです。
むろんその場合でも、道化師があまりに迂闊なことを口走れば、命の保証などありません。その道化師の首は、すぐさま胴と生き別れることになるでしょう」
「……私が陛下に殺されると言いたいのか?」
「あなた自身、わかっているのでしょう? 私の言うことが正しいと」
キロフの言葉は、粘りつく闇そのもののようだった。
皇帝がそうであるように、上から押し付けるように言ってくるのなら反発もできる。
だが、視線を介して心の中に侵入し、心を内部から腐蝕させて闇に沈めていくようなキロフの話法には、勢い任せの反論ができにくい。
話を聞いているうちに脳髄が闇で覆われる。
まともな思考が働かなくなり、やがてキロフの従順な操り人形に成り果てる――そんな連想が走った途端、ネルズィエンは目を見開いた。
その途端に、視界がくっきりと明るくなった。
むしろ逆に、いつのまにかそんなにも視界が暗くなっていたことに気づき、愕然とする。
「キロフ! 貴様っ!」
ネルズィエンは炎の剣を振るった。
キロフは、直立したまま、ただ小さく息を吐く。
振り下ろされた炎の剣が、闇に包まれ跡形もなく消え去った。
「なっ!?」
驚くネルズィエンに、キロフが言った。
「やはり、効きませんねえ。
なんでも、ミルデニアには『王国の影』と呼ばれる諜報に長けたヌルの一族がいるとか。
あるいはあなたは、先の戦役で彼らの術にかかり、撤退を余儀なくされたのかもしれません。
その際に彼らの使った術が、あなたに精神操作への耐性を作ってしまったようだ。
やれやれ。素人が中途半端に精神をいじろうとするからそうなるんですよ」
「な……に?」
ネルズィエンが後じさる。
キロフが語ったように、ネルズィエンには闇魔法による精神操作への耐性が生まれていた。
ただし、キロフの推測は、半分的を外している。
ネルズィエンに精神操作をかけたのは、王国の影ではなくエリアックだ。
ネルズィエンに「耐性」が芽生えたのは、エリアックの術が半端だったからではない。
逆に、術がしっかりと根を下ろしていたからこそ芽生えたものだ。
エリアックに操作されたネルズィエンの精神は、エリアックの暗示に占有され、他者による暗示を受け付けない状態になっていた。
水がふちまで注がれたコップには、それ以上水は入らない。
「貴様の目的はなんだ、キロフ。帝国を乗っ取って何がしたい?」
じりじりと下がり、警戒もあらわにネルズィエンが聞いた。
「ふむ……。あなたが道化だとすれば、私にとっては格好の話し相手でもありますね。あなたと結婚するというのも、あながち悪くはないのかも知れません」
「気持ちの悪いことを言うな。おまえから断ったと、陛下はおっしゃっていたぞ」
「ええ、私は結婚以前に、異性に興味がないものでしてね。
といって、同性愛者でもありませんよ。性というものに、まったく興味がわかないのです。
世の中の人々が生殖や交尾のために繰り広げる悲喜劇を見ていると、面白いというよりわけがわかりません。
わけがわからなすぎて、笑いがこみ上げてくるほどです」
「ふん、子を成せぬということか。だが、それならば黄昏人の遺産で……」
「不妊治療がしたいわけでもありません。そもそも興味がないのですから。
ただ、あなたを話し相手として『飼う』のは面白そうだ。
手足をもぎ取り、目を潰し、黄昏人の遺産で命だけは奪わず生かし続ける。
その状態で、私の話をただただ聞いていただく。
そのような『夫婦』のあり方なら、興味がないこともありません。
まあ、三日で飽きるでしょうけどね」
ネルズィエンはぞっとした。
目の前の男が、本気で言ってることがわかったからだ。
キロフは、ネルズィエンの戦慄に気づいていないかのように語り続ける。
「私は、生きているという実感があまりない質でしてね。どうも、現実感というものが、おぼろげにしか感じられないようなのです。
私は、ある日突然、私を取り巻くすべては幻だったと言われても、大して驚きもしないでしょう。自分自身で体験したはずのことも、私には、夢か幻のようにしか思えないのです。
もっとも、サンヌルの身で魔法が使えるのは、そのおかげなのですがね。どれほど激しい相克に襲われても、私は自分を見失うことがありません。あるいは、相克があろうとなかろうと、私は常に自分を見失っているのかもしれませんが」
「それが貴様の魔法のからくりか。サンヌルの耐えがたい相克ですら、希薄にしか感じられぬと」
「なかなか結構な体験ではありましたがね。
何度も味わえば、すぐに飽きてしまいますよ。
私はまた、うつつとも夢ともつかぬ、希薄な『現実』の中に迷い込んでしまいました。
なまじ魔法などというものが使えるようになったせいで、以前にもまして、現実と夢想の線引きがわかりづらくなったほどです」
「妄想と現実の区別がつかぬということか?」
「区別はつきますよ。理性を用いて現実を吟味すれば、それが現実か幻かを判断することはできます。
ただ、実感が伴わないだけです。
たいしたことではないと思われますか?
ですが、現実を現実と把握するのにいちいち吟味が必要というのは、なかなかわずらわしいものですよ。
かくいう私も、他の人間にはどうやら『現実感』なる感覚が生まれつき備わっているらしいと気づくまでに、かなりの時間を要しました。
ある時初めて、偶然から、私は『現実感』を持てたのです。
それがどんな時だったか……あなたには想像もつかないでしょうね?」
「……貴様の過去など、想像したいとも思えんな」
キロフは、ネルズィエンの反応などなかったかのように話を続ける。
「私が『現実感』を持つのに必要なのは、途方もなく現実離れした『現実』が眼前に現れた時、なのですね。
矛盾していると思いますか?
そうでもありません。
実は私は、『現実感』がまったく感じられないわけではなかった。ただ、『現実感』を感じるために、他人より何百何千倍も強い刺激が必要だっただけなのです。
常人は、一粒の砂糖で甘みを感じる。しかし私は、角砂糖を口いっぱいに頬張ってようやく、何か味わい慣れていない未知の感覚に襲われる」
「現実を吟味するための『舌』が、貴様の場合は壊れていた……そういうことか?」
「よい理解だ。
私が生まれて初めて『現実感』を知ったのは、私の行為が原因となって人が死んだと知った時です。
その知らせを受けた時、途方もない歓喜が、私の脳髄を駆け巡りました。
私はついに、『現実』なるものと接点を持てたのだ!
歓喜に笑う私を、その知らせを持ってきた人間は、気でも狂ったかと疑っていたようでしたがね。
私は、他者を死に追いやることに熱中しはじめました」
「人殺しを始めたということか」
「直接は殺しませんよ? そんなことをすれば、すぐに足がついてしまいます。
私が責任を問われない形で……すなわち、本人の自発的な意思で、死を選ばせる。人間をどのように追い詰めれば死を選ばせることができるのか。大変興味深い研究でした。
もっとも、慣れるに従って刺激が弱まり、現実感は再び私の手の届かないものとなりかけていたのですがね」
「それが帝国とどう関係がある?」
「関係はありませんよ。ごく個人的な問題です。
現実とは何か?
生きているとはどんな状態か?
この命なるものは、一体いかなるものなのか?
わからないからこそ、興味が尽きないのです」
「命を理解したいとでも言うのか? 博愛主義者でもあるまいに」
「私が博愛主義者ですって? 美しすぎる誤解ですね!
私は、他人の命をすり潰すことでしか、命なるものに実感が持てないのですよ。
ひとつしかない己の命を失う時に、人は激しい反応を示します。嘆き、怒り、否定し、拒絶する。そんな反応を通して初めて、私は命というものを実感できる。
この帝国は私の格好の遊び場であり、実験場なのです」
「そんな……ことのために! 帝国の将兵の命をすり潰しているというのか!」
「安心してください。今のこの状況は、私にとって都合がいい。帝国に倒れてもらっては困ります。帝国も敵国も生かさず殺さず、争い続けていただきたいと思っています。
いえ、正確には、そう思っていました」
「なんだと?」
「最近は、少々飽きてきてましてね。すり潰せる兵の数も、心もとなくなってきました。皇帝陛下からは、早く他国を落として補充せよとの命令を受けております」
「意外だな。貴様が陛下の命令を聞くとは」
「私は、命令に従うのが好きなのですよ。そこには明確な秩序があります。歯車のように精密に動く官僚機構は、私にとっては居心地がいい」
「自ら皇帝になろうとは思っていないということか?」
「あんな労ばかり多いご身分はご勘弁願いたいですね。王を担ぐほうが私の性には合っています」
「担ぐ? 操るの間違いだろう」
「よくわかっておいでではないですか。
ともあれ、私にはあなたを殺すつもりはありません」
「なぜだ?」
「私がやっていることがいかに冷酷で非道なことなのか――あなたは親切にもそれを教えてくださるのでね。
あなたのような方がいないと、自分は果たして、思うほどに冷酷非道に振る舞えているのかどうか、自信がなくなってくるのですよ。
今の私は、十分に冷酷で非道でしょうか、皇女殿下?」
「知ったことか」
吐き捨てるように言ったネルズィエンに、キロフが笑みを深くした。
「くくっ……それでいいのです。
あなたが私のすることを見、それに眉をひそめ、怒りを呑み込みきれずに嘔吐する。
そんな反応がないと、私は自信をなくして、今以上に冷酷なことをせねばと駆り立てられてしまいます。
私の衝動は、非常に激しいのです。
砂漠を行く渇き果てた旅人のように、私は『現実感』を狂ったように求めている。
しかも、現実感が希薄な分、自分の行動に重みを感じることができません。
私の精神は、暴風を前にした粗末な掘っ建て小屋のようなもの。理性では、この衝動に箍をはめることはできないのです。
もし私が衝動のままに行動しては、帝国は早晩崩壊してしまう。
私も私なりに、帝国の将来を思っているのですよ」
「なるほど。貴様は理性ある狂人というわけか。狂人であることに自覚的であるがゆえに、おのれの獣性をほどよく吐き出すことで、衝動を鎮めようとしている。そのために人を虐げ、殺す」
理性がある分だけ厄介だと、ネルズィエンは思った。
理性のないケダモノなら、とっくの昔に破滅していただろう。
現実感が欠けているというのがどんな状態か、ネルズィエンには想像がつかない。
だが、目の前のことが現実だと思えなければ、目の前のことに責任を持って対処することも難しいだろう。
(この男にとっては、空想の中で人を殺すのも、現実で人を殺すのも、同じだけの重さしか持っていない)
それでもこの男は、現実で人を殺せばどんな責めを負わされるかを理解している。
理解しているからこそ、衝動の赴くままには殺さない。
だが、理解しているからといって、「現実感」なるものへの衝動がなくなるわけではない。
衝動は、やがてこの男の理性を超えてしまう。
(しかし、そのこともまた、この男は理解している)
衝動は自分の理性で抑えきれない。
ならば、吐き出す場所を選ぶしかない。
(危険な男だ……)
並外れた頭脳と魔法の才の持ち主が、その能力のすべてを、邪悪な衝動を満たすためだけに使っている。
(金がほしいだとか、地位がほしいだとか、いい女を抱きたいだとか、そんな欲望なら飼い馴らす手立てもあるだろう)
皇女として、そうした欲望を利用する政治的な手管は知っている。
商売の特権を与える。名誉ある地位を与える。望みの結婚相手と娶せる。
父である皇帝も、そうして臣下たちを飼い馴らしてきたのだ。
(だが、この男の望みが「現実感」なのだとしたら、それを満たす方法はない)
客観的に見たこの男は、人の命を弄び、そのことに至上の快楽を見い出す、生まれついての殺人狂以外の何物でもない。
そのような人間のことを、何と呼ぶか。
「貴様は……悪魔だ。邪悪な獣性を持った、悪魔だ」
「獣性……というのはいかがなものでしょう? 私はそれを、『人間性』と呼んでいます。獣には、殺戮衝動も拷問欲求もありませんからね。食うためだけに殺す、実につまらない自動機械にすぎません」
キロフはそう言って肩をすくめた。
わずかに乱れた肩口の髪を揃えながら、キロフが言う。
「道化である皇女殿下におかれては、私の残虐を特等席でご覧いただき、思う存分嘔吐していただきたい。
帝国は、これより国家総動員体制に突入します。
いい加減、国の一つも落とさなければ、体制が回らなくなりつつありますのでね」
「……そうやって燎原の火のように大陸を平らげ、貴様はどうしようというのだ?」
「さあ、私にもわかりません。そうしなければ、私は生きている実感が持てず、苦しいのです。他人の苦しみだけが、私の苦しみを和らげてくれるのですよ」
キロフがコートを翻して去っていく。
その背は無防備に見えたが、ネルズィエンにはもはや追撃をかける気力がない。
途方もない闇にすくんでいた心が解放され、ネルズィエンの全身からどっと汗が吹き出した。
身体から、力という力が抜けていく。
ネルズィエンは、どしゃりと力なく座り込んだ。
ネルズィエンパートは今回で終了です。
次話、いよいよ15歳編。
更新は14日を予定しています。




