ロンリーカレー
男は、冬山で死にかけていた。
ゴーグル越しに見える世界は、テレビの砂あらしのようで、なんの情報も得られない。五里霧中で五感無効の世界。男は自らの存在が、かき消されるような気がした。情けなく助けを求める声を目出し帽のなかで叫んでも、それにこたえるものはいない。同伴者がいたところで、寒さの訴えを親身に聞いてくれるとは思えなかったが、自己を肯定するものがいない恐怖よりも、自己を否定するものがいないことのほうが、男にとっては辛かった。山登りを趣味にしてから、友人には、何故そんな生産性のないことをするのか、と批判されたものだが、いまやその冷たい目すら、温もりであったように記憶が改ざんされている。
白きツブテが、絶え間なくからだに吸い付く。荒れ始めには、ちょっとしたカーテンだった。それは、のちに憎いブラインドとなり、男の心を逆撫でた。そして、いまはこのツブテがどうしたことか、愛らしい。寄り添うものがいないこの道中で、「彼女」は、唯一男に身を預けてくる可愛い女なのだ。ツブテに姿を変えているが、それは彼女なりの恥じらいで、真の姿は肌の白い裸の妖精に違いなかった。
からだが火照る。寒さ厳しい外界に比例するように、防寒着のなかの温度は上昇していた。襟をパタパタと動かし、なかに空気を呼び込んでいたころが懐かしい。あのときは、ねばつく汗と、けだるけな熱気をリセットする空気は優秀な清涼剤だったのだが、立場が逆転した。この一辺倒で不変の熱気こそが、男の活動を支える相棒だった。
一寸先は闇、否、純白だったが、男はむやみやたらに足を動かしていたわけではない。出発時に小屋で見た地図とコンパスの向きで、確かな帰路をたどっている。自然は厳しいが、知を持つものにはいつだって道を示してくれる。もちろん、用意してくれる道がイレギュラーに途切れていたとしても教えてはくれない気の利かなさもあるが、それでもこの山は多くの登山者を受け止める大きな器の持ち主であることに疑いはない。
手指の感覚はとっくの昔になくなっていた。だから男は肩と肘のみに意識を集中して、腕を操作した。冷たい空気が不法侵入していたポケットをまさぐり、硬直した五指にスマホをはめこむ。おんぼろのロボットアームのように、ゆっくりと肘をまげて、画面を可視領域に差し込む。電源ボタンを小さな力で押し、ロック画面にデジタル表示の時計を出現させる。
小屋を出た時間から考えると、もうすぐ下り一直線の岐路が来てもおかしくない。その目印にはわかりやすく、巨木が生えている。知らぬうちに道を外れていない限りは、この近くに直立していてるはずだった。しかし、見当たらない。白いツブテが視界を妨げて、気が付けていないだけなのか、雪道に足を取られて、想定以上に時間がかかったのか。どちらにせよ、安心は遠い。男はそれでも冷静を保つ努力をした。
あと、もう少ししたら、素直に救助を呼ぼう。男はそう決め、背負ったザックのなかの無線機に思いを馳せた。自分ひとりでできなければ頼ればいい。その結論にするりと着地したら、いくばくか気持ちが楽になった。それと同時に、張っていた緊張が解かれたせいか、からだ中に震えがやってくる。鼻水が、耳たぶの熱が、つま先のしびれが、鋭敏な刺激になる。
男は、足を止め、その場に腰を下ろした。
ザックを漁り、なかから取り出したのは、板チョコである。銀紙を外していたので、口に運ぶだけの手間ですんだ。苦みと甘みがどろりと口のなかに溢れる。次第に甘味が優勢となり、口腔中の味蕾を一色が支配する。アクセントのないその味は、普段なら飽きてしまうところだが、贅沢なソロ演奏に感じたのだった。
おおかたの形が失われたあとのチョコレートも、その存在はしばらく残滓となる。口をゆすぎたい欲求にかられ、男は魔法瓶に手を伸ばした。雑な握力で瓶をねじると、蓋が白絨毯のうえに落ちる。瓶のなかから立ち上る湯気に、頬を近づける。男は頬が赤くなっているのだろうな、と鏡なしに自分の顔面を脳に描く。ジワリ広がる熱に、幸福感を感じつつ、その有限さを知る男は、飲むことで体内のほうに熱を取り込むことを選択した。唇を焦がす。喉元に染み渡る。胃の中に鎮座する。一連のお湯の流れは、堂々としていた。
休憩が終わってから、あの巨木を見つけるまでは案外にすぐだった。ほんの五分も歩いたところに、それはあったのだ。意気揚々と、しかし足元に注意を払いつつ男は勾配を下る。
吹雪きは心なしか、弱まっていた。
暖炉はもうすぐである。
車の暖房を高め、煮沸した鍋のような車内でしばらく休憩した。肉体の解凍がすむと、帰宅のため、町へと車を走らせる。ハンドルを握る感覚が「ある」。男は、そこで生を感じた。
街にもうっすらと雪は降っていた。しかし、男は、雪の絨毯なんて高級な表現はたいそうすぎると感じた。牛乳に貼った膜がよいところである。……ホットミルクが飲みたい。男は唾を飲み込んだ。
自宅の鍵を回し、家に入る。風音のない密閉した空間は、暖炉に火をくべるまでもなく、暖かかった。タンスのなかから半纏を引っ張り出す。そでを通すと、落ち着いた。着慣れた部屋着は男を温かく迎えた。
ここにいる。男の存在が、肯定された瞬間である。
暖炉をつけた広間を離れ、男は台所に立っていた。今日の夕食はなにするか。冷蔵庫のまえで、男は腕を組む。インスタントスープ、サーモンの切り身、ジャム、豚のばら肉、牛乳、緑茶……。暗所には段ボールに入れた貰い物の野菜があった。にんじん、たまねぎ、そしてジャガイモ。男は、冷蔵庫の片隅に、四角い箱を発見する。カレールウである。箱の中には、ルーの断片がいくつか入っていた。
今日は、カレーだ。男のなかで工程が組み立てられる。
ルウは、もとは板状だったが、前の料理で、消費していたらしい。一列足りない。今日も使い切らないだろう。そこで、ふと、男は想起する。そういえば、板チョコが残っていた。あれをカレーに入れるのも面白いかもしれない。玄関に立てかけたザックを探りにいく。
台所に並べた食材は、茶色めいたものばかりだった。料理に彩を求めるSNSの世界では映えることが重要なのかもしれないが、男にはこの土色こそが美味の象徴であった。
炊飯器のスイッチはもう入れた。塩梅のいい蒸れ加減になる頃合いを逆算し、調理終了時間を設定する。男は腕をまくり、ニンジンの皮をむき始めた。
鍋のなかでは煮詰まった食材たちが顔を赤らめて、茶色の風呂に浸かっていた。ほぐれた体を溶かさない瀬戸際の状態。その柔らかさを想像し、男は頬がにやけた。
かき回すと、渦とともに沈んでいた豚肉が浮き上がる。脂身の多い肉を使用したポークカレー。安い肉だからこそよいのである。
炊飯器のなかは、雪山とは正反対の白さで埋め尽くされていた。白いツブテが冷たい妖精なら、この米粒は、温かい守り神である。何の強がりもなく、手をつなげる。
水を少なめに入れていたので、米は固めに仕上がっていた。カレーのほうは、水っぽい状態であったため、盛り付けた皿の上は、海と陸のようになった。
ステンレスのスプーンを持ってきて、テーブルの上で食事を始める。栄養摂取のための食事ではない。その味を、楽しむことが、この食事の目的である。
最初のひとくちのまえに、男は目をつぶった。
熱を喰らう。カロリーを喰らう。すなわち、命を喰らう。
食物を喰らう。恵みを喰らう。すなわち、自然を喰らう。
「ありがとう……」
スプーンに乗った一口分、ルウとコメの絡んだそれを、左ほおに落とす。頬粘膜を爛れさせるその熱。それから遅れてやってきたのは、煮込み料理の旨みである。にんじん、たまねぎ、ジャガイモ。それぞれが、姿を見せずに、本性を現す。野菜の旨みがルウの味をより深めている。そして、隠し味の板チョコの影響だろうか。冷蔵庫にあったのは、中辛であったはずだが、それほど辛みは感じず、やさしい味だけが、舌を喜ばす。
硬いコメが、咀嚼を明確にする。噛むたびに口のなかにうまさが広がる。丸のみでは味わえない、ゆったりとした美味……
なんと幸福なのだろう!
男のスプーンが皿とくちびるを往復する。一定のリズムで、手首を動かす。それは、雪山に苦しんでいた男のものとは思えない。食欲に身を任せ、茶色い快楽の海におぼれる。
脂っこい豚肉、ほくほくとしたジャガイモ、甘みのあるニンジンと玉ねぎ……。海に浮かぶ秘宝を抱きしめ、男は満面の笑みを浮かべるのだった。
半分食べ終えたころ。男は、違和感に気が付く。それは、小さなとげのようなものであった。魚の骨であれば、口に出さずにかみ砕いて無視してしまいそうな、小さなとげである。
首を傾げつつも、男はきれいに平らげる。最後に、皿の淵についたルウをスプーンでかき集めて、口に運び、幸福の時間を終了する。男は、洗い桶に皿を浸し、冷蔵庫のほうを見る。食後にホットミルクをつくることにしたのだ。
冷蔵庫には、牛乳が二本入っていた。賞味期限が近いほうを持つと、軽く、コップ一杯に満たない量しか残っていなかった。パックを折りたたんで、ごみ箱に向かう。
そこで、男は見てはいけないものを目にする。
ごみ箱には、『中辛カレールウの箱』があったのである。
バカな。男は、冷蔵庫を急いで開く。そんなはずはないのである。男は、箱の中に入っていたカレールウの、一部を今日の料理に用いた。つまり、冷蔵庫にはまだルウの残りがあるはずなのだ。ごみ箱に、このルウ箱があるなんてありえないことなのである。
男は、愕然とする。冷蔵庫には、確かにルウの箱があった。しかし、それは。
『ビーフシチュー』の箱だった。
「そんな、そんなことって……」
指で舌を触る男。気が付かなかったのである。男は、調理から、一皿食べきるまで、カレーではなくビーフシチューを相手にしていたことに。
冷たい床に、ひざをつく。目の前が真っ暗になった。
男は、暖炉のまえで、安楽椅子を揺らしながら、本を読む。次に行く山を探していたのである。次こそは、カレーを喰おう。ホットミルクで喉を潤しながら、男は誓った。
その年の春、とある山でカレールウを口に残したまま死んだ男が発見されたのだが、この物語と関係があるかは定かではない。
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