五十八話目~化け狸の居酒屋さん~
「……腹減った」
俺はバーからの帰り道、腹を押さえながらそんなことを呟く。先ほどまでメリーナたちと飲んでいたのだが、いかんせん酒ばかりでは腹が空くというものである。そもそもこじゃれたバーということもありメリーナのところでは軽食しかもらえなかったのだ。
「……げ。もうこんな時間かよ」
時計を見た俺は絶句する。すでに時刻は朝の三時。どうにも時間間隔が狂っていたようだ。
「……流石に、この時間に帰るのは迷惑だよな」
おそらく、リリィたちはぐっすりと眠っているだろう。ここで帰って起こしてしまうのも悪い。そう思った俺は、小腹を防ぐべく周囲に視線を巡らせて食べ物屋を探すことにした。
とはいえ、こんな時間だ。ほとんどの店が閉まっているし、空いている店ももう店じまいを始めている有様である。おまけにこの周辺にコンビニはなく、一番近いところでも十分は歩かなくてはいけない距離だ。
「……あ、そうだ。あの店があったか」
いっそコンビニまで歩こうか、とまで思い始めた折、ふと脳裏にある店のことがよぎった。
俺はすぐさま踵を返し、来た道を戻る。そうして数分も歩いてまた路地のところまで来るなり、きょろきょろと辺りを見渡した。
「確かこのへんに……あった」
眼前には、真っ赤な暖簾がかけられた店。まだ明かりはついており、中からは話し声が聞こえてくる。夏樹は酒が入りややおぼつかない足取りになりながらもそこに向かい、ゆっくりと引き戸を開けた。
「あ、いらっしゃい」
返ってきたのは、甲高い少女の声だった。俺はカウンター席の向こうにいる小学生ほどの少女に視線を寄越してニッと口の端を吊り上げる。
「女将さん。今、空いてる?」
「もちろん。さ、入って入って」
その身に似合わぬ母性を醸し出すその少女はクイクイと手招きし、俺を中へと招き入れる。彼女は微笑を浮かべながら、カウンターから身を乗り出してきた。
「どうしたの? こんな夜分遅くに? リリィちゃんと喧嘩した?」
「それはないよ。リリィとはうまくやれてる」
「だよね」
軽い調子で女将が呟く。こんな身なりだから子どもだと思われがちだが、実は違う。彼女は列記とした人外であり『化け狸』族の一員だ。
「注文は? お酒飲む?」
「いや、さっきしこたま飲んできたからいいよ」
「あぁ。シュラちゃんところに行ってきたの?」
「いいや、メリーナさんのところだよ。ちょっとね。話しこんでたら遅くなった」
女将さんは「そう」とだけ呟き調理に取りかかる。注文はしていないが、彼女は俺が何を欲しているか直感的に察したようだ。
「女将さん、ご馳走さん」
「あ、ありがとうございました! またのお越しを!」
と、最後まで残っていた客がカウンターに代金を置いて去っていく。女将さんは寸胴鍋をかきまわしながらも彼らに頭を下げた。
「結構遅くまでやってるんですね」
「まぁ、私たちは夜行性だから。それに、夜の方が儲かりやすいんだよね。一応、昼は定食屋もやってるんだけど……」
と、彼女はそこで口ごもる。が、代わりとでも言うかのように俺の方へと大きな茶碗を差し出してきた。茶碗の中には雑炊が入っている。彼女謹製の卵雑炊だ。これが、酒を飲んだ後には結構うまいのである。
俺は彼女から木製のスプーンも受け取り、すっと口元まで運ぶ。こちらの体を気遣った優しい味わいに心まで溶かされるのを感じながら、俺は女将さんに視線を戻した。
「女将さん。何かあった?」
「え? 何で?」
「ほら、さっきさ。定食屋のくだりでちょっと声のトーンが下がったから」
「相変わらず、鋭い観察眼だね。今日はお仕事できていないんだから、楽にしていけばいいのに」
とは言うけれど、これはもう職業病のようなものだ。俺の仕事は、相手の以上にどれだけ早く気付けるかが問題となってくる。だから、些細な変化も常に目につくようになってしまったのだ。
俺はしばらく雑炊を喰らいながら、ふと脳内で考えを巡らせる。
そろそろ年末に入るが、こういった時は人外たちの間で何かとトラブルが起きやすい。いや、人外だけでなく人間も関連しているか。ともかく、年末で浮かれているのか、はたまた気が重いのか知らないが、何かと問題が発生するのが常である。
「……ま、夏樹くんになら話してもいいか」
女将さんはカウンターに頬杖をつき、ほぅっとため息をついた。
「実はさ、定食屋が上手くいってないんだよね。元々居酒屋が本業で、あっちは副業みたいなものだけど」
「何か原因は?」
「たぶん、近くにライバル店ができたからだね」
「ライバル店?」
俺の問いに、女将さんは神妙な顔つきになって頷いた。彼女はきょろきょろと辺りを見渡してから、俺の方にスッと身を寄せてきた。
「実は、ここの近くに別の定食屋さんができたんだよ」
「え? それ、俺聞いてないけど……」
「当然だよ。だって、経営しているのは人間だもん……表向きはね」
どこか引っかかる言い方だ。女将さんはすっと扉の方を指さして、形のいい眉をきゅっと歪めた。
「ちょうどこの先に行ったところにあるんだけど、変な噂が絶えないんだよね。一度行ったら病みつきだとか、二度と忘れられない味だとか」
「いや、それって結構ありがちな煽りじゃないですかね?」
俺のツッコミに対し女将さんは首を横に振り、ピッと人差し指を突き付けてきた。
「ウチの料理の方が美味しいに決まっているでしょ?」
これだ。彼女は自分の料理に絶対の自信を持っている。確かに美味いのだが、プライドの高さは否めない。きっと、新参に客を取られたのが悔しいのだろう。彼女はギリギリと歯ぎしりしながら鍋の中をかき混ぜていた。
「クソゥ……この店を始めるのにどれだけ苦労したか。獣人系が飲食業を始める苦労も知らないくせに……」
それは俺に向けて放った言葉ではないだろう。なぜなら、俺は彼女が創業するとき立ち会っていたのだから。
実際、獣人系の人外が飲食店を始めるのには色々な検査がある。寄生虫だとか、はたまた謎の伝染病だかが流行らないように徹底した調査が行われるのである。女将さんは厳しい審査を潜り抜けて、なんとか自分の店を構えることができた。この店を失いたくない、という強い思いがあるのだろう。それは俺にも十分なほど伝わってきた。
「夏樹くんさ。よかったら偵察に行ってくれない? あの店の秘密が知りたいんだ」
「え?」
「お願い! しばらくただでご飯食べさせてあげるから!」
彼女は両手を打ちあわせ、ぺこりと頭を下げてくる。
だが……。
「正直、いい情報が得られるとは思いませんよ? ただの思い違いじゃないんですか?」
「いや、絶対何かある! 野生の勘がそう言っているもの!」
女将さんは太い尻尾をフルフルと振ってみせる。まぁ、ここまで言われては断るわけにはいかない。
「……わかりました。とりあえず、行くだけ行ってみます」
「本当? ありがとう!」
俺は彼女に微笑を返し、脳内で考えを巡らせる。
幸いにも明日は予定がなかったし、リリィたちと出かけるついでに行ってみよう。
そんなことを思いながら、俺はお冷をくっと煽った。




