五十七話目~サテュロスのマスターさん~
月が空に高く上り、夜道を明るく照らし始めるころ、俺はある場所へと足を向けていた。すでに冬の顔を見せつつある街では、虫の声すらも聞こえない。それがどこか不気味で、俺は着ていたスーツの襟をすっと立てた。
「さて、と」
今日はある人外の様子をうかがうために外出することになったのだが、いかんせんその人物が夜行性のため、こうして夜出勤する形となった。一応リリィには先に寝ていていい、とは言ってある。あまり遅くまで起こしているのも悪いと思ったからだ。まぁ、グリがいるから必然的に早く寝ることになるのだが。
「……にしても、ずいぶん馴染んだもんだな」
グリが俺の家に来てもうずいぶん経つ。彼女は当初警戒心を見せることもあったが、今は本当の家族以上に懐いてくれている。最近では完全に電気を消した状態でも寝られるようになったらしい。トラウマが徐々に薄れつつあるのも事実だ。それは非常に喜ばしいことである。
俺は白い吐息が空へと上るのを見ながらそんなことを思う。グリは言葉を喋るようになってから色んなことを話してくれる。まぁ、俺には依然として距離を保ったままなのだが、それでもたまに気が向くと膝に乗ってテレビを見たりする。
……その時テンションが上がり過ぎてしまったのは内緒だ。
「――ッと。危うく通り過ぎるところだった」
俺ははたと足を止め、ぐぃっと体を傾ける。ちょうど左にある路地の向こうに、俺の行くべき場所がある。俺はかろうじて月明かりで照らされた路地を行く。よく目を凝らしてみれば、奥の方に提灯が下がっているのが見えた。
俺は今一度身なりを整え、それから扉をゆっくりと開く。
「いらっしゃい」
すると、低く落ち着いた声が俺の鼓膜を揺らした。その声の人物は、この店のマスター……今日の話相手だ。
バーテンダーの服に身を包んだクールな印象の女性は口の端をわずかに歪めながら俺の方を眺めている。そんな彼女のこめかみ辺りからは、二本の角が飛び出ていた。
彼女は『サテュロス』族のメリーナ。この『バー・赤りんご』のマスターである。
見たところ客入りは中々に悪くないようで、いくつかの人外と人のグループが訪れていた。席はカウンター席のみだが、奥行きはかなりある。人外向けに改良したのがいい効果を与えたようだ。
「マスター。いつもの」
「了解。相変わらずだね」
メリーナさんは肩を竦めながら冷蔵庫により、そこから瓶のコーラを取り出して俺に寄越してくる。この店に来ると、いつも頼むものだ。別に酒に格別に弱いわけではないが、一応出勤中だ。いや、某酒呑童子の家を訪れた時はたまにご馳走になるが、あれはノーカンだ。
「さて、そろそろ曲を替えようか」
メリーナさんはそう言って何かのリモコンを取り出す。と、すぐさまかかっている音楽がボサノバからシックなジャズへと変わった。この店のダークな雰囲気と相まって非常にいい。飲むコーラも美味くなるというものだ。
「メリーナさん。最近はどうですか?」
「ま、ぼちぼちかな。安定した収入があるだけマシだけど」
と、肩を竦めてみせるメリーナさん。その姿を見て、俺は苦笑した。
サテュロス族は基本自由奔放な人が多くて、中々にとらえどころがない。それは彼女も例外ではなく、いつもこうやってペースを握られてしまうのだ。
「夏樹くんの方はどうなの? って、色々聞いているけどね」
「……え?」
思わず素っ頓狂な声を上げる俺に、メリーナさんは優しく微笑んでみせる。
「私はこのバーのマスターだよ? 色々お客さんと話す機会もあるさ。夏樹くんは、この街に住んでいる人外とはほとんど知り合いだろう?」
「そりゃあ、まぁ……」
「でさ。彼らの世間話を聞く機会もたくさんあるわけだよ。対話こそ、このバーの醍醐味だからね」
確かに、それは彼女の言う通りだ。カウンターだけにしているのもマスターと話しやすくするためである。無論、身体の大きい種族のためにスペースを確保するという意味合いもあるだろうけど、そちらはあくまでもおまけのはずだ。
メリーナさんはいたずらっ子のように無邪気な笑みを浮かべながら告げる。
「あ、でも安心してね? 君に対する愚痴とかは聞くけど、悪い噂はないよ? 今のところ」
「今のところって……」
俺は彼女の言葉にがっくりと肩を落とすが、メリーナさんはやれやれ、とでも言わんばかりに首を横に振る。
「いいかい? 人と関わる以上賛否両論があるのは当り前さ。だから、気にしちゃダメだよ。それにね、経験上愚痴が出るってことはまだ嫌われてないってこと。本当に嫌いだったら口に出すのも嫌だし、興味すらわかない。でしょ?」
会話を盗み聞きしていたのか、周囲から賛同の声が上がる。それを受け、メリーナさんはニッと口角を吊り上げ、前かがみになって俺の方に身を乗り出してきた。彼女は豊満な胸がカウンターにあたって潰れるのも構わず、俺の方に手を伸ばしてくる。
「ぶっちゃけさ。全員に好かれるなんて無理なんだよ。ほら、見てごらん」
メリーナさんは自分のねじれた角を見せてくる。太く大きく、木の扉くらいなら貫けそうなそれを指さしながら、彼女はふっと口元を緩めた。
「私たち人外にはそれがよくわかる。だってさ、ぶっちゃけ、人間さんたちからしたら、私たちなんて化け物でしょ?」
「そんな……」
「いやいや、遠慮しないでズバッと言っていいよ。私も慣れてるし。てか『人外』なんて呼び名がすでにそれを表しているでしょ? ほら『人の道から外れた存在』ってさ」
近くにいた人外たちも同様に頷き合う。だが、俺も含めた人間たちはただただ困惑した表情を浮かべたままだ。
「まぁ、このお店に来る人たちのほとんどは理解がある人たちだよ。私たちに対して、ね。でもさ、外に出れば違う。好奇の視線を向けられるのって、結構気持ち悪いんだよね」
「……あの、メリーナさん。話が見えないんですが」
と、そこで彼女はハッと口をつぐみ、しばらくもごもごと口を動かしてから言いづらそうに口を開いてきた。
「……うん。まぁね。この間、嫌なお客が来てさ。その人は人間だったんだけど、私たちの姿を見た途端血相変えて怒りだしてさ。もう大変だったよ」
「俺も、その時にいたぜ」
近くにいたオーク族の男性が言葉を重ねる。
「そりゃあ、ひどいもんでよ。俺たちのことを『化け物』呼ばわりだぜ? そりゃねえだろ。俺たちから見れば、お前たちこそ化け物だ」
「よしなよ。別に夏樹くんを責めようとしているわけじゃないんだから」
メリーナさんが制止を受け、オークの男性は後味が悪そうにカクテルを飲み干した。
なんだか、彼女が俺を呼んだ理由がわかった気がする。
「わかりました。俺でよければ、話を聞きますよ」
「うん、ありがと。ごめんね。最初からスパッと言えればよかったんだけど、どうしてもね。言い辛かったんだ」
「いいですよ。もう、今日は早めにお店を休みましょう」
「そだね。あ、お客さんたちはまだいてていいよ。ご新規のお客さんが来ないように張り紙をしておくから」
そう言って彼女が外へと消えていくと、先ほどのオークがスッと身を寄せて耳打ちしてきた。
「マスターは強がってるけどよ、それなりに傷ついてるはずだ。頼むぜ、旦那」
「もちろん。というか、あなたたちは傷ついてないんですか?」
「別に? マスターみたいな半獣半人ならまだしも、俺なんか人間要素ほぼないぜ? 言われ慣れてらぁな。てか、男の人外は割と多いと思うぜ? 女の人外と違って種族特性が前面に出た身体してっからな」
と、彼はあっけらかんと言ってみせる。確かに、それは指摘されたとおりである。
人外には当然ながら雌雄がある。けれど、人間と大きく違うのは男女で見た目がかなり違うことだ。
女性の方は種を残すために愛らしい見た目をしており、対して男性は力を示すために力強い見た目をしている。共に社会に出たとして、迫害されるのはどちらかを考えれば答えは一目瞭然。男性の方が、迫害されるに決まっている。
オーク族の彼もそれは経験しているだろう。けれど、辛そうな様子は一切見せず豪快に笑っている。この精神力の強さは、彼独自のものだろう。
「さて、お待たせ。じゃあ、今日はゆっくりと語り明かそうか」
どうやら作業を終えたらしきメリーナさんがやってくる。俺は隣にいるオークと顔を見合わせ、持っていたグラスを打ち合わせた。




