五十六話目~小豆洗いの甘味屋さん~
周囲から漂ってくるのは甘ったるい小豆と、モチが焼ける香ばしい匂い。それらが俺の鼻孔をくすぐり、腹の虫たちを騒がせる。口寂しさを紛らわすために茶を啜るが、それでも満たされない。
俺は何とか空腹感から逃れようと、とにかく気を散らすことを試みる。俺はとりあえず、辺りの様子を伺ってみることにした。店内はそれなりに混雑しており、待機列こそないものの空席は数席しかない。これだけでもここがどれだけ繁盛しているかがわかるだろう。
加えて言うならば、ここを切り盛りしているのは若い女将さんと数名の従業員だけだ。その従業員たちは慌ただしく店内を動き回って客の注文を取ったり、空いた皿を片付けている。もうすぐ冬になるというのに、店員たちは額に汗を浮かべているほどだ。
俺は彼らを一瞥してから、視線をすっと前に戻す。カウンター席の向こうは調理場となっており、しきりとなっているガラスを通して奥の様子を見ることができている。そこでは、一人の女性がせっせと調理を行っていた。
年のころは三十代半ばだろう。どことなく落ち着いた雰囲気を醸し出す妙齢の女性だ。けれど、肌にはまだ瑞々しさが残っており、年を重ねたからこそ漂う色香のようなものが滲み出ている。
彼女は手で額に浮かぶ汗を拭い、また視線を手元の皿へと移す。そこには何枚かのモチが乗せられており、あんこがたっぷりと載せられていた。あれはおそらく、俺が注文した料理だろう。彼女はできあがったそれを従業員の女性へと渡し、また別の作業に入る。
「おまたせしました~あんこもちです~」
可愛らしい侍女服を着た女性従業員がこちらにあんこもちをサーブしてくる。おそらく、大正時代をイメージしているのだろう。それらしき身なりをしている彼女は店の雰囲気と非常にマッチしていた。
「ありがとう」
俺は彼女に礼を言い、それからあんこもちへと視線を移す。綺麗に盛り付けがされており、何とも美味そうだ。モチにはやや焦げ目がついているが、それがまたたまらない。焦げすらも武器としているのだから、恐れ入る。
「いただきます」
早速箸を手にして一つを口に入れた。直後、俺はカッと目を見開いた。
「美味い……」
あんこは甘すぎず、それでいてしっかりとモチの味を引き立てている。モチはつきたてのものを使っているのだろう。固くはないが、しっかりとした触感があり噛めば噛むほど口内で味の調和が巻き起こる。時折顔を出すおこげの香ばしさが絶妙なアクセントを加えるのだ。
茶は渋めになっており、飲むと口内がリセットされてまた何度でも楽しめるようになっている。気づけば、俺はあっという間にモチを平らげていた。
が、俺は一抹の虚しさを覚える。どうしても、物足りなかったのである。俺はメニューに目を走らせ、それから近くにいた従業員を呼び寄せた。
「すいません。このお汁粉ひとつ」
「わかりました。少々お待ちください」
彼女はそれだけ言って厨房へと消えていき、店主の女性へと告げる。
と、そこでようやく俺はなぜ自分がここに来たのかを思い出した。
あの店主――『小豆洗い』に用があってきたのである。ちょうど昼飯時ということもあって食べてから話そうと思っていたが、いつの間にか目的がすり替わっていた。俺は内心戦慄しながら店主に視線をやる。
黒髪を短くカットした彼女は非常に楽しそうに調理を行っている。今はちょうど小豆を洗っているところだ。流石は本職、と言ったところだろう。腕の動きによどみがなく、豆が躍っているようだ。
俺はふとため息をつき、それからスマホを手に取る。もうすぐで一時になるところだ。おそらく、これからもっと忙しくなることだろう。
きっと、今日は話を伺うことは厳しいだろうな……。
そう思った俺はスマホを閉じ、ふっと息を吐く。もうこうなった以上、今はとりあえず楽しむとしよう。この時間を。これほど美味しい甘味を食べられる機会は生きていてそう巡り合えるものではないだろう。
俺は子どもの頃の興奮を取り戻したかのようにわくわくしながら次の料理が来るのを待つ。ガラスの向こうでは店主が忙しそうに完成した料理をサーブしていた。
俺が頼んだ料理はまだ来ないだろう。隣の客たちに料理が来るのを横目で見ながら俺は頬杖をついて厨房を見やる。店主はまたしても小豆を洗っていた。もはや、それが一種のルーティーンとなっているのかもしれない。人外はよくわからないものだ。
……しかし、それにしても彼女が小豆を洗っている時は何とも目のやり場に困ってしまう。なにせ、彼女の体の動きに合わせて胸元の大きな膨らみもばるんばるんと揺れるのだから。手を回す速度を上げた時などは、それはもうすごいものだった。あれはもはや、胸が別の生き物のようになっていたのである。
俺は渇いたのどを潤すために茶を啜る。と、そこでふと隣に新たな気配が生まれた。
「よろしければ、おかわりはいかがですか?」
先ほどの女性従業員がお盆を抱えながらそう尋ねてくる。
「よろしくおねがいします」
「かしこまりました」
彼女は空いた湯呑みを持って厨房の奥へと消え、一分もすると新たな湯呑みを持ってやってきた。
「お待たせしました。あと、これサービスです」
と言って彼女が茶と一緒に出してくれたのは色とりどりのおかきだった。定番のものから変り種まで様々なものが盛り付けられている。
「女将さんの友人が焼いてくれたらしいんです。よろしければ、どうぞ」
「どうも。助かります」
よほど俺が物欲しそうな顔をしていたのだろう。彼女はまるで慈母のような笑みを向けて去っていった。俺は彼女を見送った後で、近くにあった長方形のおかきを手に取る。これはシンプルに醤油を塗ったものだ。
ひょいと口に放り込んでみると、香ばしい風味が一気に口内を埋め尽くす。カリカリとした触感が非常に心地よく、先ほどまで甘いものばかりだったのでより一層強烈に舌に響いた。
この店は仕事の都合で来たわけだが、この味ならプライベートで来てもいいかもしれない。これなら、グリもリリィもきっと喜んでくれることだろう。
そんなことを思いながら俺はおかきを食べ進めていく。一つ一つ味も触感も風味もまるで違うので飽きない。しかも、色味があるのもいいことだ。五感をフルに使って楽しむことができている。
「おまたせしました。お汁粉です」
と、そこでまた新たな料理が到着する。それを見て、俺はギョッと目を剥いた。
なぜなら、お汁粉の中央には大きな栗がプカンと浮いていたからだ。それは黒い小豆の海において光り輝く太陽のようにすら思える。
「季節によって乗るものが変わるんです。栗、美味しいですよ」
唖然とする俺に従業員さんからの解説が寄越される。なるほど。そういうことか。なら、四季折々の旬が味わえるというわけだ。
俺は備え付けのスプーンを取り、すっと掬って口に流し込む。
これまた至上の味だ。甘いのに、スイスイ飲める。時折潰れかけの豆が出てくるのも味な演出だ。それが口内で弾けまた新たな味が生まれる。
それに、栗も絶品だ。あんこと栗の愛称がいいのは言わずもがなだが、それにしても美味い。栗は汁粉の甘さを邪魔しないようにほとんど味付けはなされていない。が、しっとりと柔らかいので、手間がかけられていないというわけではないのだ。
しかも、一旦汁粉ではなくおかきを食べるとこれまた最高だ。おかきのしょっぱさと汁粉の甘さ。どちらかを先に味わっておくことで、もう片方の強みを引き立てられる。しかも、食感が違うのもポイントが高い。カリカリとしたおかきともちもちとしたモチ。この組み合わせはもはやギネスに認定されてもいいと思う。
先ほどの例にもれずあっという間に完食した俺は少しだけ膨れた腹をさする。本来の目的は先送りになってしまったが、俺は妙な満足感を得ていた。この店に来れて本当によかった。店の雰囲気も接客も、何より味もいい。これなら、また来よう。
そう思いながら俺が席を立つと、厨房にいた女将さんがハッとしてこちらに駆け寄ってくる。
「あ、あの。お帰りになるんですか?」
「えぇ。だって、忙しいでしょう?」
俺は店内を見渡しながら言う。昼時ということもあり今は客足がピークだ。正直、この時間帯に来たのは俺の不手際である。
俺は口角を吊り上げ、彼女に言った。
「ご馳走様でした。美味しかったですよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
律儀に頭を下げてくる彼女に俺も礼を返し、ポケットから代金を取り出して彼女に渡す。そうして、俺はその場を後にした。




