五十一話目~スライムの娘さん~
「すいません、夏樹さん。ちょっと今日は遅くなりそうです……」
夜もすっかり更けたころ、俺はリリィからの電話を受けていた。曰く、今日は彼女がやっているボランティアの人形修理が予想以上に立て込んでいるらしく、かなり手間取っているらしいのだ。店主とは話をつけて、少しだけ残業させてもらえることになったらしい。
「ところで、グリちゃんはどうしていますか?」
電話越しにリリィの不安げな声が聞こえてくる。俺はそんな彼女を安心させるように努めて穏やかな口調で告げた。
「大丈夫。いい子にしているよ」
「本当ですか? あ、よかったら一緒に寝てあげてください。一人で寝るのはまだ怖いみたいですから」
「……わかった。リリィも無茶をするなよ」
数秒おいて通話が途切れた。その直後、俺は大きくため息をついてリビングの方を見やる。そこには大きなクマのぬいぐるみを抱きしめたグリの姿があった。彼女はジト目のまま俺を睨みつけている。いかにも警戒心丸出しと言った感じだ。
「グリ。そろそろ一緒に……」
「や!」
力強い否定の言葉。彼女は先日の出来事以来多少言葉が喋れるようになったのだが、こうしてハッキリと拒絶されると中々に堪える。今までは仕草だけだったからまだマシだった。俺は涙目になりつつグリへと歩み寄る。
が、彼女はそれに合わせて後退し、ぬいぐるみをギュッと抱きしめる。こうしていると、本当に可愛らしい。懐いてくれれば、もっと可愛い。
だが、彼女は事情が事情だ。あまり強要しても軋轢を生むだけだろう。
俺はきょろきょろと周囲に視線を巡らせ、ある一点に目を止めた。そこには、飴玉が入った細長いケースがある。グリは飴が大好物なのだ。本来なら、寝る前におやつを食べるのはご法度である。だが、俺はそれに手を伸ばして中から一つをつまみ取り、グリの方に差し出した。
すると、グリの瞳がわずかに揺れる。飴玉の誘惑というのはそれほどまでに強力だったのだろう。彼女はぬいぐるみを盾にしながら俺の方にじりじりと寄ってきた。ここまでくれば、後はこっちのものである。
俺は飴玉をちらつかせながら寝室の方へと向かっていく。流石に食べ物を地面に置くような真似はできない。俺は彼女を刺激しないようにゆっくりと歩みを続けていった。
グリから手が届かないギリギリのラインをキープしながら歩いていく。必然的に階段を逆向きに上るという恐ろしい体験もしたが、何とか二階へ到着。俺は一度リリィの寝室の方を見て、むっと唇を尖らせた。
……今は仕方ないとはいえ、勝手に入っていいのだろうか?
同居しており、もはや家族同然とはいえ、リリィは仮にも女の子だ。勝手に部屋に入られたら色々と困ることもあるかもしれない。
などと思っていると、こちらの隙をついてグリが俺の手から飴玉をひったくった。彼女は俺から奪い返されないようすぐさま口に飴玉を放り込む。俺はその様を見て、またしても肩を落とした。
「……許せ。リリィ」
俺はここにはいない彼女に断りを入れ、部屋へと足を向ける。その際、グリを誘導するのも忘れない。飴玉をプラプラと揺らしながら後ろ手にドアを開け、そっと中へと入った。
同じ家だというのに、俺の部屋とは何もかもが違う。ベッドも綺麗にメイキングされているし、部屋にはゴミ一つ落ちていない。仕事机もきちんと整頓されていて、見事なまでにピカピカだ。しかも、女の子特有の甘い匂いもする。俺はそれらに意識を奪われないようにしながらベッドのほうまで歩み寄った。
俺がベッドに体を預けるとグリはすっかり慣れた様子でベッドの上に登る。もう後は大丈夫だろう。俺は飴玉を三つばかりケースから取り出して彼女に差し出した。
「ほら、ご褒美だ。いい子にしてろよ? 一人で寝れるか?」
彼女はコクリと頷いて見せる。ま、この調子なら大丈夫だろう。
「じゃあ、おやすみ。何かあったら俺の部屋まで来いよ?」
俺はそう言って部屋を後にする。グリは、最後まで飴玉を舐めるのに夢中だった。
……さて、それから一時間もしない頃。俺は困惑していた。
なぜか? 決まっている。
俺のベッドに、グリが上がりこんでいるからだ。スライム族特有のひんやりとした感触が伝わってくる。その上、飴玉を食べたせいなのか甘ったるい香りまで漂ってくる始末だ。グリはただ無言で俺の胸に頭を押し付けている。
「え、えっと……どうした?」
彼女は何も言わない。ただ無言で俺の体を抱きしめるだけだ。
その時になって、俺はようやく思い出す。グリと初めて出会った時のことを。彼女が今まで負ってきた生涯を。それらを忘れていた自分が嫌になる。
強がっていても、グリはまだ子どもだ。怖いに決まっている。なのに、俺は自分が傷つくことばかり恐れて彼女と心から接しようとしなかった。これは、完全に俺の失態だ。
俺はそっと彼女の体を抱きしめてやる。今、ここにいるのが不思議なくらい頼りないほど、彼女の体は小さく震えていた。
「大丈夫。俺がいるから。な?」
そう言って俺は彼女の頭を優しく撫でる。少しでも、彼女の不安が和らぐように。ほんのわずかでも、心の痛みがなくなるように。
すると、わずかだがグリの呼吸が落ち着いたものになった。顔は見れないが、どうやら眠ったようである。俺は彼女の額にそっと口付けをしてから、静かに呟く。
「お休み。いい夢を見ろよ」
そうして俺は彼女を胸に抱きながら、静かに瞑目する。それから眠りに落ちるのに、そう時間はいらなかった。
「いけない、いけない。すっかり遅くなってしまいました」
暗い夜道を走りながら、リリィはそう呟く。つい先ほど仕事を終え、帰路についたのだがすでに時刻は日を跨いでいる。脳内で渦巻く不安と戦いながら、彼女は必死で家へと向かっていた。
「……グリちゃんと夏樹さん、ちゃんとやれているでしょうか?」
彼女の心配事というのはそれだった。確かに夏樹は気が利くし、グリだって利口である。だが、夏樹はともかくグリは彼を避けているのだ。そんな二人が上手くやれているのか、と思うとリリィは気が気でなくて作業も手につかないほどだった。
「もう寝ているでしょうか……グリちゃん、一人で寝れないでしょうし、う~ん……」
考えれば考えるほどドツボにハマっていく感覚にリリィは眉根を寄せる。が、ブンブンと首を振って脳内で湧き上がるマイナスなイメージを振り払って足を速めた。
そうしてしばらく走っていると、やっと家が見えてきた。灯りはすっかり消えているところから見ても、起きているということはないらしい。その事実にほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、リリィはあることに気づく。
「あれ? でも、グリちゃんは灯りがないと……」
そう。グリはかつてのトラウマからか、多少の灯りがないと寝られない。だから、リリィと寝る時はいつも豆電球をつけて寝るのだが、今日に限っては全く明かりがついている気配がなかったのだ。
その様相に一抹の不安を覚えた彼女は急いで玄関へと向かい、ドアが壊れてしまうのではないかというほどの勢いで開けるや否や、一目散に自室へと向かっていった。
「……グリちゃん?」
もし寝ていたら起こしてしまうと思ったのだろう。リリィは静かにドアを開け、中に視線を巡らせる。が、そこにグリの姿はない。とすれば……残る場所は、あと一つだ。
リリィはそろそろと夏樹の部屋へと向かっていき、扉に手をかける。普段はドアを閉めているはずなのに、今日に限っては開いていた。もう、答えは読めたようなものだ。リリィはゆっくりと扉を開け、中を見やる。
すると案の定、ベッドにはすやすやと安らかな寝息を立てる二人の姿があった。互いに抱きしめあうようにしており、もはや一体化していると言っても過言ではないレベルだ。自分の時とはまた違う寝方を見て、リリィはふっと笑みをこぼす。
「よかった……それじゃ、お休みなさい。二人とも」
彼女はそれだけ言って部屋を後にする――が、そこではたと足を止めて首を捻った。
「そういえば、どうしてグリちゃんは電気がなくても寝られたんでしょう? まさか……夏樹さんがいたから? ……まぁ、それならいいですね。うん」
リリィは一人ごちながら部屋へと入っていく。熟睡している夏樹たちは、彼女がそんなことを思っているということなど露ほども知りはしなかった。




