3章(3)
野口と榊は弘子の殺害場所であるアパートに向かっていた。現場を見ておきたかったのだ。
アパートの大家には、連絡を入れてある。鍵を持って前で待っているはずだった。
大家は不機嫌に鍵を渡すと、さっさといなくなった。
また騒ぎ立てるのか、と言わんばかりに。野口はアパートの周りを、ぐるりと一回りした。
そして、殺害現場となった弘子の部屋の下で立ち止まり、窓を見上げた。
壁に取り付く蔦を持ち、野口はゆすってみた。
「これならば登れそうですね」
榊が言った。
「当時もこれと同じくらいなら、登れるな」
四年でどの程度、蔦が伸びたか分からない。だが、若い雄二には簡単なことだろうと思った。
野口は玄関に向かい歩き始めた。榊も黙って後を追う。
壁の所々からはいくつかの彫刻が顔を覗かせていた。
玄関の両脇には、立派な石柱も立っている。
「由緒ある建物みたいですな」
榊は石柱を見上げた。
「昔は、イギリスかどこかの軍人宿舎だったそうだ」
野口はあらかじめ調べたのだ。当時は軍人といっても戦争目的ではなく、
旅の護衛を兼ねての同行だった。役人や商人が仕事中に、護衛の
軍人が寝泊りする宿舎だったらしい。
「どうりで」
榊は感心したようだった。玄関ホールを抜けると、小さいが綺麗な中庭が広がっていた。
その中庭を囲む様に建物は作られていた。まるで砦のような造りだ。
玄関ホールと、丁度その向かいに階段が作られており、共に三階まで続いていた。
各階の廊下は、中庭側でつながり一周出来るようだった。
全体的に見れば長方形の形をしており、長いほうの面に四部屋。
玄関ホールと向かいの面に、階段を挟んで一部屋ずつ配置されていた。各階十二部屋だ。
「お洒落な作りですね。結構家賃も高そうですね」
榊の質問に野口は答えた。
「被害者の実家は、かなりの資産家で、問題はなかっただろう」
野口はそう答えたが、実は今では安いことを知っていた。
事件があったときから、徐々に賃料は下げられていたのだ。
その理由は、気の良さそうな不動産屋から聞いていた。
気の良さそうなその親父も、幽霊話を半信半疑だったが、否定はしなかった。
確かにこの空間には、一種独特の雰囲気があった。
しかしその雰囲気は、この作りと古さから来るものだと、野口は思った。
現場は玄関ホールから見て右手の奥になる。階段の隣で、左右には部屋はない。
少々騒いでも周りには聞こえないようだと思った。各部屋の扉は鋼鉄製。
頑丈そうな作りだった。二人は玄関ホールの階段を上った。
外廊下に出たとき、僅かに重苦しい雰囲気を感じた。榊も何かを感じたようだ。
「嫌な感じがしますね」
野口は答えなった。現場のドアは正面に見える。
しかし、ドアに向けて歩きだしても、ドアはどんどん遠ざかっていった。
いや、そう見えたのだ。野口は見に見えない何かを感じ取った。
しかもその感じは、ドアに近づくにつれ、はっきりと野口を押しつぶし始めた。
榊はとうとう立ち止まった。苦しそうに胸を押さえ、その場に座り込んでいた。
野口は必死に一歩を踏み出し、ドアに手をかけた。その途端、何者かに野口は吹き飛ばされ、
座り込む榊とぶつかった。訳が分からずドアを見上げる二人の目に、
黒い霧が徐々に現れるのが見えた。
その霧は更に大きさを増して、廊下に座り込む二人を包み込もうとしていた。
胸の苦しさで動くこともできない二人は、その霧をただ睨みつけるしかなかった。
しかし、突然その霧は消滅し、重苦しい雰囲気も辺りから一瞬で消え去った。
二階の廊下には、里美たちがいた。同行していた不動産屋の気のいい親父は、
一目散に逃げ出した。
里美も美子も今の出来事が、信じられないように、呆然と立ち尽くしていたが、
ノンちゃんには、しっかりとその正体が見えたらしい。
「今のが、二人のお友達よ。でも悪霊ね」
そう言うと、座り込む刑事二人に駆け寄った。
「貴方たち大丈夫?」
そう言って手を差し伸べ、榊を見た目が変わった。
「あら、いい男」
榊は差し出した手を、急いで引っ込めた。
「失礼しちゃうわ。ふん」
ノンちゃんは野口に手を貸した。そして、五人は坂の下の商店街に戻ってきた。
さすがに、あのままあの部屋には入れなかったし、ノンちゃんもやめたほうがいいと、
言ったからだ。一行は小さな喫茶店に入り、小声で話し始めた。
「そうだったのですか」
野口は里美から話を聞き、頷き答えた。そして思い出したように榊を紹介した。
ノンちゃんは興味津々榊を見ていた。
「それで、これからどうしますか?」
野口に聞かれて里美は困った。里美は美子を見たが、美子も困惑の表情を浮かべていた。
「ちょっと、ノンちゃん、考えてよ。専門家でしょ」
「専門家って言っても、ちょっと詳しいだけよ。私だって分からないわ」
ノンちゃんは怒った振りをしたが、やがてまじめな顔で話し出した。
「でも、これだけは言えるわ。近寄っては駄目よ。とても邪悪な存在だわ。
普通の人間では太刀打ちできない。既に三人も殺しているならば、
霊力もかなり強いと思うわ」
野口も榊もその手の話は信じていなかったが、今日の体験はとても人為的には思えなかった。
確かに目に見えぬ何かを感じたのだ。それは、恐怖であり、怒りであり、
そして哀れみだった。黒い霧に包まれそうになったとき、野口はそのすべてを感じたのだ。
野口もノンちゃんの意見に賛成だった。里美を危険な目には遭わせられない。
その想いが一番強かった。その時美子が口を開いた。
「でも、弘子が安らかでない事は分かったわ。里美、このままでいいの?
このまま永遠に弘子は苦しみ続けるの?」
里美は答えられなかった。
美子の気持ちは十二分に理解できるが、いったい私たちに何が出来るか、
おそらく何も出来ないのでは、と思ったのだ。
「私の知り合いに霊能力者がいるの、紹介するわ。このままだと、更なる犠牲者が出そう」
そう言って、ノンちゃんは霊能力者の連絡先を、メモにしたためた。
野口も榊も何も言えなかった。
『馬鹿なこといって』今まではそう言っただろう。
しかし今日の体験は、二人の考えを大きく覆す出来事になった。
しかも、『更なる犠牲者』の言葉が耳から離れず、藁にもすがる気持ちで、
霊能力者の協力を求めるしかなかった。
「ありがとう」
里美も美子もノンちゃんにお礼を言った。野口も黙って頭を下げた。
「いいのよ、私からも連絡入れとくけど、絶対に無理はしないで、約束よ」
そう言ってノンちゃんは立ち上がり、
「私の役目はここまでよ。仕事しなくちゃ」
と喫茶店を出て行った。野口は榊も帰らせた。それほどまでにショックを受けているようだ。
今も一言も口を聞かなかったのだ。野口の運転する車に、里美と美子は乗り込んだ。
もちろん警察の車で、ナビやら無線やらパソコンの末端まで装備された特別車両だ。
野口はエンジンをかけると、無線のスイッチを切った。車内は静まり返ったが、
結局は、その霊能者の家に着くまで、誰も口を開かなかった。




