3章(2)
里美は最後の口紅をひいた所だった。出勤まで後五分。特別急ぐ必要はなかった。
朝の日差しが窓から差し込む。
「暑くなりそうね」
里美は上着を着るか、手に持つかで悩んでいた。突然の電話にも里美は驚かない。
仕事柄、良くあることだった。出勤前の原稿の受け取りも、今まで何度もあったのだ。
「原稿ですか?」
里美は電話に出るなり、そう答えた。しかし、相手は何も言わない。
激しい息使いが聞こえるだけだ。
「美子?美子なの?」
里美にはピンときた。
「・・・そう、・・・そうよ」
電話口の美子の声は駅まで走ったため、息切れしていた。
「どうしたの、何かあったの」
「で、電話では・・・、電話では言えないわ」
「わかった。今から行くから、どこなの?」
美子から場所を聞き、里美はバッグを掴むと慌てて家を出た。
着るか、手に持つか悩んだ上着は、結局、椅子にかけられたままだった。
改札近くの壁にもたれる美子は、通勤客の視線を集めていた。
OLらしき女性は、不快感を露にして通り過ぎた。仕方なかった。
美子の顔は汗と涙で汚れていた。
化粧も半分は流され、髪も衣服も乱れ、とても見られた姿ではなかった。
しかし朝の通勤時刻に、優しい言葉をかける人はいない。
皆、足早に通り過ぎるだけだった。
美子にしてみれば、そのほうが気は楽だ。注目を集めるのは仕方ない。
『どうしたの?なにかあったの?』と根掘り葉掘り聞かれるのも嫌だった。
じっと里美の来るのを待つだけでも、今の美子には辛かったのだ。
弘子の声を聞けたのは嬉しかった。恐怖は微塵も感じない。
しかし冷静になって今思えば、弘子は拒んだのだ。
美子の訪問を、その声ははっきりと拒んだのだった。辛すぎた。
美子の胸は張り裂けそうだった。
里美は美子を見つけると、しっかりと抱きしめた。美子は里美の胸で思いっきり泣いた。
通勤時間にも関わらず、二人の周りには、人を寄せ付けない不思議な空間が広がっていた。
二人は、人目を避けるように、暗いボックス席に座っていた。
マスコミ関係者が使う昼まで営業するスナックだった。俗に言うオカマバーである。
普通、女はオカマに嫌われる。オカマは女に嫉妬するのだ。
どんなに頑張っても子供は生めない。それが理由らしい。
しかし、里美は姉御肌、性格も女々しくなくサッパリとしている。
何度か連れられて来る内に、すっかり仲良くなったのだ。
里美が美子を連れてきたとき、ママはこう言った。
「女が、女を泣かしては駄目よ。もしかして、おなべだったの」と。
里美が睨むと、ママは黙って奥のボックスを用意してくれた。
尋常ではないと、気がついたのだ。こんな時は、気配りのつくオカマのほうが安心できる。
里美はそう思って連れてきた。
カウンターでは業界人らしき数人が、かなり酔って歌っていた。
しかし、誰も里美に声をかけない。
この手の店では、他人のプライバシーには立ち入らない。そんな風潮が出来上がっていた。
もちろん、楽しむときは店が一丸となって楽しむ。
それがこの手の店の良いところでもあった。
カラオケの歌が少々騒がしいが、人に聞かせる話でもない。かえって都合がよかった。
タクシーの中でも黙り続けていた美子は、腰を下ろすとようやくゆっくりと話し始めた。
里美は驚かなかった。
何故かは分からないが、弘子の性格を知り尽くす里美には、当たり前に思えたのだ。
「きっと、私たちを巻き込みたくないのよ」
里美の言葉に美子は頷いた。もう涙は流していない。
その時、ママが水割りを持ってボックスに現れた。
「深刻な話?良かったらおばさんにも聞かせて?年配には年配の知恵があるのよ」
と、里美の隣に腰を下ろした。里美は頷き、大まかにだが今までのことをママに話した。
しばらく考え込んでいたママは、不意に立ち上がり、
振り向きざまにカウンターのお客に叫んだ。
「今日は店じまいよ。ごめんね。また来てね」
お客は文句も言わずに帰っていった。慣れたものだ。
「あんたたちも、こっち来て」
片づけをするバイトをママは呼んだ。二人もれっきとした?オカマだ。
「ちょっと聞いて」
ママはバイトの二人にも話をした。バイトの一人は、霊感が強い。
そんなことを聞いたことがあった。
オカマバーではよく心霊話に花が咲く。里美が来たときも、よく怪談話をしていた。
里美が怖がらないと知って、バイトの子はがっかりしていたのだ。
彼?は良く幽霊を見るらしい。
子供の頃から見えたようで、今では慣れっこになっていた。
子供の頃には、幽霊と人間、両者の区別がつかず、恐怖心は少しもなかったそうだ。
彼?の説明では、弘子は既に悪霊となっているらしく、
変わり果てた自分を見せたくないのでは、と言う事だった。
里美にはなんとなく理解できたが、美子は納得できない様子だった。
どんな姿でも、もう一度会いたい。それが美子の願いだった。
しかし、当の弘子が拒む以上、姿を現さないのでは、とも、その彼?は言っていた。
それでも美子の気持ちは決まっていた。とにかくアパートに行くことを諦めなかった。
里美も一緒に行くことにした。何が起ころうとも、美子一人にはできなかったのだ。
ママもその彼?ノンちゃんも同行させたらと、言ってくれた。
ノンちゃんは喜んで付いて来てくれるらしい。
「なんか、わくわく、って感じ」
里美はバッグを美子に渡した。そして小さく笑って一言加えた。
「化粧を直しなさい」と。