夏の日の、再会
オオォオオオアアァァアアアァア!!
突如として公園に怒号とも悲鳴とも取れる咆哮が轟いた。一瞬、心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥り思わず身が竦む。化け物はまるでこちらを品定めするかのように血走った目を細めたかと思うと、秒を跨がないうちに赤みがかった巨躯の重心を低く落として目の前の獲物の首を刈り取るための準備を終えた。両手の五指から伸びる鋭利な爪が妖しげに光る。
生命の危険を感じた俺は逃げる算段を立てようとするが、おそらく目の前のアレはそれを許してはくれないだろう。後ろを見せたが最後、俺の首が血鞠となって公園の中をポンポンと弾むのが容易に想像できる。
ここで終わるのか、俺の人生。
今まで当たり前のように過ごしてきた、なんてことのない日々が走馬灯のように頭を過る。 自分が今までどれほど愚かであったかだとか、自分が如何に尽くさない17年間を送ってきたかだとか、今更になってどうしようもないことばかりがぐるぐると堂々巡りのように頭の中を掻き回す。まだまだやりたいことがあったような気がするのに、まだまだ自分が生きている世界のことを知らなければいけないのに、それを、こんなやつに奪われるなんて、そんなの......冗談じゃねえッ!!
俺はたとえ無謀な道であったとしても最後まで足掻くことを選んだ。
やってやる。どんな犠牲を払ってでも隙を見て目の前のアレから逃げ果せてやる。そう決心した俺は思いの丈を込めて雄叫びを上げる。
「助けてええええええええ!!!!!!」
静寂。
俺の叫びは公園内を虚しくこだましたあとどこかに吸いこまれるように消えていった。相変わらず人の気配はない。
覚悟を固めたつもりだったがやっぱり怖いものは怖い。どうやらコイツとはちゃんと正面からお付き合いしないといけないらしい。
俺は意識を目の前の異形の動きに集中させ、いつでも動けるように体勢を整えて相手の出方を伺う。こんな危なそうやつを相手に自分に何かができるとは思わないが、ある程度の心積もりはしておこう。
化け物は俺の突発的な絶叫に一瞬だけ警戒したような素振りを見せていたが、その絶叫が何の意味も持たないことを悟ったのか今度はさっきよりも遥かに鋭く錬磨された殺気を纏っている。どうやら徒らに刺激してしまっただけらしい。
来る。
そう思うよりも早く、公園の一角が爆ぜた。
化け物は砂塵を纏いながら疾駆し、彼我の差を一瞬にして無きものにする。通常ならばここはあっけなくミンチに成り果てる場面のはずだが、驚いたことに極限にまで研ぎすまされた五感がその動きを捉えた。人間、追いつめられると結構頑張れちゃうらしい。
不思議と体は早く動いた。俺は半ば仰向けに倒れ込むようにして体を反らし、辛うじて化け物の突進を凌ぐ。目の前を尖爪が過る。後方で鉄棒がひしゃげる音がした。
背中が地面に激突するのを感じながら自分の気持ちが少し高揚していることに気づく。
こういうのは初めてじゃない。何故かそんな気がした。いつかは分からないが昔もこうして......って、何やってんだ、俺は。
死と隣り合わせの今の状況で妙な感傷に浸っている自分を叱責する。
慌てて立ち上がり、後方にいるであろう化け物に対応するために振り返る。そこには既に俺の目と鼻の先で腕を振り下ろす化け物の姿があった。
まずい。
俺は咄嗟に両腕を交差させる。
ガインッ!!
腕に伝わる衝撃と共に鉄と鉄を打ち付けたような、耳をつんざく打音が響いた。しかし、予期していた衝撃と飛翔感はまるでない。吹っ飛んでいてもおかしくない勢いだったはずだ。
いつの間に目を瞑っていたのだろうか。俺は恐る恐る閉じた目を抉じ開ける。
「は?」
目の前には自分の命を刈らんとする赤い腕があった。そして、それを防ぐ無傷の自分の腕があった。
今まで順調にすくすくと健やかに育ってきたつもりだが、いくらなんでもあの一撃を防ぎきれるようなバイタリティは備えていないはずだ。俺は今の状況を可能な限り理解できるように努める。まさかとは思うが俺と化け物の力が拮抗している? いやいやいや。
視線を少し上げると人間じみた人外の顔がこちらを見下ろしているのが見える。フシューと血なまぐさい息が嗅覚を刺激する。
くっさぁ......
そう思ったのも束の間、俺の足が思い出したかのように悲鳴を上げた。途端に骨が軋み、筋が強張り、肉が戦慄く。今更な激痛とともに、ブチブチと筋繊維が何本か切れる音が伝わってくる。
うん、分かってた。
これは紛れもなく現実だ。脚部から伝わる痛みが如実にそれを物語っている。
次の瞬間、俺は化け物の豪腕に負け、勢いはそのままに後方へ吹き飛んだ。俺の体は錐揉み回転をしながら無造作に置かれているベンチに突っ込む。ベンチは木っ端微塵に破砕され、俺の体に途轍もない衝撃が走った。
「あっ......がっ......」
肺の中の空気が圧迫されるように一気に押し出され、一瞬ではあるが呼吸困難に陥る。
化け物がずんずんとこちらに近づいてくるのが見えた。だが、俺の身体はまるで油の切れたブリキ玩具のように節々が思うように動かない。
化け物は俺の前で立ち止まり、右腕を振り上げて鋭利な爪を光らせる。
まあ、頑張ったよな、俺。
俺が鼻水を垂らしておいおいと泣きながら短い人生の幕引きを嘆いていた、その時。突如として、どこからともなく飛来した炎弾が化け物の横っ面に直撃した。何かが爆ぜるような音とともに熱波が押し寄せる。
「え?」
化け物はぶすぶすと燻る顔を手で覆い、覚束ない足取りで数歩後ろへ下がる。それを見計らったかのように、俺と化け物の間を遮るようにして人影が割って入った。
「うわぁ、酷い顔ね」
それは少女であった。
動きやすそうな装いに身を包んだ彼女はセミショートの黒髪をなびかせながら腰に差した脇差しに手を宛て、得意そうな表情を浮かべてこちらを見ている。
変わったところも多々見受けられるが、勝ち気が過ぎる瞳、艶やかな唇、筋の通った鼻、くっきりとした眉毛、あの頃とあまり変わらない慎ましい胸(おっと、失言)、全てに見覚えがある。
俺は彼女を知っている。
獅子王蓮華を知っている。
「ちょっと待ってて、すぐ終わらせるから」
幼馴染みは不敵に笑う。