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夏の日の、遭遇

 あの後、次いで母さんの悲鳴も家中に響き渡った。母さんを宥めるのは大変だった。

 ねえ、反抗期? そうなの? ああ、ついにこの時が来てしまったのね、なんて言いながら崩れ落ちた時は正直気が滅入ったものだ。

 玄関をあのままにはしておけなかったので業者に連絡を取って玄関を修理しに来てもらう手筈となった。散々謝った末にようやく落ち着きを取り戻した母さんは、しばらくドアノブの断面をまじまじと見つめた後、


「取りあえず、そのボサボサの髪を切ってきなさい。いい男が台無しよ」


 と、親馬鹿じみたことを言いながら散髪代を手渡してリビングに入っていった。おそらく、ソファに座って撮りだめしていたドラマでも見るのだろう。暢気なんだか、肝が据わってるんだか。しかし、流石に申し訳ないので散髪代は母の財布にこっそり返しておく。

 さっきはシャワーを浴び損なったので今回こそはと風呂場の扉を開ける。

 一瞬、水風呂に浸かることも考えたが、生憎と湯船の中は空だし、我が家の家計のことを考えると一から水を溜めるのはなんだか憚られたので当初の予定通りシャワーだけで済ませることにした。蛇口を捻って水を出し、体を冷水の温度に慣らした後、勢い良く頭からかぶる。


「くぁー、染み渡るぜぇ!!」


 おっさんクサイ間抜けなセリフが狭い浴室に反響する。にわかに恥ずかしくなってきた俺は外に声が漏れていないかと不安になりつつもいつものように自分の肉体美を鏡で堪能することにした。元々自分の肉体に自信があったわけではないが、成長期真っ只中の男子諸君なら誰もが通る道であろう。それに逞しく変化した自分の身体を確認するいい機会だ。



◇◇◇



 自分の肉体美を一通り堪能した俺は当初の計画通り髪を切りに行くことにした。依然、疑問だらけではあったが病院に行くわけにもいくまい。まあ、特に支障もないのだから取り急いで行く必要もないのだが。

 そんなわけで今は床屋に向かって歩いているところだ。とは言っても床屋までは家から歩いて十五分と時間はそれほど掛からない。

 別に美容院でもいいのだが、なんだか気恥ずかしいし、それに髪型のことはよく分からないのでカッチョよくすいてくださいとしか言えないし、あと高いし......

 己のオシャレレベルの低さに人知れず意気消沈しているといつの間にか公園の傍を歩いていた。その公園はそれなりに広い面積を有している。家から床屋までの間のちょうど中程あたりにあるのでもう少し歩けば目的地に着く筈だ。

 そういえば、小さい時はよくここで遊んだものだ。近所の子たちと鬼ごっこやドッジボールなんかで遊んだりして。いつもは素通りしているが、改めて見てみるとこの公園も随分と小さく感じる。いや、俺が大きくなっただけか。

 ささやかな感傷に浸っていると、ふと、砂場の横の少し開けたところに人が何人か集まっているのが目に留まった。どう見てもこの公園で愉快に楽しく遊ぶような連中には見えない。数えてみるとどうやら5人いるらしい。年は俺よりも下だろうか。いかにも気弱そうな私服姿の男の子がお世辞にも善良とは思えない、派手に学ランを気崩した男連中四人に囲まれている。なんだか物騒な感じだ。制服のデザインから察するに少なくともうちの学校の生徒ではない。というか、今は夏休みだぞ。どうして制服なんか着てるんだ? どちらにせよ俺のあやかり知るところではない事情というものがあるに違いない。

 巻き込まれたくなかったので気の毒ではあるがその場を去ろうとした時、不幸なことに連中のうちの1人と目が合ってしまった。


「おい、あいつこっち見てるぞ」


「やべ、見られちまった。話つけてこい」


 まずい。そう思ったのも束の間、1人が男の子のところに残り、あとの3人がこちらに向かって走ってくる。なんてこった。逃げないと。そう思ったが、何故か足がすくんで動けない。やがて彼らは俺のところにくると、ちょっとした怒気を含ませた声音で話しかけてきた。


「なあ、あんた、今ここで見たこと、誰にも言わないでくれるかな?」


「い、言いませんよ」


「あん?本当だろうなあ?」


「ほんとほんと」


「嘘くせえぞ、コイツ」


「やっちまうか」


「だな」


 だな、じゃねえよ!

 そう思うや否や連中の1人が足を深く踏み込み、右拳を勢い良く振りかぶってきた。

 おいおい、喧嘩っ早いってレベルじゃねえぞ。

 俺は危機を察知して思わず顔を両腕で覆った。これぐらいしかできない自分が少し情けない。


「ぐわあ」


 当たる。

 そう覚悟した瞬間、まるで銅鐘を素手で叩いたかのような乾いた音が周囲に響き渡った。見下ろすと殴り掛かってきた奴が拳を抑えて蹲っている。


「い、痛えぇ!コイツ、めちゃくちゃ固えぞ!!」


 突然の出来事に周りの不良達の顔にも動揺の色が見え隠れしている。

 何が起こったのかは分からないが、このままだとタダでは済まないと思ったので俺はこの隙を突いて逃げ出すことにした。

 一人が倒れ臥したことによって生じた間隙に身を滑り込ませ、そのまま一目散に駆け抜ける。どうやら不良達の意表を突くことには成功したようで、難なく不良たちが組んだお粗末な陣形から脱することが出来た。俺はそのまま公園の外に向かう。

 この時、身体に妙な感覚が走った。やけに体が軽いような気がする。

 自棄糞になって公園沿いを走るが恐ろしくてとてもじゃないが後ろを振り向けない。ただ、怒号と足音が後ろから追ってきているのは確かだ。このままではいずれ追いつかれるだろう。どこかであいつらを巻かなくては。

 公園の中へ入り、比較的近くにあった、タコの形をした滑り台の下に身を屈ませながら潜り込んだ。灯台下暗し。まさか俺が公園内で隠れるとは思っていないだろう。あくまで希望的観測だが。それにしても首尾よくここまで逃げてこられたのが不思議だ。動揺していたのか、奴らの位置などおかまいなしで逃げてきたが、それにしても出来過ぎだ。多少の疑問は残るがとりあえず俺はここであいつらがどこかに行ってくれるのを待つことにした。

 鳴りを潜めて耳をそば立てる。少し遠くの方であいつらの声がした。どうやら俺はそれなりにあいつらを引き離していたらしい。そのうちどこかへ行くだろう。

 俺はふとあの男の子のことが気がかりになった。そういえばあの子はどうなったのだろう。タコの足から顔を覗かせて砂場の方に目をやるがそこには誰もいなかった。なんとか逃げ果せたのだろうか。直接行動に移せるかどうかは別として、俺にもいっぱしの人情というものがある。まあ、見張りが1人ならなんとか逃げられなくもないだろう。

 些か楽観的な感が拭えないが、そう信じて一息つくと思い出したかのように疲れがドッと押し寄せてきた。今日は色々と災難続きだな。

 深く息を吸い込んでそのまま滑り台の内側のヒンヤリとした壁にもたれ掛かる。

 そういえば昔もこうしてここでかくれんぼをしていたっけ。今は音沙汰もぷっつり途絶えてしまっているが、当時、近所にとりわけ仲の良かった子がいた。まあ、幼なじみというやつだが。その子は中学へ上がると同時に遠いところにある学校にいってしまった。会わなくなってからもう随分と経つ。今頃どうしているのだろうか。


 見知った天井を眺めながらセンチな気分に浸っていると、ふと、皮膚の表面の小さな毛がぷつぷつと総毛立っているのに気がついた。なんだろう、この嫌な感じは。さっきからやけに静かだ。まるでこの周辺だけが外界から切り取られたかのような、判然とはしないが確かに感じるその異変。

 俺はタコの滑り台から這い出て周囲を見渡す。しかし、そこには人っ子1人いなかった。近くにある屋外時計は12時半を示している。

 この時間帯はお昼ご飯を食べている家庭が多いのでこの公園を利用する人は比較的少ないのだが、しかし、これではあまりにもあんまりだ。

 焦燥を少し滲ませながらふと砂場に目をやると、真ん中辺りにぬらりと女が1人立っているのが目に入った。その女は赤いトレンチコートを着ていて、顔は長い髪に隠れていてよく見えない。どことなく俯き加減で、それでいて何もかもを一切合切睨みつけているような、そんなえも言われぬ歪な気配を放っている。何よりも今は夏である。トレンチコートなんてアツっ苦しそうなものを着ている事自体が不可解極まりない。切り取った写真をそのまま貼付けたような、ちぐはぐな場違い感がそこにはあった。

 俺は女の方から呻き声ようなものが発せられていることに気づく。


「......ス......、......ス......ス......」


 髪の隙間から僅かに覗く口元が動いているのがかろうじて確認できたが、何を言っているのかまでは分からなかった。しばらく意識を集中させていると、やがてその声はラジオの周波数を合わせるかのように次第に明瞭になり、何を言っているのかがなんとなくではあるが分かるレベルになってきた。


「......ス......ロス......コロス......コロス......」


 おっかねぇ……

なんともおぞましい声だった。それは祈りのようにも聞こえた。女の口から漏れ出る耳障りな呪詛は、この世の全ての不吉を孕んだかのように醜く不愉快だった。

 関わってはいけない。

 第六感ともいうべきそれが、如実に危機を伝えてくる。しかし、悲しきかな、あの女は俺の存在を認識したようで、これまた悲しいことに、こちらに明確な殺気を向けてきた。先ほどとは比べ物にならないほどの女の狂気が俺の頬を撫でる。唯々、自分の運命を呪った。

 ところが、意外なことに女は無尽蔵かに思われたほどの夥しい呪詛を紡ぐのを止めた。公園をぴんと張りつめた静寂が支配する。

 あれ、何でもなかったっぽい?

 ミシッ、バキッ

 そう思ったのも束の間、女はおぞましい音を周囲に撒き散らしながらその体躯を膨張させた。女を形作っていた殻は四散し、砂場にパラパラと降り掛かる。

 突如として現れたそれは異常に発達した鋭利な牙を覗かせる口から血なまぐさい臭気を漂わせ、むき出しになった筋繊維を隆起させながら真っ赤に充血した眼をこちらに向けている。

 それは二本の足で立っていた。

 恐ろしく巨体であった。

 人であることは辛うじて分かった。

 しかし、それは人外であった。異形であった。


 それは、鬼であった。

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