夏の日の、召喚
高校2年の夏休みも後半に差し掛かろうとしていた。
時刻は22時少し前。俺は入浴を済ませ、着衣も疎らに2階の自室の窓を開け、夜風に当たりながら先ほどコンビニで買ってきた漫画を床で寝そべりながら読んでいる。いわゆる衝動買いというやつだったが、夏休みの宿題にじわじわと追われて荒みきっていた精神を健やかに保つためにどうしても必要なものだった。決して現実逃避ではない、断じて。とはいってもこんなことをしてる間にもリミットは刻一刻と迫ってきているわけで、こうして自堕落的な生活を送っても目の前に山積している問題は何一つ解決しないままだ。なんでこんなものを買っちまったんだ。
そんな折の出来事だった。
突如、俺を中心に直径2、3メートル程の円形の何かが眩い光を放ちながら展開された。もんどり打って目を凝らして見てみると床一面に見たこともない幾何学文字がたくさん散りばめられていている。馴染みのない文字たちはどうやら規則的に配列されているようで、その様相からはどこか洗練されているような印象を受けた。昔読んだ漫画やら小説でこんなのが出てきたような気がする。こういうのをなんて言うんだっけ。確か魔法陣とか錬成陣とかいってた気が……。
え、何これ怖い!?
やがて、周囲に展開し続ける幾何学文字群は目をつんざく勢いで輝きを増し、程無くして俺は敢え無く意識を手放した。
◇
『悪く思わないで欲しい、これもキミのためだ。だからみんな忘れてくれ』
◇
「ーーーーっ!?」
気がつくと俺は鼓膜が張り裂けんばかりの大音量の拍手と喝采の中にいた。
かなりの数の人が広場と思われるところでひしめき合い、一斉にこちらを見つめている。
「は?」
訳が分からず思わず声が漏れる。周りを見回すと見たことも話したこともないような人たちが俺を囲むように立っていた。筋骨隆々の大男や、冠のようなものを被った壮年のおっさんがこちらを微笑を湛えながら見つめている。少し離れたところではドラゴンらしき生き物がでっかい肉をバクバク食べている始末だ。年は俺と同じくらいだろうか。甲冑に身を包んだ、如何にも剣士やってますとでも言いたげな格好をしている者までいる。精悍な顔つきをしているが、しかし、どことなく爽やかで、思わず平手打ちをお見舞いしたくなるぐらいにはモテそうな顔つきの男である。妙ちくりんな風貌をした人たちばかりだが、どれも俺の知らない人たちばかりだ。そうした人たちに囲まれながら、俺は一人考える。
今、自分が置かれている状況がイマイチ掴めない。
当然だ。部屋の中で寛いでいたら突如怪しげな陣に囲まれ、そして、この有り様だ。理解の範疇を超えている。それに、先ほどから妙に頭が痛い。頭の芯がずくずくと疼いているようで、熱を帯びているのか少しぼんやりする。
それでもなお考え続けているうちに俺はとある結論に辿り着いた。なんてことはない。自分の部屋から一転してこんな珍妙なシチュエーションに身を投げ込むハメになるなんてそうそうあることじゃない。答えはとうに出ている。
「分かったぞ、これは夢だ」
声に出して言ってみる。そうすることで幾分か気持ちに余裕が持てた気がした。となると話は早い。あとはこの夢が覚めるまで、夢の中での俺の役割を全うするだけだ。それに、こうして冷静になってみると随分と楽しそうな夢じゃないか。背後からは先ほどの大男の大きな笑い声が時折響いてきている。
一人思案に耽っていると俺よりも少し背が低い、どちらかというとやや華奢目な少女が近付いてきた。目鼻立ちは整っていて、髪は雪のように白く、装いにはどこか神聖な趣きがある。あと、巨乳である。
「そうですね、ここ最近は夢のようなひと時でした。それこそ、悪夢がほとんどだったと言っても過言ではないほどに」
「そうだな」
聞こえていたのだろうか。とりあえず俺は適当に相槌を打つ。
「それでも、今こうして同じひと時を過ごせている。それだけでも最後は幾分か報われた夢だったのかもしれません」
少し間を置いて少女はどこか儚げな表情を浮かべながら続ける。
「もう、行ってしまわれるのですね」
少女の言葉を皮切りに周囲はしんと静まり返り、さっきまで高らかに笑っていた大男までもが黙り込む。周りを囲っている一人一人が俺の言葉を待ってるような気がした。おそらく夢の終わりが近いのだろう。円満な夢となるように努めなくては。そんな気がした。
「そんなに悲しそうな顔をするなよ。また会えるさ、きっと。そんな気がするんだ」
おそらく、この場での対応はこれで合っているはずだ。現に目の前の少女は心なしかさっきよりも穏やかな表情を浮かべている、ような気がする。
内心ほっとしたのも束の間、突如として後方の少し離れたところにある扉が軋みだした。直感ではあるがなんとなくその意味が理解できた。
そろそろか。
「じゃあ、俺もう行くわ」
扉に向かって歩みを進める。扉には色がない。ガラスのように無色透明だが、扉が放つ異様なオーラで嫌でもその存在を認識できてしまう。率直に言うと不気味きわまりないシロモノだが、見ていると不思議と心が安らぐ。おそらく、あれが夢の終着点。扉はまるで意思を持っているかのようにひとりでに、そして徐に開きだす。
俺はふと扉の前で歩みを止め、振り返る。何故かは分からないが言いようのない名残惜しさに襲われる。もう一声くらい掛けておこう。
「元気でな」
ふっ、決まった。
そう思うよりも早く世界は再び暗転した。