異変
理子は今頃、何をしているだろうか。無理して笑ってはいないだろうか。
次に彼女と会う時が最後となるだろう。
俺がいなくなれば、きっと、心に住み着くバイキンは、今より増して、心にぽっかり空いてしまった穴は広がるだろう。
それでも、彼女は前を進み続けられるだろうか。
心配に胸を膨らませ、エンデュはベッドに無表情で横たわり、何の変てつもない天井の壁を見やる。
イヴは、昔、よくエンデュが寒がりの私を心配して私のためにプレゼントをしてくれた暖かい毛布の上で、横たわり、無表情に天井の壁を見やるエンデュをただ、見つめていた。
相変わらずに汝は一人で抱え込む。そのくせ、平気なふりをして、いつも、冷静でいる。
私は心苦しいぞ。汝のその姿を見ているとな。優しすぎる所が汝の傷なのだよ。
思いやりの神とは、やはり、そういうものなのか?
そんな思考が過っていた時である。
突然、妙な胸騒ぎがした。この、悪魔にも似た異臭、あの日を思い出させられる、一度、聞けば消して忘れることのない、独特な物音。
それを、一秒もたたぬ間に感じ取ったイヴは、体を起き上がらせると、家から素早く出て行った。
この瞬間、我に返ったエンデュは、体を起こしながら、言う。
「イヴ! 何処へ行く!」
慌ててイヴを追い、彼は家を抜け出した。
どうやら、イヴはそれを察していたようである。イヴは足を止めて、こちらへ首を回し、黙って、見つめていた。
周囲を見渡せば、アムール国であると言うことに疑いが持てるほど、町中は、何者かにより荒らされていた。
あちらこちらの住宅は、めちゃくちゃになっている。窓ガラスは割れ、壁は壊されて、家の中は丸見え状態。
耳を済ませば、あちらこちらにバタバタと羽を鳴らす音が聞こえる。そちらを見やると、その正体を目にしたエンデュは、凍りついた。
......封印の解かれた闇の精霊が再び目覚めたのだ。
ひどい有り様に成り変わった町を、エンデュは眉間にしわを寄せながら見詰めていた。
すると、着いてこいとでも言うように、イヴは歩き出して行った。エンデュは、イヴの背後を歩いて行く。
歩いて行きながら、周囲を見渡す......。
豪快に壊れた家、ぽっきり折れ曲がった、まだ、若い木々や怯えて立ち尽くす神々、立ち向かい全力で自身の持つ力を使うたった数名の神々を......。
ジュノの体は震え上がり、ナキアを見やると同時に、頭の中の色は真っ赤に染まった。
この瞬間、ジュノの何かは、壊れた。
突然、地震が起きたかの様に、汚れと錆びがよく目立つ鉄のテーブルとともに、それによしかかっていたナキアは、向こう側の壁の方まで、一気に押しやられる。
よろめきながら、突然の事に目を見開くナキア。体をふらつかせながらも、ようやく冷静さを取り戻したナキアは、こちらを見やり、ニヤリと笑う。
「さすが、選ばれし女神だな」
ジュノは、瞬き一つせず、キッとナキアを睨んでいた。
もう、憎さしかなかった。
この男のせいで私は......私は、神として非常に好ましくない行いをしてしまっていたのだ。彼女の中で、罪の意識が膨らんだ。
「......記憶を取り戻す薬だよ。これで、自分が何者なのか、何をして来たのか、全て分かっただろう?」
また、ニヤリ、笑った。
この不気味な笑みは、彼女を肌寒くさせる。
携帯電話がブルブルと震動したのを肌に感じ取り、ナキアは、それをジャケットの中から取り出した。
中身を確認すると、彼は思わず舌打ちをした。
「チッ。ヘリオス、見張っていろ」
イラついた顔に成り変わったナキアは、ヘリオスにそう言って、ここから左手にある隣の小さな部屋へと入って行った。
そして、鉄の家の中の空間は、静けさに走った。
ただ、奇妙なごつい鉄時計の針が、止まることを知らずに、カチカチ鳴っている。
鉄時計の一番細い針が、30回ほど鳴った頃、ジュノは、おもむろに口を開いた。
「............もう、終わりね。私たち」
すると、ヘリオスは、申し訳なさそうな顔を浮かべて、言い出した。
「すまない......。あの時、俺はどうかしていたよ。君の本当の魅力を忘れかけていた。もっと早くに目を覚ますべきだったよ」
......ヘリオスは、突然、“誰か”に顔面をひっぱたかれた感覚を覚えた。
ひっぱたかれた左の頬は、真っ赤な血色に染まっている。ヒリヒリと痛み、彼は自分の頬を確認するように触った。
そして、前後左右を見渡した。
しかし、誰の気配もなく、相変わらずに鉄時計が鳴り響いていた。
ヘリオスの奇妙なその姿をジュノは不可解に見つめ、言った。
「ヘリオス?」
だが、その瞬間、ヘリオスは、突然、気を失って白目を向いたまま、大きな音をたてて、倒れ込んでしまった。
唖然として彼を見やっていると、今度は、突然、体に間と割りついていた鉄の塊は、次々と外れていった。
手首に嵌められた手錠も、足に間と割りついた鉄も、胴体にきつく間と割りついた鉄の塊も次々と外れていく......。
彼女の頭の中は、真っ白に染まった。が、それは一瞬の内。
頭の中を白く染め上げる暇もなく、“誰か”に腕をグイッと引っ張られる感覚がしたのである。
もともこもなく、彼女はその、“誰か”に力強く引っ張られ、足を取られてしまった。
そのまま、“誰か”に腕を引っ張られ続けた彼女は、あっと言う間に鉄の家の外へと出た。
すると、外へ出た瞬間、姿形もない“誰か”はジュノの腕から手を離した。そんな感覚がした。
彼は、全身の力を抜き、元の姿を取り戻してゆく。無から有へと変わってゆく。持ち前の金髪、恐ろしいと思うほどに整った顔立ち。彼のそのままの姿に戻っていった。
よく見れば、地面にぐうたらと横たわった犬神の姿もある。彼を大人しく待っていたようだ。
ジュノは、思わず安堵のため息をついた。
「エンデュ! こっちはきりがない!」
額に汗をだらだら垂らしながら、大量の闇の精霊の数に苦戦するカゲンはこちらを見て、言った。
彼の付近の地面には、焼け焦げた精霊の死体の山積みになっていた。
鉄の家の前から見れば、ただの灰の塊の様にしか見えない。しかし、これほど小さな悪魔がこのアムールの姿をガラリと変えたとなると、それほど恐ろしい生き物は他にいない。
ジュノの手足の先がブルブル震えた気がした。
その不安な顔を浮かばせて、目の前に映り混む景色を目やる彼女の姿を、エンデュは見つめる。
......どんなに心が引きちぎれる思いだろう。
そうなるのは、当たり前のこと。不安になるのは当たり前のことだ。
けれど、彼女のその、当たり前の気持ちは、俺も、他のどんな偉大な神にも分からない。
ただ、一人、自身の仕事が成し遂げられず、結果この様になってしまったことに苦しみを胸にいだく彼女を、俺はどうすることも出来ない。
だが、それも、当たり前のことなのだろう。
エンデュは、ジュノの顔の両端に、両手を優しく添えると、言った。
「......ジュノ。あそこで何があった?」
問い詰められたジュノは、震えた唇をおもむろに開くと、不安な表情に、重たい口調で、言った。
「............私は」
......だが、口が途絶える。言いにくそうだ。
それでも、エンデュは真剣な表情を浮かべ、ただ、私がまた、口を開くことを待っていた。
......そんな、言えるはず......だって、私が見たのは過去の記憶。
そこで、罪深い過去を知ってしまった。
私の過去の記憶が消された訳も、ぼんやりと理解が出来る気がする......。
だが、言わなければ。
アムール国の姿は、たちまち変わっていく。
“彼ら”の暴走は止むことをえず、この国の姿は変わり果てていった。
“彼ら”のバタバタと鳴り続ける羽の音が止むこともなく。
― END ―




