神の就職案内
「……ここはどこだ」
気が付くと男は周りに何もない、地面も空も一面が白い世界にいた。霧がかかっているようで、周りを見渡しても何も見えなかった。
何故このような場所にいるのだろうか。見慣れた風景ではない事は確かだ。雪のように白くなった脳に喝を入れる。まだ意識がはっきりしないのか、何も思い浮かばない。いきなり知らない土地に立っていた男の顔には不安の色が見える。
男は何か手掛かりがないかと、必死に記憶を辿った。しかし、何も思い出せなかった。さっきまで何かしていた気がするのだが……
男は額から顎に汗を垂らしながら、必死に顔を左右に向けて周りを見渡した。霧が晴れる様子は無かったが、霧のカーテンの中に茶色のドアが見えた。
「なんだコレは」
男は目を見開いた。ドアの横には壁が無い。ドアだけが自立しているのだ。男は横からドアの裏を覗いたが、そこには同じ何もない世界が続いていた。
この状況を知る手掛かりはこのドアしかないようだ。男は唾を呑んでノブを捻ろうとしたが、ドアが自然と開いた。
ドアの向こうを見た男の顔が強張った。椅子と机が置いてあり、その奥に椅子に座る人影があるのだ。それを見た男は迷いながらも覚悟を決めて、ドアをくぐった。
ドアをくぐると、ドアはカチャリと優しい音をたてて閉まった。男が振り向くとドアが消えていた。この状況がおかしいのはわかっている。驚いてもしょうがないだろう。
「やぁ、お疲れ様。そこの椅子に腰をかけてください」
不意に声をかけられた男は、はっとして人影を見直した。人影は初老の男だった。優しそうな顔だが、どこか疲れたような目をしていた。
男は初老の男を見て、警戒しながら椅子に座った。
「そんなに気を張らなくて良い。君には就職案内をするだけですから」
「就職案内?」
思いがけない言葉に、男は目を丸くした。
「そうです。生を終えた者に、次の生を紹介するのが私の仕事です」
何を言っているんだコイツは。男は信じられずに質問をした。
「お前は何者なんだ?」
初老の男は顎に右手を添えて、考える様子で答えた。
「……私は、皆さんに神と言われている者です」
この夢の中にいるような非現実的な空間。そして、俺には記憶が欠落している。この状況では信じるしかないのか。しかし、コイツの言ってる事には信憑性に欠ける。男が下を向いて考えに没頭していると、神の声がした。
「生を送った者は、その生を終えるとここに来ます。肉体から抜けた魂が君です。そのショックで記憶が無いと思いますが、じきに思い出すでしょう。君はもう肉体が無いので、肉体的苦痛を感じません」
神の事務的な説明に、男は刺されたような衝撃を受けながら、試しに自分の左腕を殴ってみた。――痛みがない。それどころか、椅子や机の感触も無い。さっきまで意識がボヤけて、気が回らなかったのだ。その事にさらにショックを受けた。
そんな男を差し置き、神は淡々と話を進めていく。
「生とは、人間のいう仕事です。君は次の仕事は何をしたいですか?」
「死んだら、天国か地獄に行くんじゃ無いのか?」
男は質問を投げつけた。
「それは、君たちの勝手な妄想です。しかし、天国も地獄もありますよ」
「それなら、俺は天国に行けるのか?」
男は机に身を乗り出して、神に問い掛けた。
「それは無理ですね。君ができる事は新しい仕事に就く事だけです」
「なんで天国に行けないんだ?」
「天国とは、大きな仕事をした者が行く場所です。採点式でランクを付けるのですが、死人を減らすと点数が高いです。生に大きく影響を与える人が対象です。だから、君は対象外です」
男は口を閉じ、黙って話を聞いた。
「分かりやすく説明しましょう。新しい薬を作り、死人を減らした医者は天国に行ってもらいました」
話を聞いていた男に疑問が浮かんだ。
「なんで天国に行かせるんだ? 仕事をさせた方が良いだろう」
「多く生を救った者には、また人間に就く権利が貰えます。しかし、同時に才能もそのまま引き継いでしまいます。そう多くの生を救われたのでは、星のバランスが崩れます。天国も地獄も、人間のいう刑務所と同じです。星のバランスを保つ為に、仕事を控えてもらうのです」
「では、天国も地獄も変わらないのか?」
「いえ、天国は望む物が全て手に入る世界です。地獄は何も無く一寸先も闇の世界です。この二つは、私がいる世界とは別の世界です」
そこまで聞くと、男はある事に気付いた。
「俺は神になれないのか?」
神はため息を吐きながら答えた。
「君は何か勘違いしてますね。私は君たちが神と言っている存在であって、神ではありません。人間の会社でいうなら、課長ぐらいの地位ですよ」
どういう事だ。頭を回転させて考える男を見ながら、神は言葉を続ける。
「教会や神社にいる神は平社員。キリストやブッタ、仏は係長。火星や地球等の太陽系の、惑星担当が私たち課長です。銀河系は部長。宇宙全てを統括するのが社長です」
「他の星にも神がいるのか?」
「もちろんいますよ。火星の神は仕事が下手で、全ての生命が消えてしまい社長に怒られてましたね」
神はそう言うと、その時の事が面白かったのか微笑を浮かべた。
「生命がなくなるとどうなるんだ?」
「星が廃れるだけです。そして、君も消えるだけですね」
そこまで説明を聞いた男は、考えをまとめて神に質問した。
「植物になる事は可能か?」
「植物は無理ですね。あれは私の趣味で生やしてるだけですから。その趣味が良い方向にいきましたけどね」
「じゃ、場所や仕事の種類は決められるのか?」
「ある程度は決められます。係長から必要な数についての報告を受けてますので、なるべく希望通りに配属します」
「それなら、仕事は……」
男は言葉に困った。特にやりたい事が無いのだ。しばらく考えていると、神が提案をしてきた。
「もし決められないのなら、地球で他の仕事を見学しながら、考えても良いですよ。ただし、期間は一日だけです。そこで答えが出なければ、死神による強制執行がなされます」
「死神の執行とは?」
「死神が迎えに来て、地獄に送られます。働かない者は地獄送りなので」
「……わかった。出口はどこだ?」
「入ってきた方に行けば、自然と出口を抜けます」
そう聞くと、男は席を立ち神に背中を向けて歩き出した。
――どのくらい歩いただろうか。
霧の中を歩き続けてしばらく経つが、一向に出口が見えない。振り向いても同じ景色が続くだけだ。さっきの神とやらに騙されたのか。
そんな事を考えていると、霧が薄くなっている事に気付いた。出口の無いトンネルはない、とはよく言ったものだ。霧の向こうに建物の影が見えてきた。それを見た男は走って、長い霧の森を抜けた。
目の前に家が建っている。周りの霧はもう消えていた。
家を見る男は、なんだか懐かしい気持ちになった。生きている時と何か関係あるのだろうか。
「とりあえず中に入ってみるか」
男は玄関のドアの前に立ち、深呼吸をした。よし、行くか。ドアを開けようとした。その時、勢いよくドアが開いた。
ぶつかると思い、男は反射的に瞼を閉じた。しかし、いつまで経っても衝撃が来ない。恐る恐る目を開けると、ドアが消えていた。いや、すり抜けて自分の後ろにあった。
どうやら、自分は本当に死んでいるようだ。他人事のように考えていると、玄関から制服姿の少女が出てきた。
「お母さん早く行こう。卒業式に遅刻とかシャレにならないよ」
玄関の奥から、はいはい、と返事が聞こえてきた。顔を白くして唇が赤い。化粧をしているようだ。この人がこの少女の母親なのだろう。
何気なく横を向くと、狭い庭に赤い屋根の、小さな犬小屋が一つ置いてあった。だが、肝心の犬がいなかった。逃げてしまったのだろうか。それとも、犬を飼う前に家を先に買ったのか。どちらにせよ、俺には関係ない事だ。
庭から戻ると少女と母親がいなくなっていた。慌てて道路に出るが、誰もいなかった。
自分の記憶の唯一の手掛かりを見失ってしまった。あの服だと、学校に行くとこなのだろう。学校に向かって男は走った。
気温は感じないが、日差しが眩しい。
男は走りながら、道行く人を観察した。みんな長袖を着ているので、気温は低いのだろう。走っても体温が上がらずに、疲労も無い。なんて都合の良い身体なのだろう。男は走りながらそう思った。
このままずっと走っていたい。自分はマラソン選手だったのではないのか? 走っているとそう思えるほどに、男の気持ちは満たされていった。
学校に着くと、外には制服を着た男女がたくさんいた。その表情は、笑ったり泣いたり、千差万別だった。
多くの人の中に、ひときわ輝く少女がいた。さっきの少女だ。その手には、黒い筒を持っていた。その顔は笑顔だ。良かった。
「……良かった?」
何が良かったのだろうか。無意識に出た自分の気持ちに、男は困惑する。
やはり、あの少女は何かあるのだ。男は少女について行く事にした。
学校から出ると、少女は一人で歩いていた。その後ろを男は歩いた。生きていたら、立派な犯罪である。この時は、男は死んでいて良かったと思った。
大きな交差点で歩みを止めた。しかし、青信号である。男が少女の顔を覗くと、その瞳には涙が浮かんでいた。
その瞬間、頭に映像が流れてきた。
交差点、少女、トラック、そして、大量の血……
時間にすると一瞬だったが、男には永遠に近いような、そんな長い時間に思えた。振り向くと、少女は交差点を渡りきっていた。男は少女の後を走って追った。
家に着くと、少女は家に入らずに、庭に向かった。そして、犬小屋の前に屈んだ。
「今日は高校の卒業式だったの。ごめんねポチ……、私が注意すれば、ポチは轢かれずに済んだのに」
そう言うと、少女は泣き出してしまった。
少女の後ろで、男は全てを思い出した。
俺はこの少女と一緒に歩いていた。あの大きな交差点の信号は青。交差点を渡っていたら、トラックが突っ込んで来たんだ。少女を助ける一心で、少女を突き飛ばしたら俺が轢かれたんだ。最後に見たのは、少女の泣き顔だった。――俺は犬だ。
自分が物心ついた時から、毎日一緒にいて遊んでくれた。物を壊して母親や父親に怒られても、庇ってくれた。お腹が痛い時には、雨の中病院に連れていってくれた。この少女ともっと一緒にいたい。
「絶対また会いに来るから、少し待っていて、愛ちゃん」
全て知ったポチは、泣く少女の耳元で囁いた。不意に少女が振り向く。ポチと少女の視線が重なり、唇と唇が軽く触れあった。
ポチは自分の姿が見えるのかと、後退りした。少女はどこか遠くを見ている。やはり見えていないようだった。
少し寂しい気持ちを胸に、ポチは神を呼び掛け瞼を閉じた。
瞼を開けると、目の前に神が座っていた。
「新しい仕事決まりましたか?」
「あぁ、それで少し相談なんだが、――って言うのは可能か?」
ポチは自分の考えを神に伝えた。
「大丈夫ですけど、決まりで地獄に落ちますし、下手すると出てこれませんよ」
神はポチの相談に慌てふためいた。
「それでも良い。じゃ頼んだぜ」
「……わかりました」
そう言うと神はポチを地獄送りにした。
数年後、この世界に新しい産声があがった。
「愛さん産まれましたよ。元気な男の子です」
「愛が子供を産む時に、愛の子供として人間になる。だから、今は地獄に行く」
神は新しく生まれ変わったポチを見ながら、あの時の言葉を思い出していた。