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勇敢なる君へ  ~ Dear my brave brother ~

作者: 愛己
掲載日:2014/03/30

 プロローグ


「どう? カッコいいでしょ? 」


 二の腕のタトゥーをナオトの顔に近づけた。彼は露骨に困った表情を作り、同時に諦めにも似た吐息が私の腕をくすぐった。呆れながらも、結局、いつも私の意志を尊重してくれる。そんな理解ある彼が、私は大好きだ。結婚して、もうすぐで10年になるが、今も変わらず出逢った頃と同じ気持ちを保ち続けていられるのは、ひとえに大人な旦那のお陰だろう。


「約束は必ず守れよ! リミットは3ヶ月。正体がバレる前に帰ってくること! そのタトゥーだって気休めでしかないんだからな! 」


「分かってるって。ナオトは全く心配性なんだから……。昔っからちっとも変わってないね、そういうとこ」


「嫁の心配をしない旦那がどこにいるんだよ! おまけにお前は奔放自在ときている。今回だって、無事に帰って来られる保証なんてどこにもないのに、それでも行くって絶対に聞かないんだから、俺以外の男となら、とっくに夫婦関係破綻だぞ! 」


 彼は少し声を荒げた。それでも瞳には優しさが溢れている。目の端がキラリと光った。きっと彼はこれから3ヶ月もの間、私の生還だけを待ち望みながら、眠れぬ夜を数えていくのだろう。こんなにも愛しい人を残して旅立つ私は、本当に悪い女だと思う。そして、今後も事あるごとに、奔放な私にナオトは振り回され続けていくのだ。申し訳ないと思う以上に、感謝の気持ちで胸が詰まった。


「――ありがとう」

 私は深々と頭を下げた。


 3ヶ月で効果が消えてしまうタトゥーを左手で撫でながら、私は自然と笑みを浮かべていた。このタトゥーもナオトの勧めだ。地縛霊に魂を奪われないようにと、悪霊が嫌う蜘蛛とサソリを選んだ。悪霊は足の多いものを嫌うらしい。しかし、どうしても百足だけは入れる気になれなかった。


 待ち遠しい。たとえ期間限定であっても、産まれることさえ出来なかった憧れの世界で、私は生きられるのだ。愛する家族の待つ世界で――。



                * 1 *


 見上げれば、空は今日も曇っていた。灰色の雲が、沖縄の海のように透き通る青空を分厚く覆っている。太陽の陰りも感じられない。カラリと爽やかに晴れることもせず、降り出しそうで降り出せない、中途半端などんよりとした空。心から笑うことも出来ず、泣きたいのに泣けない、まるで僕のようだ。僕の29年間は、ずっと曇り空だ。灰色の重ね塗りで黒色に近い空。何となく僕らしくて気が楽でもある。


「渡居(わたらい)! 」


 課長の怒鳴り声にビクリとする。周囲の刺すような視線を背中に感じながら、ゆっくりと席を立った。目の前に放り出された書類には、「苦情処理報告書」と書かれている。大切な個人情報を誤送信してしまったのだ。課長のまくし立てるような尖った声は、しばらくすると聞こえなくなった。頭が真っ白になり、怒りに震える鬼の形相だけが鮮明に焼き付いている。僕の人生ワースト3に入る日となった。そして、2ヶ月が経った今でも、この日のショックから立ち直ることが出来ない。


「どれだけでも失敗すれば良いのよ。失敗がないということは伸びるチャンスがないということ。きっとあなたは他の人よりもうんと強くなれるわ。大丈夫よ」


 中村さんの笑顔が眩しくて、いつも僕は目を逸らしたくなる。この人はどうしてこんなにも寛大なのだろう。僕のためにこうして頭を下げて回るのが、彼女の日課となりつつある。中村さんが笑えば笑う程、僕は悲しくなる。励まされると余計に空しい。心から情けなくなる。


 僕の一番嫌いな人間は、僕だ。他人と自分とを比べ、自分の欠点ばかりを発掘し、過去の自分と今の自分とを比較し、何ら成長がないことに落ち込む。同じ場所で足踏みばかりを繰り返している。前へ進むどころか後退している気さえしてくる。頑張れば頑張るほど、自分の行きたい場所から遠ざかっていく。生きている意義を見出せない。僕は何のために生まれてきたのだろう。近年ずっと、幾度となく自分に問いかけている。行き着く結論は分かっているのに、それでも考えてしまう。考えて、考えて、そして自己嫌悪感が強くなる。堂々巡りのスパイラルから抜け出すことが出来ない。眠れない夜。時計の秒針が耳の奥でうるさく響く。寝返りを幾度となく繰り返し、そしてまた、灰色の明日が始まるのだ。連なる灰色の先は、一体何色になっているのだろう。


 エミカがふくれっ面で僕を睨んでいる。高校のクラスメイトだった彼女との付き合いは、早いもので5年が経とうとしている。正式に交際がスタートしたのは高校を卒業してからだ。同窓会での再会を機に、どちらともなく連絡を取り合うようになり、気が付けば結構な年数を共に過ごしている。お互いに良いところも悪いところも分かり合っているから、エミカの前ではホッと息が抜ける。肩の力を抜いて素の自分でいられる。背伸びする必要がない。ただ、中途半端な男のプライドが邪魔をして、僕はエミカに弱音を吐けない。もちろん、目の前で泣いたこともない。だから本当に苦しい時は一人で悶々としてしまい、心ここにあらずといった状態になる。


 笑う夏と書いてエミカ。名前の通り、真夏の太陽のように元気で明るい女の子だ。性格もカラッとしている。常に上を向いているヒマワリのようなエミカ。でも、そんなエミカも僕といると怒ってばかりだ。いや、正確には僕がエミカを怒らせてしまっているのだろうが――。


「ちょっと、ソウスケ! 聞いてるの! 」


 尖った声が僕の心をグサッと突き刺した。


 エミカの30歳の誕生日に、2泊3日で旅行をしようと言い出したのは僕だ。でも、結局、行き先の候補を挙げたのはエミカだった。プランを取り寄せたのもエミカだ。それなのに、僕はまたボーッとしていて叱られた。怒りにまかせて乱暴に扉をピシャリと閉め、エミカは喫茶店から出て行ってしまった。大股で歩くエミカの背中を何も出来ずに見つめる僕。涙の滲んだ小さな背中。彼女がこんな僕でも一緒になりたいと願っていることは、何となく分かっている。でも、僕にはその勇気がない。半人前の僕が、誰かを幸せになど出来るのだろうか。


「ほっとけない」いつか彼女はそう言った。エミカにとっての僕は、捨てられないだけの存在なんじゃないだろうか。馴染みの深い古びたぬいぐるみを抱く、幼い頃のエミカが脳裏をよぎった。手を伸ばせば、新しくて、綺麗で、魅力的な玩具が、彼女の周りにはたくさんあるのに――。


 眼下に広がる飛騨川を眺めた。エメラルドグリーンの水面がキラキラと光っている。透き通った川水を軽快に泳ぐ銀色の小魚。連なる緑。山の稜線。手を伸ばせば届きそうなくらいに近い青空。白雲の間を颯爽と飛ぶ鳥の群れ。目を閉じれば、耳は森林を駆け抜ける風の足音を捉える。川のせせらぎ。小鳥のさえずり。暖かい風が僕の冷えた頬を撫でる。きっと幼子の頬を拭う母の掌のように優しいのだろう。


 僕には全てがモノクロの停止画に見える。耳の奥ではザーザーと雑音がうるさく鳴り響いて止まない。いつからか、僕の心は世の中の色や音を感じられなくなってしまった。どんな料理も美味しいと感じられない。何を食べても砂を噛んでいるような感触がする。自分だけが灰色の世界に取り残されている気がする。自分以外の人が全て楽しそうに見えてしまう。怒ったり泣いたり笑ったり、僕以外の人たちはいつも忙しそうにしている。モノクロで雑音だらけの世界から、僕はひとり、外の景色を眺めている。色彩鮮やかなカラー写真のようなその世界は、明るくて眩しくて羨ましくて、僕は目を細めてしまうのだ。いつか僕もカラーの世界に戻れるのだろうか。


「そんな湿っぽい顔してたら、疫病神も逃げていくわよ! 」


 少し厚めの潤んだ唇が言った。黒目がちなクッキリとした瞳。クルンとカールした長いまつげ。艶やかな黒髪を川風に遊ばせながら、彼女は続けた。


「さっきから、橋の下を覗き込んだままちっとも動かないから、身投げでもしたら大変だと思ってね」


 言葉の物騒さには到底合わない笑みを顔いっぱいに浮かべている。悪戯を企む子供のような瞳だった。


 僕は呆気にとられていた。記憶違いじゃなければ、彼女に会うのは今日が初めてのはずだ。スラリとした長身にはロングスカートが良く似合っていた。シルバーの腕時計をはめた手は牛乳で染めたガラスのように滑らかで、二の腕に入った蜘蛛とサソリのタトゥーを強調していた。一般的にはかなり綺麗な方だと思う。僕の好みではないが、どこかで会っていれば、きっと記憶に残っているだろう。


「……失礼ですが、どちら様でしょうか? 」


「私? サワノ」


「沢野さん? 」


「そう、サワノよ」


 僕の人生に、沢野さんという人との出会いはなかったはずだ。結婚して姓が変わっているのかもしれないが――。


「……下の名前は? 」


「だから、サワノだってば! 」


「沢野、サワノさん? 」


「そう。サワノよ」


 これ以上追究するのは何となく危険な気がした。それに、どうしても彼女のフルネームを知らなければ困るというわけでもない。性格上、引くことにも折れることにも慣れている僕は、少し話題を変えることにした。相手が名乗っているのに、自分は名乗らずじまいというのも失礼な話だろう。


「僕の名前は――」


「知ってる。ソウスケでしょ? 」


 少し世間話をした後、「身投げなんてするんじゃないよ! 」と言って彼女は踵を返した。シャンパンゴールドのハイヒールを軽快に鳴らして闊歩していく。ピンと伸びた背筋を呆然と眺めながら、「大丈夫ですよ。身投げする勇気もないですから……」と僕は小声で呟いた。



                * 2 *


 その後も沢野さんは絶妙なタイミングで僕の前に現れた。落ち込んだ時、苦しい時、情けないと感じた時に限って、沢野さんはどこからか風のようにやってくる。そして、いつも結構な辛口の発言をして、自分の気が済めば、話の途中であってもさっさと帰ってしまう。呼び止めようものなら「私はね、あんたみたいに暇してるわけじゃないんだから! 」と罵られる。僕は彼女の名前以外、何も知らない。そんな初対面に近い女性に思いっきりダメ出しをされるのに、何故か僕は怒る気になれない。怒るどころか、沢野さんに会った日は、梅雨の晴れ間のような爽やかな気持ちになれる。上手く表現は出来ないが、昔からの友人のような不思議な気分なのだ。厳しい言葉に、呆れる眼差しに、僕は彼女からの思いやりを感じていた。病気に伏した時、母が額に手を当ててくれただけで、心がふっと軽くなる、そんな感覚だ。


「何だそれ! 何でその沢野とかいう女、お前の名前知ってたんだよ。もしかしてストーカーとかなんじゃね~? エミカちゃんに変な誤解されたりしても厄介だし、ちょっと気をつけた方が良くねぇかぁ~? 」


 久しぶりにムカッときた。無二の親友が言うことは理にかなっていると思う。でも、理論と感情とは別物だ。正論だからこそ、僕は腹立たしかった。同時に、何故こんなにも正論に対して反発したくなるのか、その気持ちに戸惑っていた。適当な理由をつけ、僕はマサヤと別れた。家路に着く頃には、マサヤの言い分が正しいことも、僕が沢野さんに対して抱いている感情についても整理が出来ていた。恋愛とは全く次元の違う感情を、僕は彼女に向けていた。


 今日も自己嫌悪の連続だった。大切な書類を紛失してしまった。中村さんから手渡された封筒の感触は、今も指がしっかりと覚えている。なのに、そこからの記憶が全くない。心当たりは全て探したのだが見つからない。どうしてだろう。僕はいつも大切だと分かっているのに失ってしまう。大切なものほど失くしてしまうのだ。


「何て大きい溜息! せっかくの幸せが逃げちゃう……」


 気が付くと、公園のベンチに腰かけていた僕の隣に、彼女はいた。毎度のことだが、彼女には気配というものが全くない。いつのまにか僕の傍らに佇んでいる。そして、僕が欲しいと思う言葉を、欲しいと思う絶妙のタイミングで並べるのだ。しかし、今日だけは、僕は何も欲しくなかった。ただひとりでいたかっただけだ。彼女の存在を少し疎ましく感じた。わざとトゲのある言い方をした。


「……幸せ? 逃げるも何も、僕の中には幸せの欠片もないんだから――」


「何言ってんの! 今のままで充分幸せでしょうが! 」


 僕の言葉を遮って、彼女は強く言い切った。心なしか視線も尖っている。どうやら少し怒っているようだ。でも、僕には僕の言い分がある。今が幸せなんて堂々と言い切れないだけの実績もある。


「沢野さんは僕のことを知らないから、そんな気楽なことばかり言えるんだよ。僕は自分のことが大嫌いなんだ。全てが嫌になる。中途半端なところも、何かする度に必ず失敗がついてくることも。その失敗だって、いつも無関係な人たちを巻き込んでいくんだ。これからもこんなことの繰り返しだと思うと、生きていくこと自体を投げ出したくなるよ。でも、僕には死ぬ勇気なんてないから安心して。結局、このままズルズルと他人に迷惑をかけながら生きていくしかないんだろうけどね」


 頬に激痛が走った。女性に叩かれたのは初めてだった。しかも拳だ。想像では叩かれた跡は熱く痛むのかと思っていたが、実際は冷たかった。氷のハンマーで殴られたみたいに、いつまでも突き刺すようなピリピリとした痛みが僕の左頬を覆っていた。


 沢野さんの瞳は赤く滲んでいた。目の端から大きな雫がこぼれた。震える拳で頬を拭い、クルリと背を向け、沢野さんは泣いた。気の小さい僕は、こんな人通りの激しい場所で女性が泣いているというシチュエーションに、内心ひどくハラハラしていた。


 僕たちは河川敷のベンチに身を移した。一言「ごめん」と僕は詫びた。自分に非がないと思っても、女性には先に謝っておくのが無難だと、エミカとの付き合いから僕は心得ていた。


 二人を濃い沈黙が包んだ。今日はやけに風がうるさい。季節はすっかりと晩秋になっていた。


 胸いっぱいに深呼吸して、沢野さんは重い口を開いた。

「ソウスケ……。どうしてそんなに自分のことが嫌いなの? 」


「だって……、何をするにも失敗ばっかり。そのくせ、その失敗を自分に向ける強さもない。すぐに他人や環境のせいにしてしまう。本当は分かってるのに……。失敗の原因は全て僕にあるって……。でも、それを認めてしまったら、僕はもう何も出来なくなってしまう。怖いんだ。自分がどうしようもない人間だって、他人だけでなく自分までもが認めてしまうのが……」


「いいじゃん、別に。誰だって自分を守りたいよ。人間ってそんなに強い生き物じゃないでしょう? 」


「良くないよ! 自分の失敗を他人のせいにしたままなんて……。いいわけないじゃないか! 」


「いいんだってば! だって、ソウスケは今が精一杯なんでしょ? 誰かを困らせようと、ワザと失敗してるわけじゃないんでしょう? 辛いときはその辛さから少し目を逸らして、向き合える余裕が出てきたら自分に振り返ればいいんじゃないの? 」


「でも……、僕は目を逸らしてばっかりだよ。辛いことや苦しいことからも逃げてばっかり……。そんな人間が家庭なんてもてるわけないし……」


 自分の不甲斐なさを押し込めるように、僕は固く瞳を閉じた。瞼の裏に、涙を拭うエミカの姿が映った。「ほっとけない」と言いながら、エミカはずっと僕の傍にいてくれた。こんな僕とでも結婚したいと望んでくれていることを、僕はずっと前から気が付いている。でも、気付かないフリをし続けている。家庭をもつ自信がないのならば、いっそのこと、エミカを解放してあげれば良いと思う。でも、それが出来ない。ひとりになるのが怖いのだ。僕の良いところも悪いところも、呆れながらも認めてくれる理解者を、自ら手放す勇気はない。勝手だと思う。結局、僕はエミカに対しても保身に走っているのだ。エミカの将来を拘束しながら、自分自身の安心を優先させている。


「家庭をもつって、完璧な人間じゃなきゃ出来ないことなの? 全てにおいてパーフェクトな人なんていないでしょ? 誰もが未熟で不完全で、だからこそ誰かと一緒にいたいって思うんじゃないの? 結婚って大半の人が通る道でしょ? 他の人に出来ることがソウスケには出来ないなんて、私は思わない」


「でも、家庭をもつということは、自分以外の人間に対しても責任を負うということだよ。自分のことさえままならない半人前の僕には、ひとつの家庭を背負えるだけの度胸なんてないよ」


「家庭をもつ度胸が養われたから家庭をもつんじゃなくて、家庭をもってから度胸をつけていけばいいんじゃないの? ソウスケは何にでも完璧を求めすぎなんだって。頭でっかちになりすぎず、やりながら考えなよ。壁にぶつかることばかりを想像して足踏みするんじゃなくて、ぶつかってから考えればいいでしょ? 壁をどうやって越えるか。越えられなければ壊せばいい。ひとりで壊せなければ誰かに手伝ってもらって一緒に壊せばいい。それでも壊せなければ――」


 沢野さんは思いっきり口角を上げて、意味ありげに笑った。白い八重歯がキラリと光った。いつもの顔だ。悪戯を企む子供のように、沢野さんは目を輝かせた。


「――別に越えなくてもいいんじゃない? 」


 いつも辛口で、それでいて気遣いがあって温かい。黒い渦に佇む僕を絶妙のタイミングで助けてくれる。彼女の何気ない一言に、僕はいつも簡単に救われてしまうのだ。女性なのに逞しくて力強くて、綺麗で大人っぽい外見を見事に裏切り、本当にやんちゃで子供っぽくて、人目をはばからずに泣いたり怒ったり笑ったりする。


 そんな不思議な彼女との別れは、ある日突然やってきた。僕はあの日のことを、きっと、ずっと忘れない。



                  * 3 *


 また大切なものを失ってしまった。今度は資格証明書だ。


 24四時間のうちの20時間を試験勉強に費やし、インフルエンザの高熱にも負けずに臨んだ国家試験。合格通知を受け取った瞬間、僕は子供みたいに大声をあげて泣いた。そんな苦労の賜物までも僕は失ってしまった。書類や写真の山に埋もれて、僕は自宅の納戸で呆然と立ち尽くしていた。


 可能性のある場所は全て探した。国家試験の参考書も全て、1ページずつ開いて確認した。無造作に詰め込まれた漫画の段ボール箱もひっくり返して探してみた。結婚式の引き出物や出産の内祝いだっただろうタオルギフトや陶器のセットも全て箱から出して見てみた。しかし、見つからなかった。僕の汗と涙と努力の結晶は時と共に風化していた。


 あの頃の僕は、何事に対しても一生懸命だった。喜怒哀楽が僕という人間を形作っていた。感情が生きていた。喜びは喜びとして、悲しみは悲しみとして、素直に感じられる心が残っていた。明るい未来を疑わなかった。命がキラキラと輝いていた。僕の全てが眩しい光を放っていた。


 歳を重ねるごとに、僕は感情そのものを失ってしまったような気がする。記憶が正しければ、あの合格通知を受け取って以来、僕は泣いたことがない。社会に出て、僕は自分の不甲斐なさと一緒に感情を閉じ込めた。灰色の世界は慣れれば居心地が良かった。自分を疲れさせなくて済むからだ。雑音だって聞き慣れてしまえば苦にならない。


 目の端でライトブラウンの木目が揺れた。小さな木箱だった。昔、母に見せられたことがある。中にはへその緒が入っているはずだ。動物の死骸みたいで、少し気持ち悪かった記憶がよみがえる。


 中を覗こうとしたが、蓋は異常なほどに固かった。なかなか開かない。大切な秘密を守ろうと、木箱は強情に口を固く閉ざしていた。20分ほど苦闘した後、木箱は諦めたかのように蓋を外した。中にはやっぱりへその緒が眠っていた。しかし、それは記憶の品とは幾分違う姿をしていた。切れかけの蛍光灯の下で、赤黒く鈍い光を放っている。その物体には、赤チンが塗られているようだ。一昔前の万能薬だ。真っ赤な消毒液は、傷口に塗られると余計に痛々しく見えたものだ。


 へその緒の下には小さなメモ紙が折り畳んで入れてあった。「1975年9月25日生」と書いてある。母の字だ。間違いない。


 強い胸騒ぎを覚えた。僕のじゃない。僕は1984年生まれだ。兄貴のでもない。兄貴は僕の2歳年上だ。誕生日も違う。ならば、これは一体誰のものなのか。母には隠し子がいるだろうか。単純に計算すれば、彼か彼女は38歳になっているはずだ。


 体中を不安の風が吹き荒れていた。僕は頭を抱えた。知ってしまったことを悔いた。だから木箱は頑なに開こうとしなかったのだろう。秘密を強引にこじ開けたのは僕だ。これから僕は、父や母とどう接していけば良いのだろうか。今まで通りを演じることは出来なさそうだ。僕は自他共に認める分かりやすい男だ。


 背後で物音がした。僕はビクッと体を震わせた。恐る恐る振り返ると、今一番会いたくない人が立っていた。顔は能面のようだった。視線は宙を泳いでいる。半開きの唇が僕の名前を呼んだ。声は小刻みに震えていた。明らかに狼狽の色が見られた。


「今まで黙っててごめん……。実は、あなたにはお姉さんがいるのよ――」



                 * 4 *


 僕は納戸の扉を勢いよく引いた。階段を転がるように下り、乱暴に靴を履いた。玄関を飛び出した瞬間、僕には何の術もないことを悟った。


 いつも僕の心の叫び声を聞きつけて、歩み寄ってくれたのは彼女だった。僕はいつも待つばっかりで、自分から彼女に会いに行くことをしなかった。溜息をつきながら、きっとまた彼女は現れるに違いないと心の片隅では期待をしていた。自分では何の努力もせず、ただ受け身で施しを受けるばかりだった。今こそ、自ら彼女のもとへと歩んでいかなければ――。伝えたいことがあるのなら、自分から伝えに行くのが世の中のルールだろう。


「沢野さん! サワノさん! 沢野、サワノさん! ソウスケです。あなたの――」


 いきなり背後から口を両手で覆われた。冬の夜空に相応しく、その指は冷え切っていた。細くて長い指。爪には淡いピンク色のマニキュアが施され、桜貝のようにキラキラと輝いていた。白く伸びる腕には蜘蛛とサソリのタトゥー。以前よりも少し色褪せた気がするのは、夜目のせいだろうか。そういえば、彼女はいつもノースリーブだ。冬でも夜でも関係ない。


「ちょっと! こんな夜分に大きな声出しちゃ、近所迷惑になるでしょうが! 」


 白い拳が僕の頭をコツンと軽く突いた。彼女は笑っていた。しかし、瞳には何故か涙が光っていた。瞬きと共に、大きな雫が頬を滑り落ちた。


「サワノさんは沢野さんじゃなかったんですね。サワノさんは――」


 僕の言葉は遮られた。


「ソウスケ、バイバイ。私、もう帰らなきゃ……」


「サワノさん、ありがとう。僕、あなたと出会えて本当に良かった。会いに来てくれてありがとう」


 僕は右手を差し出した。サワノさんとの握手はやっぱり冷たかった。


「私もソウスケに会えて良かった。大丈夫! あなたは今のままで百点満点よ」


 サワノさんの瞳から涙はすっかりと消えていた。悪戯を企む微笑みも健在だ。僕の右肩にそっと左手を乗せ、サワノさんは二カッと笑った。


 僕は大きく腰を折った。深々と頭を下げ、彼女が立ち去るのを待った。泣いてはいけない。彼女の強さと優しさをこれからの頑張りに変えていかなければならない。それが僕の使命だ。そう思えば思うほど、涙が地面を濡らした。右肩の冷えを心地良く感じながら、ハイヒールの音が遠ざかるのを、僕は断腸の思いで聞いていた。きっと彼女にはもう会えないだろう。実際、その予感はあたっていた。


 重い足取りで自宅へ戻ると、郵便受けに一通の手紙が挿し込まれていた。差出人は彼女だった。薄暗い街灯の下で、僕は勢いよく封筒を破り、便箋を取り出した。


 僕は泣いた。泣いて、泣いて、泣いて……、そして、泣いた。彼女の美しい筆跡が瞳の中でユラユラと揺れた。熱い雫は真っ白な便箋を滲ませながら、僕の凍った心をゆっくりと溶かしていった。長い雪解けを待って、心には温もりと優しさが芽生え始めていた。綺麗な花をつけるまで、僕は決してくじけることなく、頑張って生きていこう。


 突然、つき上げる北風が強く吹き、僕の掌から手紙を奪った。大切な人からのメッセージを刻んだ白い便箋は、無情にもあっさりと乾いた冬空に飲み込まれていった。そして、上空で細雪に変わり、街灯の鈍い光にキラキラと反射しながら、ゆっくりと僕の体に降り積もった。


「あっ、雪だ! 」「初雪ね。綺麗……」遠くで歓喜の声をあげる親子がいる。


 僕は誓う。与えられた命と時間を大切に生きていく。カッコ悪くたっていい。つまずいたって転んだって構わない。生きてさえいればいい。それだけでいいんだ。


 でも、僕はやっぱり変わりたい。今の自分を変えたい。僕自身と、エミカのために――。


 若葉薫る春。朝陽を浴びてキラキラと輝く青葉の下を、君と手を取り合いながら歩いていきたい。

 君が生まれた夏。肌を焦がすような強い日差しから、君を守れる日傘のような強い男に僕はなりたい。

 木々が鮮やかに色づく秋。夕暮れが、長く眠れない夜を誘うとしても、君が一緒にいてくれたなら、きっと幸せな時間に生まれ変わるはずだ。

 寒空を舞う粉雪。吐息を白くする冬だって、君となら、新しい一年の幕開けを前向きに迎えることが出来るだろう。


 春夏秋冬、全ての季節を、僕は君と生きていきたい。


 翌日、僕はエミカにプロポーズをした。とびっきりの笑顔で、エミカは頷いた。あんなにも嬉しそうに笑う彼女を見たのは久しぶりな気がした。


 近いような遠いような夜空を見上げる。一際強く輝く大きな星。僕は深く頷いた。


「僕を変えることが出来るのは、他の誰でもない僕自身だ――」


 金色の尾を引いて、大きな星がひとつ、夜空を流れていった。


 僕は今、美しいカラーの世界で生きている。



 エピローグ


  勇敢なる君へ


 爽佑、あなたがこの手紙を読む頃には、私はこの世界を離れていることでしょう。もともと3ヶ月という期限つきで、私はこの世界にやってきたのです。3ヶ月を待たずに爽佑のもとを去ったのは、あなたが私の正体に気が付いたからです。真実を明かすことは私たちの世界では固く禁じられています。もっとも、こうしてこの世界に来ること自体が認められてはいないのですが、私は主人と相談して、神様にも内緒で爽佑に会いに来てしまいました。その上、こんな手紙まで残してきたのですから、きっと神様にはこっぴどく叱られることでしょう。


 爽佑のためにやってきた現世は、毎日が予測のつかないことばかりで、冒険心の強い私にとっては本当に楽しいことの連続でした。こんなにも素晴らしい世界で生を全う出来る爽佑を心から羨ましく思います。私は現世の光を浴びることなく来世へとやって来ました。へその緒が首に幾重にも巻きついており、私は産まれる一歩手前で死んでしまいました。母は私の名前の一文字を取って、弟たちに『爽汰』『爽佑』と名付けてくれました。


 私の住む世界には、生きることに疲れ、生きることを放棄し、自ら来世へとやってくる人たちが本当にたくさんいます。彼らを責めることは出来ません。生きるということは、きっと死ぬことよりも辛く悲しいことの繰り返しで、苦しいことや悔しいことの連続なのでしょう。でも、それ以上にきっとたくさんの喜びや幸せがあります。そのことに気が付く前に生きることを諦めてしまった彼らを、私は心から不憫に思います。


 人はみな、『幸せの砂時計』を胸に抱いて産まれて来るのです。その砂時計には平等に、同じ量の幸せが詰まっています。自分では気が付いていないだけで、幸せの砂時計は流れているのです。生きることをやめなければ、砂時計は永遠に動き続けます。爽佑、あなたの胸にも幸せの砂時計があります。これからもあなたの上にはたくさんの幸せが降り注ぐことでしょう。だから、生きてください。生き続けてください。生きることは人に与えられた使命です。生きることこそ、人にとってのスタートであり、ゴールです。頑張らなくてもいい。カッコ悪くたって全然構わない。泣きたければ泣けばいい。生きてさえいればいい。生きることはとても勇敢で素晴らしく、そして幸せになるための絶対条件です。もしも、爽佑が生きることに疲れ、自らを放り出したくなってしまったら、目を閉じて休めばいい。胸の鼓動を掌に感じるだけでいい。きっと力強い命の足音が聞こえてくるはずです。あなたの勇敢な足取りです。ゆっくりでもいい。歩き続ければ、必ず道は幸せへと繋がっています。だから、生きてください。生き抜いてください。幸せになるために――。


 人は誰しも未熟で不完全です。完璧な人間など、この世にも来世にもいません。誰もが弱さと脆さの塊です。だからこそ、人生を共に歩むパートナーが必要なのです。今までの、今の、そしてこれからの、自分に起こるかもしれない悲しみや苦しみを、ひとりで抱え続けられるほど、人は強くはないのです。ひとりでは背負いきれない重い荷物でも、二人で分け合うことが出来たなら、ゆっくりと一歩一歩前へと進めるかもしれない。相手が怪我をしたら抱き上げて川を渡り、自分が怪我をしたら相手の肩を借りる。それが夫婦ではないでしょうか。二人でも抱えきれない大きな荷物は、道行く人に頭を下げて配ったらいい。誰も受け取ってくれなかったら、川に放り投げてしまえばいい。流れゆく荷物を横目に、二人で夜空を見上げれば、そこにはきっと今まで気が付きもしなかった美しい光景が広がっていることでしょう。忙しすぎて足早に通り過ぎていた景色の中には、あなたが忘れかけていた何かがあるはずです。立ち止まることは決して悪いことではありません。満天の星空。青白い流れ星。金色に輝く星の瞬き。たったひとりで眺めるよりも、二人で手を取り合いながら眺めた方がどれだけ心強いでしょうか。美味しいものは二人で分け合えばより美味しく、一人分の喜びが二人分の幸せに変わる。何の血縁関係もないのに、もともとは赤の他人なのに、いつだって縁が切れるのに、それでもあなたの痛みや苦しみを当たり前のように背負ってくれる。あなたのために彼女が泣くことも、彼女のためにあなたが笑うことも、義務ではないのです。そんな喜怒哀楽を自然に共有出来る。結婚って素晴らしい制度だと思いませんか。


 親同士が決めた結婚ではなく、会社の存亡のための政略結婚でもない。お互いにお互いを自分の意志で選んだのです。その自由性の中に、しっかりと責任を感じ、いつまでも大切に想い合う気持ちを忘れないでください。一世一代の決心で結婚を決めた二人も、長い年月の中で、お互いの欠点や嫌なところばかりが目に付くようになるかもしれません。そんな時は一歩下がって、相手の全体像を眺めてみてください。近付きすぎて見えなかった長所や素晴らしい面が見えてくるのではないでしょうか。お互いに完璧を求め過ぎず、どちらかの色に染めようとせず、お互いがお互いを認め合い、許す気持ちを持ち続けられれば、きっと幸せな夫婦関係が保たれることと思います。


 爽佑がこの世界を勇敢に生き抜き、いつか遠い未来に私と再び出会えることを、首を長くして待っています。


 大丈夫。何も心配することはありません。生きてさえいれば、人はみな、百点満点です。他人と自分とを比較して、過剰に自己嫌悪する必要はありません。そもそも他の誰かとあなたとを比べること自体が無意味なことなのですから。あなたと全く同じ人間など、世界中のどこを探したって見つからないでしょう。もともと異なる人間同士を並べて、どこをどう比較することが出来るのでしょうか。爽佑は爽佑でしかないのです。


 失敗を恐れず、自信をもって色んなことにチャレンジしてみてください。どれだけでも失敗すれば良いと思います。どんな失敗にも必ず意味があります。意味のない失敗など絶対にありません。足踏みだって立派なことです。次に通る人の足場を強く固めているのですから。


 自分の中に痛みのない人は、きっと他人に優しくすることは出来ないでしょう。あなたが今までに感じてきた痛みが、きっと誰かの傷を癒し、苦しみを和らげることが出来ると、私は信じています。


 でも、もしも、どうしても爽佑が「今の自分を変えたい」と言うのならば、私は心から応援するつもりでいます。


 だって、あなたを変えることが出来るのは、他の誰でもないあなた自身なのですから――。


 あなたのこれからの頑張りに、私は永遠にエールを送り続けます。

 

 

  渡居 爽佑  様


                              前川 爽乃

                             (旧姓 渡居)


 職場の後輩をモデルに書いた作品です。

 作家を目指していますので、是非、正直な感想や評価を聞かせて頂きたいです。

 良かった点、改善した方が良い点など、アドバイスもお待ちしております。

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