稲穂町へ
「ところで、『白銀道』って何です?」
道すがら、猫は尋ねた。
僕は、ああ、と思い出した。月の軌道図が挟まっていた本のタイトルだ。ずっと気になっていたのだろうか。
「太陽の通り道を、黄道って言うでしょ」
「ええ」
「黄道に対して、月の通り道を『白銀道』って、あの本の作者がつけたんだよ。きれいな言葉だよね」
普通につけたら、白道になるのを、なかなか洒落ている。猫は確かに、とこっくり頷いた。
「太陽の道も『黄金道』くらいつけてほしかったですね」
僕は良いね、と頷いた。
なんだか僕らの前に、金や銀の道が敷かれたようで楽しくなった。
「あの本からお店の名前を取ったんですね」
「そう」
僕の店は『白銀堂』という。当時、僕は付き合っていた彼女と引き換えに、月の軌道図と店を持つことになった。
僕と猫の影は、レンガの道に長く伸びている。
猫はタクシーで行こう、お代はあとで払いますから、と申し出たが、僕が断った。稲穂町は隣りのとなり町、と言っても、歩いて数十分だ。時間もあることだし、歩いて行こう、と提案した。
それに、歩きで正解だった。僕らはすっかり馴染みの友人のように会話が弾んでいた。きっと、これからの仕事に、2人ともわくわくしていたからだろう。
「それにしても、今日は月に縁があるなあ」
「そうなんですか」
「うん、月を探す君といい、月の軌道図といい・・・あと何かあった気がするけど、忘れちゃった」
実際、この時ほど面白いことなんて、今までなかった。
そうこうするうちに、稲穂町へ入った。ここはやはり高級住宅街、一軒一軒の家がおしゃれで、大きい。ちょっと見ると、うちの店のお客さんらしきのお宅が2、3軒あった。表札や庭先に、扱っていた古い木の板や植木鉢があった。意外なところで再会するものだ。どの家も窓の灯りは消え、さすがに寝静まっている。部屋ではきっと、大人も子供も、とろりと眠っているのだろう。
それがきっと幸せってやつだ。
「あそこがお邸です」
見上げると、そのお邸は丘の上に立っていた。なるほど、地主さんか。僕は妙に納得して、丸石の挟まった道を上っていった。
邸の正面は、高い塀と門で通せんぼである。猫はその門に近付くこともなく、左に折れた。塀に沿ってまもなく、使用人の入り口が現れた。猫はまた、どこからともなく鍵を取り出した。
「君のそれって、どういう仕組みになってるの?」
猫は肩をすくめた。本人もよく分からないらしい。
「敢えて言うなら、ポケットでしょうか」
猫がポケットを持ってるなんて、本当なら大発見だ。
小さな扉は、きい、と小さな音を立てて開いた。中は庭になっている。
「いつも通っているのに、なんだか忍び込んでるみたいな気がします」
と言いながら、猫はどこか楽しげだ。
さあ、問題はこのあと。どうやって邸の真上、もしくは真下に行くか、である。従者は今や猫になってしまったし、僕はただの侵入者だ。真上となると、堂々と中から行くか、木か何かをつたって登るしかない。真下なら、玄関に立って、月が屋根を越えたところで捕まえることができる。選ぶとしたら、やっぱり後者かな。
そして、2人で玄関近くの低木の陰に隠れて待つことにした。月が顔を出す時間まであと15分。充分、余裕だ。
と思ったところへ。
ワンワン!
夜の澄んだ空に、番犬の声が響き渡った。たまらず逃げ出したのは、僕じゃなくて、猫だった。
そうだよね、猫だもんね。
と思うのも束の間、僕はあっさり警備員にひっ捕まった。
「一体何をしていた!」
猫に比べて、僕は単なる侵入者でしかない。何も弁解することはないが・・・
このままでは、月を逃がしてしまう。
僕の視界に、透明に光る塊が転がり込んで来た。クリスタルグラスだ。
そうだ。
「僕はただ、月を捕まえに来ただけです!」
警備員は目を丸くした。
「な、それは・・・」
そこへ小さな黒い影が飛んで来た。
「うわっ」
警備員は驚いて、一歩飛び退いた。
猫だ。いつの間にか、犬を上手く巻いて戻って来たようだ。
そうか。さっきのは犬が怖かったんじゃなくて、僕を助けてくれたのか。
猫は空を切り、スタッと地に下り、グラスをくわえて玄関に立つ。中に入れろ、と言うように。あの礼儀正しい猫が、毅然として命令するかのように立っている。おかげで、警備員も何かが違う、と気付いたようで、固まっている。
すると、扉が中から開いて、光が漏れて来た。「ご主人さま」「いけません」と言った声が聞こえる。
一番に姿を現したご主人は、僕と目が合ったが、目の前の猫を見やった。と、すぐに例のグラスが目に入ったようで、主人の目もやはり丸くなっていた。猫はくわえていたそれを静かに玄関に置き、丁寧に礼をした。
ご主人は何かを察したようで、グラスを受け取った。
「まさか・・・」
そうして僕を再び見、「君の用事は何かね」と訪ねた。
「この猫と、月を捕まえに来たんです。あなたの大切な人に贈るためにね」
しばらく沈黙が続いた。
そして主人は、静かに、しかしはっきりと言った。
「お入りなさい」と。