拝啓、苦しんでいる君へ。
♂
クラクションが、派手に響く。オレは慌てて歩道に移った。
車道の真ん中に、又オレは立っていた。
死にたかったんだ。
でも、結局ビビって死ねない。
♀
ーーどうしたの。
彼奴が何時もの顔で、問うた。アタシの腕の中には、そんな彼奴のリュックがすっぽりと収まって居る。
放課後の、アタシ達二人しか居ない教室。部活前、という微妙な時間。
ーー何時もと違うよ。
ーー何時も通りだよ。
ーーいや、違う。
何処が、とは言えない。自分でも分かっているから。彼奴のリュックに、顔を埋める。
ーー……うん。
アタシはそれしか言わなかった。彼奴も、それ以上聞かなかった。アタシはそれしか言えなかった。
涙が、ほろほろと流れ落ちていて、言葉が出てこない。
ぎゅっと彼奴のリュックを更に抱きしめて顔を更に埋める。濡らしちゃったらごめんね。でも、泣き顔を見せたくないの。
アンタの前のアタシは、あっけらかんとした元気で単純で馬鹿で強いアタシじゃないと嫌なの。
こんな弱いアタシを、アンタに見せたくないんだよ。今更かもしれないけれど。
ーー何時も、通り、だよ……。
ーー……そっか。
彼奴がちょっと笑って立ち去って行く気配がした。
何処行くの。
側に居て。
そんな我儘で正直過ぎる願望が頭に浮かぶ。言葉に成らなかった代わりに、伏せていた目をちょっと上げた。潤んだ世界の中で、真剣な表情で立っている彼奴。
彼奴は、トロンボーンを吹いて居た。
そういえば、アンタは吹奏楽部だったんだよね。部活の自主練かな。ぼうっと考える。きっと、ずっと吹いていたんだろう。全く気付かなかった。
優しい音。
中低音、だっけ。こんな近くでトロンボーンの音を聴くのは初めてだ。もっとトランペットみたいな高い音だと思っていたのだけれど。
ーー……トロンボーン……。
ーーん?
ーー……優しい、音、だね。
ーーうん。良い音だろ?
彼奴は嬉しそうにアタシの横に来る。
アタシの目、きっと今、兎みたいなんだろうな。
強いアタシで居たいのにな。
又、目を伏せた。でも、感じる。横に彼奴が居るって。その優しい気配があるから。
ーーそろそろリュック、離してくんない?
ーー……駄目。
彼奴は横で又ちょっと笑ってる。アタシが今弱ってるっていう事を、分かっているかの様に。否、分かっているんだろう。
ぽん。
ぽんぽん。
三回。彼奴の優しい手がアタシの頭に乗った。撫でたんじゃない。遠慮がちでもない。
大丈夫だよ。
言外にそう言っている様に感じられる。
ふっと、落ち着いた。
ーー……はい。
しょうがないな。
その手にアタシは弱いんだ。少し笑ってリュックを渡す。本当はずっと抱いていたいのだけれど。
ーーどーも。
優しい気配。優しい声。
アタシの大切なアンタは、トロンボーンみたいだ。
♂
溜息。
ーーどうしたの?
君は何時ものあっけらかんとした様子でオレに問いかけた。
何時も元気一杯で、周りに呆れられる君。
でも、オレは知ってるよ。君だって苦しんでいる事。君だって涙を流す事。
放課後の、オレ等二人しか居ない教室。部活前、という微妙な時間。
今日も君は、オレのリュックを抱いて、オレのトロンボーンを聴いている。
ーーいや、なんでもないよ。
ーーそっか。
ーーちょっと、死にたいなって思ったんだ。
君の目が、大きくなった。そして、面白そうに弧を描く。
ーーアンタもそう思うんだね。
ーー人間だからね。
ーーそうだね。
目を瞑って、楽しそうに耳を澄ませていた。
アンタも、なんだね。
という事は、君も、なんだな。
まぁ君はオレみたいに馬鹿な事はしないんだろうけど。
ーー四階までは飛び降りても死ぬ確率が低いんだよ。確率が高くなるのは五階からだって。
ーー何でそんな事知ってるんだよ。
ーーアタシだからだよ。
ーー理由になってないよ。
君も、だな。
君もオレみたいに死のうとした事があるんだろう。
でも、生きてる。君も、オレも。
何でだろう。
お互い、何度も死のうとしただろうに。
ーー死ぬ、なんてもったいないなって、最近思うんだ。
君は言った。オレは不思議だった。君の口から、そんな言葉が出るなんて。君は君で必死に現実にしがみつき、苦しんでいるのに。
ーー後何十年も生きられるのにって。これから何が起こるかわからないのにって。
だから、君は泣いた。
堪えながらも、オレのリュックを抱きしめながら、泣いた。
ーーアタシが初めて死のうとしたのは、小三の時なんだ。
ぽつぽつと君が単語を繋いでいく。
ーーでもさ、あの時も今も苦しいけど、アタシ、あの時死ななくて良かったよ。
アンタに会えたから。
アンタのトロンボーンに会えたから。
死んでたら会えなかったもんね。
君はそう言って少し笑った。
クラスメートの前では決して見せない、儚くて弱々しい笑み。この間、君が泣いた日と同じ笑顔。
君も無理をしている。
ーーオレは、弱虫なんだ。
君は不思議そうにリュックを抱きしめながら首を傾げる。
ーー何度も死のうとした。車の前に飛び出たり、とか……。
ーーうん。
ーーでも、死ねないんだ。最終的に、逃げちゃうんだ。
オレは弱虫だ。
きっと、此処で泣いていた君よりも、もっともっと弱虫だ。
ーー其れの何処が弱虫なの?
君は問いかける。
何処が?
そんな事、言われるとは思っていなかった。
……何処が……?逃げるという行為は、充分弱虫の証じゃないか。
ーー逃げて当たり前じゃん。
君は言った。
ーーだって、いくら死にたくても、アタシ達はまだ生きているんだから。
生きていたら、死が怖い。どんなに死にたくても、死は怖い。そんな事当たり前じゃん。
君はそう言って、トロンボーンをじっと見た。その視線が何を訴えているのかオレには分からないけれど。
ーーそうなの、かな。
ーー少なくともアタシはそう思っているよ。
少なくとも、か。
君は何時も言葉を濁す。少なくとも、とか、多分、とか。自信が無いからだ、と前につぶやいていた。自分の考えがあって居るのか自信がないから、と。
でも、今回はあってるんじゃないかな。オレは君の考えにしっくり来たよ。
きっと、正解なんてないんだ。
オレは死にたい。でも死ねない。分かっている事はそれだけなんだから。
君が目を瞑って音を待っている。
♀
何で自分をここまで客観視出来るのかな。
そんな事を考えながら、アタシは又リュックに顔を埋めて涙を流している。
何で、アタシはアンタの前で泣いてるんだろ。涙の理由はなんとなくわかる様でわからない。最近のアタシ、情緒不安定過ぎ。
ーー……トロンボーン。
ーーん?
ーー……何でもない。
彼奴は、死にたいんだって。
優しいトロンボーン吹きは、死にたいんだって。
知らなかった。
アタシは助けて貰ってばかりで。アンタに縋って、甘えてばかりで。アンタに何も返せてないね。
ごめんね。
優しいアンタが、アタシは大好きなのに。
彼奴は黙ってトロンボーンを吹いている。アタシの大好きな音。最近知った音なのに、なんでこんなに落ち着くんだろう。低い様で高い様で低い……。
優しい音。アンタにぴったりな音。
ーー話、聞くよ?
ーー……何でも、ない、の。
アタシは、弱い。自分の事を弱虫だ、という彼奴よりも、もっともっと。
それは、今泣いている、という事じゃない。彼奴のリュックを抱いている、という事じゃない。
それは、アンタの前で強がってしまう、という弱さ。
本当は思い切り言葉を外に吐き出したいのに。
携帯の電源を入れた。時計がでん、と画面の中で鎮座している。
時間が、どんどん過ぎていく。
ーー……嫌だ。
もうすぐ、お互い、部活行かないと。
ーー……部活、行きたく、ない。
アタシの涙の訳。
それが、此処にあった。
部活をする分にはいいの。キツくても、辛くても。アタシが所属しているのは運動部。キツいのも辛いのも当たり前。だって運動部だもの。
だけど、其処に人間関係が入ってくるのは苦手なんだ。
きちんと活動してるんだから、楽しんでいるんだから、人間関係まではいいじゃん、別に。相性が合わないだけですぐにはぶられる人間関係なんて。そんな幾つも手を出せる程アタシは器用じゃない。
ただ、問題はそう思っているのはアタシだけだって事。皆人間関係まで手を出せる程器用だって事。それからアタシは相性が皆と合わないって事。
其処までアンタに言ったって、分からないと思うから言わないよ。
ーー……部活、行きたく、ない。
それだけしか、言わない。
それだけしか、言えない。
ーーそっか。
アンタはそう言ってアタシから目を逸らした。
聞かない優しさ。
時間、止まってくれないかな。
涙を隠しながらアタシは思う。アンタもアタシも時間が来たら部活に行かなくてはならない。
ーー……時間、止まっちゃえばいいのに。
アンタはちょっと笑った。
ーーオレは嫌だなぁ。
ーーじゃあ、人類滅亡しちゃえばいいのに。
ーー其れは早いかな。
トロンボーンを持ったまま、アンタはアタシの横にいる。アタシの横でちょっと笑っている。
何でだか分からないけれど。
アンタは何時もアタシが必要としている物をくれるね。
其れは沈黙だったり、問いかけだったり、優しさだったり、慰めだったり。
ぽん。
頭に優しい手が乗った。
大丈夫だよ、なのか。それともどう反応すべきなのか困っているのか。その手に乗ったアンタの思いはアタシには残念な事に分からないけれど。
でも、一人じゃない。
弱いアタシは、弱いアタシだけれど、一人じゃない。
アンタがいる。
ーー……ん……。
アタシはアンタのその優しい手が大好きだよ。
♂
リュックが背負う前からちょっと暖かい。……彼奴、オレのリュックを休み時間中ずっと抱いてやがったな。まだ放課後じゃないっての。
背負う前から自分のリュックが生暖かいってちょっと嫌だぜ?まぁ、放課後は許すけどな。君だから。
弱っているのに強くあろうとする君は、オレよりよっぽど立派だ。弱いままで諦めているオレよりも。
そして今日も放課後がやってくる。
此の、ホームルームと部活の間。微妙な時間。
「じゃあねー!」
「まだ部活、行かなくていいの?」
「ちょっとやる事あるからもう少ししたら行くよ。また明日ぁ!」
明るい声で君は言って、ドアを閉める。
ちょっとやる事。
部活に行かない、行きたくない。其れが君の涙の訳だった。
そして君は今日もオレのリュックを抱いている。
ーー休み時間に抱いてたんじゃないの?
ーーうん。抱いてた。……駄目だったかな……?
ーー否、構わないけどさ。
オレのリュックの何処が良いのかオレには分からないけれど。
ーー落ち着くの。
ーーそーなんだ。
聞いてみてもやっぱり分からなかった。君の思考回路をオレは理解した事がない。
ただ、一つだけ分かる事。オレのリュックを抱いている時、君は精神的にとても弱っている、という事。自分ではどうしようもない位。
それでも、君は強くあろうとする。
ーー今日は泣かないよ?
君は弱々しく笑った。弱々しく強がった。
ーーだから、トロンボーン、聞かせて。
君を見ていると、不思議と自分が小さく思える。
オレよりも小さな君が此の世界で生きようと必死に戦っているのに、オレは何でこんなんなんだろうって。
そんな事を、オレは呟いていた。
ーーアンタは小さくないよ?
何を言っているんだ、と君は不思議そうに言う。
アンタは大きいよ、と。
其れはアンタも周りも知らないのかもしれない。でも、アタシは知っているよ。アンタは大きいし強い。
ーーだって、小さい男が人を慰めたり出来るかよ。
君はそう言ってぷい、とリュックに顔を埋めた。
オレは、君を慰めたり出来ていたのか?
此の弱いオレが?
ーーアンタはアタシの憧れだよ。
君は言った。
憧れ?
オレが、君の?
不思議だった。やっぱり君の思考回路は分からない。
ーー今日は、泣かない、から。
もう涙声だけど、とは流石に言わない。相手はあっけらかんとした男っぽい口調の奴でも女の子なんだ。オレのリュックを抱きしめて、泣きながら、それでも強がる女の子。
ーーだか、ら、トロンボーン……。
ーー言われなくても吹くから大丈夫だよ。
オレは笑った。
オレは笑っている。
オレは生きている。
♂♀
人間はなんて自分勝手なんだろう、と最近思う。自分は死にたいのに、相手には死んで欲しくない。相手だって死にたいのに。
でも、それが人間なんだよね。
でも、それが人間なんだよな。
君よりも弱いオレは、君に助けられながら生きている。
アンタよりも弱いアタシは、アンタに助けられながら生きている。
誰もが自分は強いと思い。
誰もが自分は弱いと思い。
誰もが自分は一人で平気だと思い。
誰もが自分は一人では生きていけないと思い。
誰もが自分は死ぬべきだと思い。
誰もが自分は生きたいと思い。
誰もが自分は孤独と思い。
誰もが自分は、
誰もが自分が、
誰もが、
自分を、
過小評価し、過大評価する。
なんて愚かなんだろう。人間は。無自覚な所が更に酷い。
それでもオレは人間で。
それでもアタシは人間で。
その事実だけは決して変わらない。
その事実の中でオレと君は、アタシとアンタは、生きていかなくてはならない。
だけど、アタシにはアンタがいる。
オレには君がいる。
そんな幸せ過ぎる事実もある。オレには、アタシには、勿体無い程の幸せ。
オレは生きていく。
アタシは生きていく。
それは辛い事だ。
それは悲しい事だ。
だけど、
だけれども、
幸せな事もある。
幸せな事がある。
君がいる。
アンタがいる。
其れで充分じゃないか。辛くても悲しくても死にたくても。
死にたかった。否、死にたい。
苦しい、辛い。涙が止まらない程。
それでもオレは
それでもアタシは
生きていかなくちゃならないんだ。
貴方の周りにも居るはずだ。
必ず。
絶対。
暗いものを書いてしまって本当に申し訳ありません。那海晴、病み期です。
死にたいと思いました。「オレ」みたいに、車道の真ん中に立ってみた事もあります。お巡りさんに怒られてしまいましたが。
でも、生きています。様々な人に助けてもらい、涙を流した時はそっと慰めて下さり……。
今苦しんでいる人。死にたい位悩んでいる人。生意気を言いますが少し、周りに目を向けてみて下さい。貴方を見守って下さっている方がいらっしゃるはずです。