1話『中尉の異常な愛情』
基地全体に響く警報の音に、アリスはふっと目を覚ました。
冷たい床に前のめりに倒れていたようで、頬に鉄の冷たい感触が触れている。鉄?
「起きろ、起きるんだ伍長!」
後ろからかかった声と共に、右腕を引っ張られて起こされる。
同時に、理解した。
アリスの身体は、三年前の幼い体格に戻っていた。まだ、世界大戦が続いている頃の。
「連中、とうとうここまで攻撃して来やがった! 時間稼ぎが必要だ、わかるな?」
上官の言葉に頷き、近くに落ちていたG36Kライフルを手に取る。いつでも発砲できるようにフルオートにしておくのを忘れない。
自分と同じような少年兵達が上官の下へと集まり、あっという間に戦列を作り上げる。もちろん、アリスもその中の一人だ。
凄まじい、轟音と衝撃。
数メートル先にある壁が崩れて、足が姿を現した。
そう、それは巨大な機械の足だった。
「た、タリズマンだ! タリズマンだ!」
同僚達は一斉に悲鳴をあげ、後ろにいるものはそそくさと逃げ出し始めた。
「アリス、逃げるぞ!」
仲間に腕を引っ張られ、アリスも後ろへと後退する。その間にも、巨大な機械の足はのしのしと廊下を壊しながら向きをこちらへと向けて。
強烈な銃撃。30mmガトリング砲が火を噴き、壁を平気で打ち砕き、装甲も貫く銃弾を放ちながら堂々と歩き出す。
四足歩行型戦車。通称『タリズマン』。
従来の戦車より低コストで、ガンシップが役に立ちづらい山岳地帯や森林地帯を鈍足ながらも平気で踏破し、圧倒的な攻撃力で歩兵を駆逐していく恐怖の存在。
本職の戦車とタイマンなら負けるが、低コストゆえに大量投入できる為、一台見かければ三十台は来るといわれる数の暴力性。
それに加えてサイズもさほど大きくない事から爆撃も届かない地下道にも容易く進入して制圧できる利便性。
安価でありふれた兵器、故に身近な恐怖。生身の歩兵にとって、それは一種の恐怖だった。
手を握る同僚はひたすら走り続ける。アリスは時々振り返ってG36Kライフルをぶっ放すが、エンジン部分でもない限り、5.56mmライフル弾でダメージを与えられる筈も無い。
数少ない有効な手立て(足の間接部やエンジンに直撃させればの話)であるグレネードランチャーをアリスも同僚も装備していない。
四本足の機械の怪物は、のしのしと二人に迫ってくる。どこまで逃げても、どこまで逃げても。
そしてガトリング砲の銃撃が途切れた時、タリズマンはその足の付け根に装備された40mm榴弾砲を発射した。
人間どころか、ジープやトラック程度なら遠慮なく粉砕するほどの40mm榴弾砲の一撃。
天井に直撃したそれは爆風でアリスと同僚の身体を床と壁へと数回バウンドさせた。
「あうっ…!」
激しく身体を打ちつけ、アリスは動けない。そしてタリズマンは獲物を捕らえようとしているハイエナの如く、ゆっくり、ゆっくりと迫りつつあった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
ただ、恐怖だけがアリスを支配していた。その壮絶な光景をまじまじと見せ付けられながら、ただ引き金を引こうとする他は無かった。
「っ!?」
アリスが目を覚ますと、そこは大戦が終わった後の、駐屯地の自室だった。
時計を見ると、まだ十一時より少し前。まだ昼にもなっていない。眠っていたのは、ほんの短い間だけ。
夢。
そう、もう過ぎ去ってしまった、過去の夢。
でもその恐怖を未だに拭い去ることが出来ない。鉄の巨体を思い出す度に、震えが止まらなくなる。
震える足を押さえながら、壁に手をついて、膝を床について、ゆっくり、ゆっくり立ち上がる。
あの時手を繋いだ同僚は、もういなくなってしまった。
大戦が終わって、二年経って、多くの同僚、上官、先輩、そして時に部下も失って。
今を生きている、アリス。
彼らが得る事の無かった、今日を、生きている。
アリスはふらふらと自室を出ると、今、ここにいる仲間達を探しに行った。
へーゼル曹長の午前中の業務の一つとしてとして、駐屯地内の清掃がある。
もちろん、元々は大隊規模が駐屯していた基地、一人では全てを掃除するのは不可能だが、よく使う場所を掃除する事は可能だ。
よく使う場所をこまめに掃除しておけば、あまり汚れずに済む。
それに今日は元々、港でのボート訓練の筈だったが中止になったので、その分時間が完全に空いている。普段掃除できない場所も掃除しよう。お昼も携行保存食ではなく、厨房で温かいものを作れるから、皆に喜ばれるものを作ろう。
へーゼルは鼻歌を歌いながら、廊下をモップで拭き始めた。
そして十五分が経過した。まだへーゼルは掃除を続いている。
しかし、へーゼルは普段もそうだが、平穏というものをとにかく楽しむ少女だった。
鼻歌が本当の歌へと変わり、手にしたモップがギターへと変わるのに、十五分という時間は充分すぎる程だった。
『絶え間ない孤独を振り切って
花が咲く林を駆け抜けた
道を遮る荒波が 運命と共に押し寄せる
私に何が出来るだろう?
繰り返すエチュードを弾きながら
私に何が出来るだろう?
航海する仲間達の為に…
とびっきりの笑顔 純粋なままでいて
一人じゃないよ ここにいるよ
繰り返すエチュードと同じで
一人じゃないよ うまくやれる
遮る波すらも越えて
最後に笑えるのは皆だから♪』
それにしてもこのへーゼル曹長、ノリノリである。
そしてワンフレーズを歌い切り、汗を拭うふりをしていると、廊下の陰から覗く誰かの顔。
「あらあら」
恥ずかしい所を見られちゃいましたねー、と考えていると、その顔はゆっくりと姿を現した。
「そ、掃除楽しそうだね、へーゼル…」
そう言ったアリスの顔色が少し悪いのを、へーゼルはすぐに解った。
「ええ。今日のボート訓練が中止になったので、少し時間に余裕が出来ましたから」
「そっかー。まー、あたしもやる事無いんだけどねー」
アリスはいつもの呑気な口調で返事をすると、思い出したように呟く。
「ちょっと休憩しようか。シャロンとテリーも呼んで、お茶でも飲む?」
「そうですね……食堂に行きましょうか」
へーゼルがそう言って先に歩こうとする、けれど。
アリスの右手が、へーゼルの左手をぎゅっと握る。
先に行かないで、一緒に行こうという事だろう。やはり、何か悪い夢でも見ていたんだろうなぁとへーゼルは思った。
「行きましょうか。シャロンさん達が来るまでに、パンケーキでも焼きましょう」
「いいね、パンケーキ」
アリスは嬉しそうに答えると、手を繋いだまま言葉を続ける。
「へーゼルのパンケーキって、ふんわりしてるんだよね。本部とかで食べるのと、全然違う」
「色々工夫していますから」
「あたしは不器用だからそういうの、憧れるよ」
「なら、練習してみますか? パンケーキは手順は簡単な方ですよ?」
「そうだね! じゃ、費用はあたしの給料から引いとくよ!」
流石は隊長。時として自腹を切ることも辞さない。
色々と新しいことを始める、無鉄砲に見えるアリスだが、細かい部分はそれなりにしっかりしている。
だからこそ、隊長としてやっていけてる。
二人は手を繋いだまま、食堂へと向かっていった。
監視塔では十個の空マガジンと、三百個の空薬莢が転がっていた。
三百個の空薬莢。すなわち三百発である。三百発。G36Kライフルのフルオート射撃を十回分。
シャロンがテリーに銃口を突きつけて止めた…にも関わらずテリーはオリーブ達のトラックが外へ出て行った後でも遠慮なく撃ちまくっていたのだ。
当たり前だが弾丸はタダではない。
特にアッシュフォート守備隊のように、本部から遠く(一応同じ島内にはあるが)、少人数で(弾丸消費量自体が少ない)、平和な場所(使う機会が無い)で弾丸を使いまくろうものなら何があったのかと本部のお偉いさんから連絡が入るのだ。
そしてその対応と報告書を誰が書くのかというと……面倒くさがりの隊長アリスがそんなのをするはずも無く、結局シャロンがやる羽目になるのである。
そして、テリーは銃さえ握っていなければ、無口で大人しい、極めて大人しい女の子だ。
シャロンがついたため息を感じ取ったのか、空薬莢を拾っていたテリーは少し慌ててたくさん拾おうとしたが、やはり慌ててしまったせいか、空薬莢はバラバラと零れ落ちる。
「慌てなくてもいいわ」
そう声をかけてから、手で集めては時間がかかるだろうと思い、監視塔に常備されているヘルメットを掴むと、その中に空薬莢をまとめていく。
「あなたも自分のを使いなさい」
「はい」
さて、三百発の消費をどんな理由にすべきかとシャロンが考えつつ、空薬莢を拾っていると、マイクの電源の入る音が聞こえた。
「?」
何かしら、とスピーカーを見上げる。
『午前のおやつの時間です。お手すきの職員は食堂にお集まりください。放送終わり』
「アリスの奴、また何か思いつきをやるのかよ……ま、まぁいいですわ。テリーさん。それを拾い終わったら食堂に行きましょう」
「はい、終わりました」
「いつのまに拾いましたの!?」
慌てて振り向けば、監視塔のあちこちに散らばっていた空薬莢はヘルメットの中にこんもりと溜まっていた。
超人的な速度。なんという仕事の速さ。
が、しかし。
「最初からその速度でやりなさぁぁぁぁぁい!!!!」
「パンケーキの心得は焦がさないで、タイミング良くひっくり返すこと。焼きが甘くても美味しくないけど、焼きすぎても美味しくないんです」
厨房ではエプロンを身に付けたアリスが大量のパンケーキ生地の入ったボウルと、フライパンを前にし、へーゼルの説明を受けていた。
階級上はアリスの方が上だ。しかし軍歴も、この基地にいる年数も、そして何より料理という分野においてアリスは素人に近い。
新米士官より熟練した下士官の方が役に立つ、とどっかのえらい軍人も言っていた、確か。
「さ、すくってさーっとフライパンの上に広げてください」
「う、うん」
アリスはおたまでボウルから生地をすくいとり、フライパンの上に。
綺麗な円になるはずも無く、ジャガイモのような、楕円形……にすら届かないでこぼこである。
「あちゃー……」
「基本の形は味に影響を与えませんから大丈夫ですよ。ひっくり返すのはまだです」
パンケーキとは単純ながらも、難しい!
「ひ、ひっくり返すのは、な、なにでやるの?」
「勿論、これです! 炒めるときの、フライ返しを使ってひょいってやるんですよ」
へーゼルが差し出したフライ返しをそっとパンケーキの下へ。
後は、気合を込めてえいっという単純なお仕事――――の筈だった。
パンケーキ、厨房から食堂へと宙を舞う。
空飛ぶパンケーキ。
「今度は何か新しい企画でも思いつき……」
「!」
そこへ食堂の扉が開き、シャロンが顔を出すと同時に後続のテリーが強引に前へと割り込んだ。
パンケーキは、テリーの顔面にジャストフィットした。
「「「きゃあああああ!!!」」」
テリー以外の三人の可愛い悲鳴が響き渡りました。
「半分生焼け……」
「そりゃ片面しか焼いてないし! それよりテリー大丈夫か!? 悠長にパンケーキ食ってないで、顔冷やさないと!」
「と、とにかくへーゼルさん氷を用意して!」
「は、はい!」
テリーは半分生焼けのパンケーキをもぐもぐ食っているが残りの三人は大慌てだった。
へーゼルが氷水を袋に詰め、それをテリーの顔に押し付けてからようやく落ち着きを取り戻した。
「で、アリスさんは何をしてましたの?」
「いやぁ、へーゼルと休憩しようかなって思って」
「それで、アリスさんにパンケーキの焼き方を教えていたのですが……」
「ひっくり返すのに失敗でもしましたの?」
「いやぁ、まさしくその通りで…」
アリスはシャロンの言葉にきまり悪そうに答える。
「アリスは今後一切料理は禁止。いいな?」
後半部分をドスの聞いた声で言われては聞くしかないのであった。
「じゃ、へーゼル悪いけどパンケーキ焼いといて」
「はい」
へーゼルが厨房へと戻り、他の三人は食堂の席に着席。
「そうそうアリスさん。オリーブさん達に1/2トラックの使用許可出したんですの?」
「うん。まぁ、そんな遠くまでは行かないからガソリンもそんなに使わないでしょ?」
「それもそうなんですけど……テリーさんの悪い癖が出まして」
「ん?」
「三百発もばら撒きましたのよ。オリーブさん達を追い回して。幸いにして命中しませんでしたけど」
アリスの顔色が一瞬で真っ青になり、まだ氷水で顔を冷やすテリーにロックオン。
「……テリー。あたしの隣りに座……いや、こっちから行くよ」
アリスはテリーの隣りまで移動すると、テリーがまだ抑えている氷水の袋を少しずらす。
目だけは、アリスを見ている。その色素の薄い、薄紫色の瞳が、アリスの青い瞳と視線を重ねた。
「テリーの射撃の腕前はすごいよ。狙撃とかそういうのだと、オリーブの方が上手いけど、フルオートでの射撃の方はテリーの方が上手い。
あたしよりもずっと上手いと思う。テリーが色々あって、コンバットハイになりやすいのだって知ってる。
別に三百発も撃ちまくったことに関しては幾らでも理由はつけられるから、それに関してはあたしは怒るつもりはないよ」
だけど。
「でも幾らコンバットハイだからって、仲間に向けるのは駄目だ。弾丸の一つ一つはとても小さい。でも、その一発でも人の命を奪えるんだよ?」
テリーも、一応は戦場に立った事はある。
しかしそれでも、アリスの方が見てきた数は、通ってきた道は多い。
「まぁ、当たらなかったなら、良かったよ。皆を失ってたら、あたしはテリーを殺してたかも知れない。……でも、皆だけじゃなくて、テリーまで失うのは、あたしは嫌だもん」
すっと手を伸ばして。テリーの身体を抱きしめた。
同じ基地にいる仲間だから。平和になった世界を、共に生きる仲間だから。自分が守るべき部下達だから。
側にいるから、愛しているから。
アリスは必死にテリーを抱きしめた。
「アリスさん」
シャロンがアリスにそう声をかけるまで、二人はそうしていた。
「後で本部宛の報告書。理由はどうしますの?」
「あー……どうしよっか。えーと、そうだな……クマが暴れたことにしようか」
「クラブサンド島で最後にクマでの死亡事故が出たの、四十年も前よ」
「冗談だよ。あたしもクマは資料でしか見た事ないし」
シャロンの言葉にアリスはそう答えた後、ゆっくりと口を開く。
「五十年ぐらい前までは、町の中にそういう野生動物を閲覧できる施設があったらしいよ? 今じゃ、そこにいた動物の名前ぐらいしか残ってないけど」
「へぇ、学術機関は大戦中でも長く被害を受けずに生き残ってたと言うけど、そんなのもあったのね」
「いや、これ娯楽施設なんだって。子供に人気だったみたい」
「ええっ!? クマとかもそうだけど……危険な動物も多いでしょうに」
「うん。信じられないんだけどねぇ。クマとかも普通に見れたみたい」
アリスとシャロンがクマ談義で盛り上がっていると、ふと、テリーが口を開いた。
「クマと言えば……昔、住んでた村を、襲ってきたことが…」
「「え?」」
二人が声をあげた時、ちょうどパンケーキを焼き終えたへーゼルがお茶のピッチャーとパンケーキの乗った皿をを運びながらやってきた。
「どうしたんですか?」
「いや、今テリーが……昔住んでた村にクマが襲ってきたとか…」
「ああ、クマですか」
へーゼルはさも当たり前のように頷くと、ピッチャーと皿をテーブルに置いた。
「クマは怖いですからね。パワーもあるし、何でも食べますから」
「……よ、よくご存知で」
「故郷で、クマが畑を荒らしたことが何度かあるんですよ」
「どうだったの?」
珍しくテリーが長い言葉を発し、続きを促した。
「ええ。大戦のせいで、山に食べ物が無かったんでしょうね。何度も何度も降りてきて、時には人を襲った事もありますよ? 最終的に……」
「最終的に?」
「男手がいないものですから対抗しようにも難しいので、近くの守備隊に頼んで地形が変わるまで大砲撃ち込んでもらいました。ああいうのを山狩りって言うんでしょうね」
「「絶対違うと思う(いますわ)!」」
地形が変わるまで大砲撃ち込むのはやりすぎだろうに。
「それ以来、クマの被害はないと聞きます」
「そりゃクマも死ぬよ…」
アリスも大戦中は戦場に立ったのだ。大砲の威力を充分見てきている。山全体に地形が変わるまで撃たれてはクマも死ぬだろう。
「でもクマってまだ生きてるんだね……絶滅したかと思ってた。へーゼルの故郷はともかく、テリーの故郷にもいるなんて」
「東方列島は殆どが山や森林ですから。それに、テリーさんは旧大陸のツンドラ地帯のほうでしょう? それならまだクマも生きていますよ」
「世界は広いんですのねぇ」
シャロンはそう答えてからパンケーキを一つつまむ。
焼きたてでふんわりしている。温かくて美味しい。
「ふぅ……とても、美味しいですわよ、へーゼルさん」
「ありがとう、シャロンさん」
「色々工夫してるんだって」
おのおのパンケーキを手に、それぞれ口に運ぶ。
「オリーブさんたちの分も残しとかないと」
「生地はまだありますから、オリーブさん達が帰ってきた時にも焼きましょう」
「焼きたての方がオリーブたちも喜ぶだろうしね!」
三人は賑やかに、テリーは食べるのに集中しながら、時間は過ぎていく。
そんな穏やかな時間を感じ取りながら、アリスはやはり今、自分が生きていて良かったと思う。
大戦が終わって、平和になって、大戦の頃仲間だった人はもういないけれど。
嬉しいことも悲しいこともあった過去よりも、笑える現在を紡いでいく事の方が、ずっと楽しいから。
「ところでアリスさん。今思いましたけど、新しい代用コーヒーなんて見つかるんですの?」
「……り、リタがいるから大丈夫、だと思う。たぶん」
シャロンの唐突な言葉にアリスはそう返すが、視線は泳いでいた。そりゃそうだ。
「そういえばリタさん、私にお魚と言ってましたけど、どういう意味なんでしょう?」
「私はいい事あるって……アリスさんは頭に注意、でしたっけ?」
「思い出させないでくれよ……」
アリスがそうため息をついた直後だった。
鳴り響く、ブザーの音。
「!」
四人は一斉に立ち上がる。
町に何かあった、或いは町で守備隊が出動すべきという危険が発生した時に、町の各所にある通報装置から駐屯地へ連絡する為のブザーだ。
「三人とも戦闘準備をして待機!」
「了解ですわ!」「了解しました」「了解」
シャロン達は武器庫へ、アリスは通信室へと走り出し、駆け込む、が。
「いでぇっ!?」
慌てていたせいか、通信室の扉を開いた時に頭をぶつけてしまった。
「くそぅ、リタの奴ぅ!」
別にリタが悪いわけでもないが、とりあえずそう悪態をついてガス抜き。
通信室にある連絡用通信装置のマイクを取り、どこから通報してきたのか確認して、コードを繋いだ。
「はい、こちらアッシュフォート守備隊です。緊急出動要請ですか?」
『ああ、とにかく大変なんだよお嬢さん。11ブロックのダイアーさんの畑に、なんかデカイ動物がいるんだ』
大きい動物。クラブサンド島で大きい動物といえばトナカイぐらいなものだが。そう思いつつアリスは返答する。
「大きな動物? どれぐらい?」
『なんか灰色っぽい毛をしてて……三メートルはあるかも知れない。子供達は家に入れた。警察が11ブロックを封鎖しているが、どうしたものか』
灰色っぽい毛をしている三メートル。まるでクマのようだが……クラブサンド島で最後にクマが目撃されたのはシャロンが言っていた死亡事故のある四十年ほど前だ。
もしかしたら本物のクマかも知れない。それならへーゼルやテリーの言うような事件に発展するかも。アリスは緊張する。
「警察署長さんはなんて?」
アッシュフォートの人口は約四千人、それを守る警察は八十人という人数だが、毎日八十人が勤務している訳ではない。
11ブロック全体を封鎖しようにも、相当な人手がかかっているだろう。
『散弾銃は用意してあるが、霧のせいで視界が悪い。唐突に出てこられたら大変だと言っている』
「わかりました。すぐに向かいます。アウト」
通信機を置いて、アリスも武器庫へ向かう。G36Kライフルは散弾銃よりも連射は利くが、近距離では散弾銃の方が役に立つだろう。
しかし、霧の中で相手が見える装備と言えば、赤外線スコープぐらいだが、その赤外線スコープ付きの銃は一挺しかない。それもオリーブの私物だ。
アリスは格納庫に到着すると、テリーに視線を向けた。
「テリー。オリーブの私物の赤外線スコープ付きライフルを用意して」
「……さっき見たけど、ありません。多分オリーブが持ってったんだと思います。オリーブのライフルもありますし」
テリーが指差すラックには、オリーブのG36Kがそのまま置いてあった。やはり霧で視界が悪いから持って行ったか。
「しょうがない。全員いつものライフルと……散弾銃は後何挺ある? あるだけ持ってく」
「三挺ですわ」
シャロンが答える。サイガ12S散弾銃が三挺、ラックにかかっていた。
「テリーとへーゼル、そしてあたしで一挺ずつ持ってこう。予備マガジンはライフルと散弾銃、それぞれ四つは持ってく」
「随分重装備ですのね? 何がありましたの?」
「11ブロックのダイアーさんの畑に、大きい動物がいるんだって。毛が灰色で三メートルとか言ってる」
「クマですね」
へーゼルは真剣な顔でそう呟いた。
「急ぎましょう。軽装甲機動車で行けば、ある程度は盾になるかも知れません」
彼女の言葉に、アリスは聞き返す。
「ある程度はって……」
「クマは民家の窓枠どころか、車だって平気で壊しますよ? パトカーだってぺしゃんこにしちゃいます」
「そ、そんなにすごいのか……!」
アリスはオリーブ達の事を思い出した。
「へーゼル。11ブロックまで運転よろしく。テリーはハッチから周囲を警戒。シャロン。現地に着いたら指揮をよろしく。警察と協力して、上手い対応を。通信機は常にONに」
「了解しま……アリスさん、どうしましたの?」
軽装甲機動車に乗り込む三人を前に、アリスはマガジンをポケットに次々と詰め込み、頭にはヘッドランプを装備。
ライフルにもフラッシュライトを付け始めた。
「時間をかけては遅れますわよ!?」
「現地には三人で行っててくれ。オリーブ達を探してくる」
へーゼルもその意味に気付いたのか運転席から顔を乗り出した。
「気持ちはわかりますけど、単独行動だと更に危険ですよ!?」
「あっちはもっと危険だ! それに、オリーブ以外の二人は実戦経験が無い!」
そう、フィオナとリタは大戦後に入隊した。故に、実戦経験が無い。
野生動物を実戦というのは何だが、とにかく生きている存在に銃を向けた機会が殆ど無い。
相手が言葉の通用しない、野生動物なら、そして今へーゼルが言ったように装甲をつけた車でさえ壊せるクマ。
そんな危険な相手を放置していたら危険だが、そんなクマの近くにいる彼女達はもっと危険な筈だ。
「こまめに連絡は入れる。心配するな」
「でも!」
まだ言葉を続けるへーゼルをシャロンが止めた。
「…もういい。行かせてやれ。死ぬなよ、アリス」
「……ありがと、シャロン」
「行きますわよ、二人とも」
軽装甲機動車は外へと走り出し、アリスは徒歩でその後を追う。
直接山へと行ったほうが早い。
十キロを超える重量の装備だが、なんとかなる。
死ぬなよ、か。
シャロンとの付き合いはこの駐屯地に来てから……時間にするとだいたい二年ぐらい、大戦が終わった直後からだ。
同じ士官で、同じく大戦を経験したというのもあるけれど、同い年で自分とは違い普段はしっかりものであるから、シャロンには色々な事を頼ってきた。
部下達の命を預けられるぐらいに。でも、一時的に預けるだけだ。本当はそれを守るのは自分の責任、シャロンだって自分が守らなきゃいけないのだ。
だからこそ、今、何も知らないまま山にいるオリーブ達を、無事に帰還させる事。
それが今のアリスの役目。それさえ出来なければ、アリスは……アリスは…。
「隊長失格になっちまうよな…! あの命令したの、あたしなんだから!」
とにかく走る、走る、走る。
駐屯地から少し離れた、裏山へと走っていくと、駐屯地の備品でも或る1/2トラック。誰も乗っていない。
キーも外してあるし、荷物もないとなるとまだ山から降りて来ていないという事になる。
裏山へと、走り出す。
いつでも発砲出来るようにライフルを構え、ヘッドランプもONにした。
「クマめ、いつでも来いよ……!」
がちゃりとモードはもちろんフルオート…いや、正確性を考慮するならばセミオートか?
でも、近距離での不意の遭遇ならばフルオートの方が…それなら散弾銃か…いや、精密射撃を必要とするならセミオートだろう。
落ち着け。落ち着くんだ。アリス中尉。
お前は何度も修羅場をくぐりぬけた。あの大戦の中、軍人じゃない頃から生き残ってきた。
やればできる子、やればできる子だ!
アリスはとにかく急いで霧の中を、道なき道を走り出す。
しかしその直後、霧の中で冷たい雨が降り始めた。
「うわっ!?」
雨が降り始めたせいか、アリスは足を滑らして、斜面を幾らか滑り落ちた。
下まで落ちる、なんて事は無かったがそれでもしたたかあちこち打ち付けてしまったようだ。
「くぅっ……」
ライフルを杖代わりにして立ち上がる。
大丈夫だ、何処も大きな怪我をしていない。まだ、走れる。
『アリス!? 今、通信を入れたら大きな声が聞こえましたけれども!?』
「あ、ああ、シャロン? 大丈夫、少し転んだだけ。裏山についた。オリーブ達の捜索は続行するよ」
『マズイ状況ですわ。へーゼルさんに確認してもらったけど、本当にクマよ。被害者は現時点では出てないわ。現時点では』
「そう、クマの状況は?」
11ブロックの範囲内にいるのだろうか、とアリスが問いかける。すると。
『いい。落ち着いて聞いて』
『テリーが何発か撃ったけど当たらず、山の方に逃げていったみたいよ。雨で霧が少し晴れたから確認できたのだけれど。たった今よ』
「……わかった。通信終わり」
『ちょっとアリ―――――』
「切れた……あんのバカッ!」
シャロンが叫びながら通信機を思い切り叩き付ける。
「ど、どうしたんだい?」
クマの逃亡を確認したので、今後どうすべきか思案中だった警察署長がシャロンに問いかける。
「……実は、他の隊員が訓練で山中にいまして…隊長は彼女達の捜索に。クマが11ブロックを離れたので、私達と合流すべきと連絡しようとしたのですが…」
「まったく、すぐに通信を切るなんて……テリー、エンジンをかけて。申し訳ありませんが、私達も隊員の捜索に向かいます」
へーゼルの言葉に続けてシャロンは警察署長にそう頭を下げる。
「あ、ああ。無事だといいのだが……クマを撃退したのはお嬢ちゃん達だしな。人数が必要ならすぐに言うこと」
警察署長の念押しを受けながら、三人は軽装甲機動車に乗り込み、裏山目指して一気に速度を上げた。
とにかく、ひたすら上へ上へと目指す。
オリーブは赤外線スコープ付きのライフルを持っているし、リタは自然の声を聞いて危険を回避出来る力がある、と楽観的に考えるのは簡単だ。
そう信じていれば凄く気が楽だ。
しかし楽観的に考える事は失敗や事故への近道であるのが戦場の常、とアリスは痛いほど知っている。
常に悲観的に考え、それへの対処法を用意して被害を最小限に抑えるのが戦場のやり方だ。
「フィオナ! オリーブ! リタ!」
ライフルから手を放さず、そう叫んでから耳を澄ます。
返事は無い。当然だ。この山の中では、叫んでも意外と声が届かない。
とにかく、無事でいてくれ。
アリスはそう思いつつ、とにかく走る。
「皆ぁぁぁぁぁぁあっ!」
「隊長?」
アリスが雨の中、再び叫んだ直後、フィオナの声が、響いた。
「フィオナ!?」
「あ、アリスー」
続いてリタのいつもの声を聞いて、アリスはほっと一息をついた。
「どこにいるんだ?」
「あ、ここです」
フィオナの声が響き、アリスがヘッドライトで照らすと、ちょうど斜面が緩やかになっている所に葉がついたままの枝を組み合わせた、小さな小屋が建っていた。
遠くから見れば茂みにしか見えないだろう。奥にはオリーブが赤外線スコープをつけたM21ライフルを脇に置いているので、見かけ以上に広いようだ。
「どうしたんですか?」
「クマが出た。11ブロックの畑に出たらしいけど、テリー達が追い払って山に逃げ込んだって言ってる」
「クマ? クマって、あの大きいの?」
リタの言葉にアリスは頷く。
「へーゼルはクマだって確認した。とにかく、戻るよ」
アリスの言葉に、三人は頷く。ともかく、無事に合流できたのは良いことだ。
後は無事に山を降りることが出来ればそれでいい。が、油断は禁物だ。
「オリーブ、赤外線スコープで警戒しながら下りるよ。リタとフィオナはオリーブの両サイドのバックアップを。道は把握してあるから任せて」
「「「了解」」」
三人の返事。
「隊長がすごく隊長らしいですね……雨のせいでしょうか」
「フィオナ、無駄口を叩かない」
「は、はい」
アリスの真剣な口調に、フィオナは気おされたようだ。
「隊長。肩の力入れすぎ。心配してくれたのは、有難いけど」
「命令したのはあたしだからね。責任は持つよ。ありがと、オリーブ」
「伊達に隊長の部下じゃないですから」
オリーブはそう言って笑いながら、スコープを覗いて周囲を警戒。
少し山道を進んでは警戒を繰り返す。
「ところで隊長。一つ聞きたいんですけど。クラブサンド島でクマが最後に確認されたのって、相当前じゃないですか?」
「うん。でも、へーゼルとテリーの故郷じゃ、まだクマが生息してて…そのへーゼルがクマだと確認だってさ」
「そうですか」
フィオナはそう答えつつ、G36Kライフルを片手に少し先へと進む。
あんまり先へ進むな、とアリスが言いかけた時、フィオナが小さく声をあげ、リタが立ち止まった。
「見て、あれ」
視線の先、山を数十メートル降りた下に、奴はいた。
茶色がかった、灰色の毛をした、大きな体格の動物。
クマだ。資料でしか見た事が無い、クマがそこにいる。
確かにあれだけの体格で、数十メートル離れていても感じる威圧感は、猛獣と呼ぶにふさわしい。
「落ち着いて、落ち着いて行動するよ」
「隊長が落ち着いて。撃ちます?」
M21を構えたオリーブがそう問いかけるが、アリスは首を振る。
「駄目だ。下手に刺激したら危ない」
「でも、クマがあそこからどかないと帰れないよ」
リタの言葉通り、クマが居座っている場所は山道のど真ん中。クマがどかなければ、帰れない。
どうする。クマの意識をどうにかして剃らせられれば。或いは、交戦するか。
アリスの判断が、重要だ。
『……おい、アリス! アリス!』
「シャロン? どうした、急に通信を入れて」
『ずっと呼んでたぞ馬鹿。状況はどうなんですの?』
後半部分はいつもの落ち着きを取り戻したのか、いつもの口調だった。
「オリーブ達と合流したよ。ただ……二十メートル下に、クマを確認」
向こうでも息を呑んだようだった、が同時に『うっ』という声が聞こえる。
『……こっちもクマを確認。二十メートル上にいますわ…』
「……へーゼルかテリーを出して」
言いたい事はたくさんあるが今それを言うべきではない。
まずはクマの経験者に話を聞くべきだ。
「へーゼル。故郷ではどんな感じでクマを追い払った?」
『威嚇射撃が多いですけど……一度興奮すると手がつけられなくなりますから、射撃するなら仕留めるほかありませんね』
しかし、上下から一斉射撃したところでクマに当たるとは限らない。こちらから撃てば下の、下から撃てばこちらに流れ弾が飛んでくる可能性も無い訳ではないのだ。
「射撃は却下。誤射の危険もあるし」
『……では、何か驚かせるか、臭いとかで追い払うとか』
何か驚かせるか臭い、か。
何かないだろうか……臭い。
「リタ。何か無い?」
「うーん………発炎筒?」
やはりそれぐらいしか無いようだ。確かに煙も出すし光も出るし、何より多少の臭いもある。
「じゃ、それを使う。シャロン、聞こえる?」
『ええ』
「発炎筒を投げる。その間に駆け下りる」
とどのつまり、発炎筒で驚かしてる間に下まで駆け下りる。凄く単純なやり方です。
『解りました。射撃準備をしておきますわ』
「頼むよ。皆、準備はいい?」
アリスはオリーブ達を振り向くと、リタは発炎筒を投げる準備。
「合図はどうしますか、隊長?」
「あたしが合図するよ。3」
通信機と共に、カウント開始。
「2」
「1」
「リタ!」
「うん!」
リタが発炎筒を力任せにクマへと投げつける。
光と煙、クマを驚かせるには充分だ。四人は一斉に斜面を滑り降りる。
「えりゃああああああああああああっっ!」
速度を重視し、とにかく早く、速く。
シャロン達の場所まで、あっという間。
同時に、シャロン達もそれぞれライフルを構えていた。
「喰らえぇぇぇぇぇっ!!!!」
三挺のG36Kライフルによる一斉射撃。
光と煙、そして轟音。
あの巨体が、慌てて逃げ出した。
「……アリスさん、大丈夫ですか?」
無事に再会できた仲間達。へーゼルがそう声をかける。
「そうですよ、隊長が一番凄いことになってます」
フィオナも続ける。さっき転んだせいで泥まみれになってしまったか。
でも、むしろアリスとしては皆のほうを心配していたのだけれど。
「無事で良かったよ。全員無事で……本当に、良かった」
クマの恐怖。
初めて見た、というのもあるが、あんなバケモノが仲間達を襲っていたら…アリスは背筋が寒くなる。
「と、ともかく戻るよ。それと、フィオナたちにはゴメンね」
「え?」
「あんな思いつきしなけりゃ皆を危険に晒さずに済んだよ」
「……でも、隊長は助けに来てくれたじゃないですか? 一番危険を顧みずに」
「そうだよ、気にしない、気にしない」
フィオナとオリーブの言葉に、アリスは少しだけ嬉しくなる。
まったく、こうやって気を使ってくれるか可愛く見えちゃうんだよなぁ。
アッシュフォート守備隊は、クマを一度撃退することに成功したのだった。
「お腹すいた!」
「リタさん、駐屯地に戻ったらパンケーキを焼きますよ」
「わーい!」
はしゃぐリタをフィオナは「転ぶわよ」と嗜める。
「それに、駐屯地に戻るまで警戒は怠らないほうがbいいですわ」
シャロンも釘を刺して、テリーは周囲を警戒し始めている。
でも、まああまり心配は無いかも知れないけれど。
六人の仲間達が、一人でも欠けたら、やっぱり寂しい。
人の死だけは、どうあがいても慣れないんだ。アリスは改めてそう思う。
だからこそ、可能な限りこの仲間達を…。
「アリス、なんかいい顔してるけどどうしたの?」
「ん? 皆を抱きしめてやろうと思っただけさー!」
オリーブの問いに遠慮なく笑いながらアリスは答える。
そのいい顔が、本当は尊いものだと知っているから。
彼女は、仲間達を愛している。