おまけ 某氏及び全ての学習障害児に捧ぐ
え? 捧げられた本人は読んでないかも知れないって?
いいんです。俺の自己満足ですし・・・作文に対する衝動を抑えられない性質なのですから。
そして皆様、長文で申し訳ない!なのです。
アザとーが某氏の熱狂的なファンであることは知る人ぞ知る……いや、むしろ公の事実なので隠すまでもない。いつもうるさく絡んでスンマセン、兄貴っ!(言っちゃったよ……)
生命力にあふれた筆がお気に入りなのだが、そこはもはや感性の問題なので書評じみたことはここでは言わない。ただ彼は自分の変わり者っぷりをネタにし、ここの感想欄にも自ら多動であると明じてくれている。
そこには俺も身に覚えのある性質がいくつか隠されており、ファンとしてはちょっと嬉しくなってしまったのだが……今の時代に生まれてたら、俺ら息子と同じクラスに放り込まれますぜ?いや、俺は放り込まれないかもしれない。俺のLD傾向の出現は中学生からだったし、『注意欠陥型』だし。
――俺より専門の方もおるだろうに、こういうことを書くのもはばったいが、私見ということでご容赦願いたい。
息子がADHDと言われたときに何冊かそれに関する本を読んだ。その中で解りやすかったのは『ジャイアン・のび太症候群』と銘打った一冊だったが、ぶっちゃけADHDの特徴をジャイアン型(多動)とのび太型(注意欠陥)に分けたほうが解り易かろうってことだ。
ちなみに俺と息子はのび太型(不注意傾向)だ。まあはっきりADHDだって断定されたことはないし、そうだとしたら……って前提だが。
注意欠陥型は問題行動を起こすことが少ないので見過ごされることが多いらしい。しかも家の息子など年齢と共に落ち着きつつあるのを考えればADHD『傾向』でしかなかったようにも思えるのだが、息子のことはおいおい書いてゆくとしよう。
アザとーは実家に確認を取ったところ、三歳ぐらいのころには自分で絵本を読むことが可能だったらしい。新聞を読んでいたのは幼稚園にあがるかあがらないかの年頃だった。
それは親も期待するだろう。
小学校の成績はまさしく抜群だった……が! 今ならわかる。小学校で習う内容はアザとーの得意分野だったというだけだ。
授業中もぼんやりと窓の外を眺めている、かと思うと教科書に隠れて意味なく指先など捏ね繰り回す。それでいながら指名を受ければどの問題もソツなく正解を答えるのだから、良きにつけ悪しにつけ教師の覚えはめでたかった。
幾人かの教師には目の仇にされ、保護者会の時には他の子供との相違点をあげつらって攻撃もされた。出来はいいのに机の中に教科書が入らなくなるほどプリント類を詰め込むような、いわゆる『だらしない子』なのだから親の躾を問われるようなことがいくらでもあったらしい。
誤解のないように言っておくが、家の親は潔癖だ。机を整理しろだの、使ったものはすぐ戻せだの、普通よりうるさく言われたが、ついぞアザとーの身にはならなかった。だって世の中って片づけよりも面白いことがありすぎる。
だが教師運は良かったのかそういう担任に当たったのは一年だけだ。大概は理解ある教師ばかりで、どういうわけかむちゃくちゃ可愛がってもらった覚えしかない。
そんななか、小学校の勉強で唯一苦手だったのは『時間』だろうか。時計を読むことは出来ても時間の概念と言うものに乏しいのだ。「7時10分から15分経ちました、さあ何時何分?」を会得するのに他の子たちの三倍は時間がかかった。
実は大人になった今も時間感覚は少々おかしい。学校行事の日を一日単位で間違えるなんてざらだし、ゴミだしの曜日も平気で間違える。重い生ゴミを持って行ったはいいが、むなしく持ち帰ってくることの何と多いことか!
それでも何とかパート勤めを続けていられるのは必ず前日にシフトを確認し、○日は出勤という記憶を「明日は出勤」という記憶に置き換えるからであり、少し連休が続いたりすると不安で不安で仕方ない。
世の皆様、「そんなの私もあるわよ」と侮るなかれ。アザとーは子供達の生年すら書けない。生年月日欄に記入するときは本気でうろたえる。
はっきり言ってアザとーには長期の時間感覚が欠落している。三日より前は思い出せないほど遠い過去だし、三日より先は思いも及ばないほど遠い未来なのだ。そんな俺から見れば就学前から漢字が読めるのに鏡文字しかかけない、さもありなんなのである。
息子を見ていて気づいたことがある。文字を『読む』事と『書く』ことが別作業として歴然すぎるのだ。普通の子はお手本の文字を見ればそれと全く同じ形を真似る。記憶の中にある読んだ文字と手先に伝える書くための文字が一致しているからだ。ところが息子は読むことが出来る文字を手先に再現することが困難だ。書くという作業に入ったとたん『読む』とは違うスイッチが入ってしまうようだ。
そして、息子のようにできん子ならいざしらず、出来ると判断されてしまうと学習障害は深く取り戻しようのないものとなる。大人たちはまさか漢字の読める子供が『書く』能力に欠落していると思わない。わざわざ普通以上に手をかけて書くことを教えたりしないものだ。
ちなみにアザとー就学前には書くほうもそれなりに出来たが、誰かに教えられたわけではない。幸いにも『出来ること』の範疇内だったというだけの話だ。
中学校に入ったアザとーの成績が急激に落ち始めた原因は実はここにある。なまじ出来る子であったばっかりに『欠落』に誰も気づかなかったのだ。
まず歴史の年号が覚えられない。歴史上の『死んだ人間』の名前も興味はない。別に努力を怠ったわけではない。年表を何度も書き取り、繰り返して暗記したりもしたが、それでも人並みには届かない。それなのに冠位十二階の色まで答えたりするのだから努力不足ということで周囲から片付けられてしまう。
結局そのせいでアザとーは学校の勉強が嫌いになった。宿題もせず放課後は近所の図書館にこもって自分の興味のままに書物を漁るのだから、ますます科目による点数差は開いてゆく。気がつけば国語は全国でもトップクラス、英語は全国最下位という素敵な成績が出来上がっていた。
つまり出来ることは『標準装備』だが、出来ないことは徹底的に『欠落』している……そんな感覚、解ってもらえませんか、兄貴っ! あれ? もしかして俺だけ?
そして成績以外でアザとーが苦手だったのは『普通に振舞う』ことであった。
一般的な不注意型の子供の例に漏れず、アザとーは表面上は大人しくて問題行動を起こすようなことはなかった。むしろ本人はいたって普通に振舞っていたつもりだ。
それでも俺について回った言葉は「変わっているよね」だった。
高校でついうっかり奇人変人率の高い部活に入部してしまい、諦めと言う名のはっちゃけ期を迎えるまでこれは実に悩みの種でもあった。
なので、俺には幼少時からの奇行エピソードはない。本人いたって真っ当なつもりだったんだもん。ただはっちゃけてからはちょっとおかしかったが。
息子も奇行を行うわけでもないのに周囲の評価は「変わっている」である。
とかく周囲から理解されない性質を負って生まれてきた宿命の業……と書くとカッコよすぎではあるが、自覚できない異質性が確かに存在するようだ。
そして俺の時代はその異質性が『障害』と理由付けされることはなかった。特殊学級といえば身体的か、知能的な明らかな『障害』のある子供のための学級だ。知能的になんら問題は無いのに『異質性』と言う障害を抱えた子供は普通学級に放り込まれ、自分の異質性と戦わなければならなかった。
そういう意味で言うと家の息子も微妙なラインだ。アザとーが見ている限り息子の友人に何人か同程度の『障害』を持つ子供がいるが、息子がそいつらを差し置いて特別支援学級入りを果たしたのは国語と言う日本で暮らしていく上で最も基礎となる学問に対するLDと、級友のからかいに過剰反応する性質が災い(幸いとも言う)してのことだ。異質性を抱えたまま普通学級に放り込まれた子供達は不登校に陥るものあり、問題児になるものあり……だが彼ら全てを救うことなど『教育』にはできないであろう。
――俺ら変わり者は戦い続けなくてはならない。『普通』を目指して。
戦い続けたところで普通になれる日など来ないだろうが。
それでも俺は普通になろうと足掻いている。何でもかんでも受け入れて奇人変人を「個性」と認める風潮に流されるのも悪くは無いが、俺は死ぬまで「普通」にたどり着こうと足掻くことだろう。それがアザとースタイル。
そういっておきながら時として衝動のままに突っ走ってしまう、それは俺の本来の性質。
きっとこの先もその性質のせいで迷惑をかけるんだろうな~。申し訳ないっす。
そして子供の学習障害を疑うお母様がた、自分の子供をよく見てください。
落ち着きが無いのも、奇行を行うのも子供なら当たり前。やつらは大人とは別種の『子供』という生き物なのですから。
でも、何かの欠落が見られたらそれは危険サイン。特に賢い子は気をつけるべきなのです。その賢さに胡坐をかかないで見守ってやってください。
そして自分の子が学習障害だと言われてしまったお母さん、アザとーは生きてますっ! 生きているのです。大丈夫ですよ。
読んでくださってありがとうございます。本作は松の内は更新予定無しです。
その隙に忍者が・・・あ、鳩もいるし・・・(一部の人にしか解ってもらえねえ言い訳ですね。)