五話
「このお家は楽しそうだから、私も仲間に入れて頂戴」
普通の良識ある大人が同居しようとしている相手に言うせりふではないだろう。
義父が病でぽっくりと逝ってから僅か数ヶ月しか経っていないと言うのに、同居を切り出した理由が寂しさではなく、経済的な理由であることは明白だった。
『ごろつき』である夫の弟は妻子を連れて義母と同居していたのだが、三十過ぎた大人では考えられない理由で『保釈金』が必要になったらしい。母親のことは大好きだが弟とソリのあわない夫はその工面を断っていた。
曰く「そんなばかばかしい金を払う理由も、余裕も無い……ってアザとーが」。
余計な一言をつけてくれたものである。これで義母はこの家で俺だけが自分の意に染まぬ『異分子』であると認識したわけだ。だからこそ侮ったのだろう。冒頭の言葉にあいてしまった口をようやく戻した俺はさらに衝撃の一言を聞いた。
「もう引越し屋さんも頼んであるし、日にちも決めてあるのよ。その日は仕事休んでね」
……あら、事後報告ってやつですか。さすがです。
こうして義母と同居することになったストレスは半端なく、アザとーは一年足らずのうちに20キロも激太った。体が重くなると心も重くなる。
思い通りに動けない苛立ちと絶対的な不調。夫は「大げさな」「死ぬわけじゃないだろう」と冷淡ではあるが、ご近所のお母さん方はあんまりな見た目の変化に何くれとなく気を使ってくれた。もっとも、当時はそんなことにすら気づけないほど自分のことだけで手一杯だったが。
精神の不調というものは心だけを殺そうと付きまとう死神。憑かれた本人だけは差し迫る死の恐怖を感じているのだ。それが肉体を殺すものでないから周囲の理解を得ることは難しい。結果、精神病者はますますの孤立感に堕とされる。
もちろんアザとーも苦しみ、泣き喚き、暴れ悶えた……子供達をかまっていられないほどに。だからこの時期の息子と娘の不安定っぷりは全てアザとーの責任である。
そんな最悪の状態に拍車をかけるように、息子が小学校で隣の席になった男の子は『きちんとした子』だった。どれほど親の教育が行き届いているのであろうか、ちり一つほどの乱れも許さない潔癖な彼と息子の相性は最悪で、小競り合いが耐えない。一年生の初めから息子には『問題児』のレッテルが貼られた。
席替えがあるたびに息子の指定席は教卓のド真ん前。その特別扱いにいつしかクラスメート達の視線は奇異と蔑みに変わる。息子は軽いいじめられっことなり、性格も荒れた。
そんな中、アザとーの限界を呼んだのは義母の一言であった。
その日、彼女は息子の算数の宿題を見てくれていた。初めは静観していたアザとーではあったが、ふと覗き込んだ瞬間、そのやり方に疑問を抱く。義母は全ての問題の答えを教えて書き写しさせていたのだ。そういえば、書き取りの宿題もやたらとうそ臭い子供字だったことがあったなぁ……
「出来れば答えではなくてやり方を教えてください。学校からもそう言われているので」
今思えばこの一言を俺が飲み込んでさえおけば、行き来すらなくなるほど義母との関係が悪くなることもなかっただろうに。まあ、一度口から出した言葉は飲み込みようがないのだから今更か。
俺の言葉に悪びれるところの一つもなく、むしろ誇らしげに彼女が言った返事はこうだった。
「だって、この子『できない』んだもの。時間の無駄でしょ?」
石膏ボードで出来た壁は脆い。玄関脇に大穴が開いた。
頭に血の上った自分が何を喚き散らしたかなど覚えてもいない。だが、翌日から義母の様子は一変した。二人きりのときは俺の存在をあからさまに無視する。そのくせ自分の息子である夫が帰ってくると猫なで声で俺に擦り寄ってくるのである。
よく誤解を受けるがアザとーは器用な性格ではない。むしろ人付き合いは不器用で好き嫌いのはっきりした性質である。ついさっきまでぷいっと顔を背けていた相手ににこにこと対応できる腹など持ち合わせちゃあいない。
「アザとーはなんで不機嫌なんだ?」
「知らない。ずっとこうなのよ、きっと私が嫌いなんでしょ」
「ふざけるな! お前は俺の母親をなんだと思っているんだ!」
その後は俺の家族に対する罵詈雑言がひたすら続く。争いの種をまいた張本人は……どうだろう、もしかしたら腹の中では大喜びしていたのかもしれない。実にしおらしい態度で息子に取りすがる。
「止めてあげて、きっと私が悪いの。何か気に障ることをしたんだわ」
もとよりこの義母の腹黒さは承知である。義弟の嫁さんを「ほんとにいい子だわ」と褒めちぎっていたくせに、彼女が家出してしまえば「私はあの子が嫌いだったのよ。アザとーちゃんみたいにいい子じゃないんだもの」と言い切ってしまう。もっともそれを俺に言っちゃうところは浅はかというか、無邪気ではあるのだろうが。
ともかく、男友達は飲み友達という男の子性質のアザとーでは太刀打ちできないタイプの、いわゆる『女の子』である。とうぜんアザとーが全ての原因とされた。
(そうか、出て行けってことか)
未練などない。クズマザコンに中指立てて子供二人と生きていくのも楽しそうではないか。
(子供だけは……)
今日までアザとーが今のダンナに縛られているのは、実に子供達がいるからである。アザとー、他は何を捨てても惜しくはないが子供達だけは惜しい。
そして彼なりのやりかたで子供を可愛がっている夫は、決して子供は渡さないと言う。役場までとりに言った離婚届は白紙のまま戸棚の隅に埋もれた。