一話
「この子は随分と言葉が遅いのねぇ。心配だわ」
義母の言葉を聞いたときには思わず耳を疑った。
近所の同世代の子供と比べても何の遜色も無い。むしろ早いぐらいだ。
「こえと~ない」
「ん~?」
そうか。あれが「これちょうだい」だと解るのは俺だけだったのか!
失格母親でも……いや、失格母親だからこそアザとーは焦った。
すぐ下の弟は口の発達が遅く、訓練のために保健所に通っていた。大人になった今でもろれつが怪しい。うちの子もああなるのか?
二歳児検診で不安を口にしたアザとーに対する回答は「多動の傾向は見られますが、この時期の子供ならあることです。ゆっくり見守っていきましょう」だった。
『多動』? 言葉の発達を相談しただけなのになぜ?
だが、言われてみれば思い当たるふしはある。この息子は迷子になる名人なのだ。
やっと二歳になったばかりの息子を夫が競馬場に連れて行ったことがある。アザとーが反対した理由は「教育上よろしくない」という一般的なものではなく、「絶対に迷子になるから」という切実なものであったが夫君は聞き入れてはくれなかった。
「俺がついているんだから大丈夫だろ」
そういって意気揚々と家を出た夫が、いかな目にあったのか詳しくは知らない。だが案の定、息子は迷子になり、夫は探し回った挙句アバラを骨折して帰ってきた……疲労骨折であった。
もちろん、どこの子供だって迷子にぐらいなる。だが彼が名人と呼ばれたゆえんは迷子になった後のことである。スーパーなどできょろきょろと親を探す子供がいれば、見ている人間も『迷子』なのだと認識しやすい。おのずと救いの手が伸べられるものだが、彼が迷子センターに連れて行かれたことは一度としてない。
彼にはおよそ迷子の自覚というものが無い。一人ぼっちで人ごみに踏み込んでも不安に泣いたりしたことは無く、ましてや母親を探すようなこともしない。迷子になった自覚すらないまま自分の興味の赴く方へ動き回るので探すほうは大事になるのである。
このころのアザとーを深く傷つけた言葉は「そんな大げさな」と「こんな小さい子を迷子にするなんて考えられない」であった。もともとが母親に向いていないと自覚する身を切りつける言葉は想像以上に鋭いものだ。傷ついてすさんだ心からはさらに母性が削り取られる。
こんなことがあった。息子を連れて夕飯の買い物に出たアザとーは豆腐を手に取ろうとほんの一瞬、息子の手を離す。
「今夜はお豆腐にしようか?」
「うん、おトーフしゅきィ……」
なぜ声がフェードアウトするのだろうと思って振り向くと、そこにはもう息子はいなかった。
そんな子供を迷子にしないようにするなど至難の業だ。それでも世間はまるで母親としての機能そのものに問題があるかのようにあざ笑う。
迷子になった子供を見つけた母親が必要以上に子供を叱り飛ばしている場面に出くわしたことは無いだろうか。
「あんたはっ! ほんともう、何度言ったら解るのっ!」
良識ある大人は少々眉を顰める場面であるがアザとーは母親に多少の同情を禁じえない。もしその子が家の息子と同じ性質だとすれば……母親失格だと責められて傷ついている心の表れなのではないだろうかと……
そんな息子であるからこそ、アザとーが最初に教えたのは迷子になったときの立ち回りだった。
人を疑うようなことを教えたくは無いが今日日である。むやみと知らない人についていかないこと、迷子センター、もしくはサービスカウンターの位置をきちんと把握して出来れば自力で、無理ならちゃんと店員さんに連れて行ってもらうこと……もちろん知的な障害ではなく、むしろ子供にしては理解力の高い彼はそのやり方をすぐに覚えたが、相変わらず迷子という自覚は無く、この教えが役に立ったことは一度として無かった。