八話
子供を育てる中で誰しもがぶつかる問題といえば『ママ友』だろう。
……ズバッと言ってしまおう。アザとー、ママ友っていない。同じ年頃の子供を持っていて、子供を介して知り合った字義の上での『ママ友』はもちろん居る。
だが一般に聞くような『ママ友』とはちょっと違うのである。
アザとーの人間づきあいは意外に手狭だ。顔見知りの子供は多いが、その親の顔も知らないことが少なくない。
これは実に反省すべき点ではあるが……公園に子供を遊ばせに行っても人見知りのせいで立ち話の輪に入れない。ちょっと気を利かせて呼んでくれても、実は子供のほうと遊びたくてうずうずしてしまうのである。当然、話題をふられても上の空、返事は相槌ばかり、しまいには走り出して子供を追いかけまわし、率先して遊び始めてしまう。
そんな俺に対する評価は三つに分かれる。
一番多いのは『いい子守が出来たわ』タイプ。これは実に気安くていい。
会話の輪に入ることを強要もせず、さりとて無視するわけでもない。遊び疲れて立ち話の輪に戻れば何くれとなく会話をふってくれる、いわゆる大人の対応が出来る人たちだ。
次に多いのは『なにこれ、バカなの?』タイプ。
ここは田舎であるにもかかわらず、ドロ遊びや水遊びを嫌うお母さんもいる。中には砂場に入ることさえ禁じる者も居るほどだ。きっと家の中はさぞかし綺麗で、ちり一つ落ちていないことだろう。
彼女達には公園の水場で水を汲み、ドロをこね回し、公園中を『散らかして』遊ぶアザとーが奇異な獣のように感じたはずだ。
幸いにも親の意見に思考を左右されるのが子供というもの。そういう親に育てられた子供はごく当たり前にアザとーを蔑みの眼差しで見る。もちろん、近寄ってもこない。だから実質的な被害を被ったことはないのだが、こういうタイプとは本能的に折り合えないらしく、子供を抜きにした人間関係でも上手くいったためしがない。アザとーをいじめようとするのはいつもこのタイプだ。
ママ友という任意的な関係なら避ければ済むだけのこと。あちらもきっとそう思っているだろう。だが、仕事やPTAの係ではそうはいかない。教師もまた然り。
アザとー、実は息子の先生と折り合いが悪かったこともある。上から目線を越える蔑みの目線で見下され、個人面談の言葉には『どうせ出来ないんでしょ? 出来るように私が導いてあげるわよ』的な響きがたっぷりと含まれている。まあ教育熱心ないい先生ではあったのだが、人間的な折り合いはついぞつかなかった。
そして最も希少なタイプは『子供は子供、親は親』で付き合ってくれるタイプ。アザとーが最も心許せる、そして気安いタイプだ。
幸いなことに家の近所はそういうタイプで囲まれているのだが、でなければこんなに楽しく暮らせては居ないだろう。
「いやあ、さすがに遊び疲れた~」
たまに泣き言を言えば彼女達は答える。
「でも、好きでやってるんでしょ」
「違いないや」
ドロだらけになった子供たちを家で風呂に入れるといえば着替えを届ける。ハロウィンのイベントだといえば菓子を用意する。そういった親としての仕事はもちろんするが、俺が単なる子供好きで中身も子供だということもよく理解してくれる。
当然彼女達は俺の息子のことも可愛がってくれる。それは『俺の息子』だからではなく『マリサメ(仮名)』だからである。それとは別個の人間として俺のことも見てくれた。
子供の学校関係で言えば、子供同士は親しくないのに仲のいい母親というのが何人か居る。
逆もまた然り。家に良く来る、また家の息子が遊びに行かせてもらう友人の親と俺が必ずしも親しいわけではない。もちろん顔を合わせれば「いつもありがとうございます」ぐらいの挨拶はあるが、それは大人のたしなみというものだ。
ちなみにアザとー、息子のリア友数人とはツイ友で、よく遊んでもらってもいる。遊びに来れば一緒におやつを食い、バカ話に混じり、駄目な大人っぷりを晒す『友人の母親』を彼らがどう思っているのかは知らない。だが関係は良好である。
そして俺自身はその親全てと親しいわけではないが、息子はきちんとその親たちとも良好な関係を築いているのだ。
『ママ友』という括りで人付き合い出来ない不器用さを持っているが故、アザとーは誤解されやすい。この性質はもちろん息子にも受け継がれている。
それでも俺も息子も、『友達』が居ないわけではないのである。




