映画館の最後列とカシスソーダ(執筆中)
CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00
「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。
ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。
ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。
御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。
一、退屈なエンドロール
「タカシ君、そっちのゴミ袋、口をしっかり縛っといて。あと、C列のドリンクホルダーに飲み残しがあるから回収頼むわ。今日のお客さん、コーラこぼしすぎだよなぁ。床がベタベタだ」
「はい、了解です。今やります」
深夜一時。眠らない街・新宿の喧騒から一本路地を入った場所にひっそりと佇む、創業五十年を迎える古びたミニシアター「シネマ・オデオン」。
最終上映が終わり、エンドロールの余韻と共に最後の客が去った後の劇場内には、独特の匂いが重く、そして濃密に漂っていた。キャラメルポップコーンの甘ったるい香ばしさと、長年踏みしめられてきた古い深紅の絨毯から立ち昇る埃っぽさ、機械油の微かな香り、そして数百人の人間が二時間かけて吐き出した二酸化炭素と熱気の澱み。それらが複雑に混ざり合い、祭りの後のような、あるいは巨大な生物の胃袋の中のような、奇妙な静寂を作り出している。
高村タカシは、慣れた手つきで座席の下に落ちているゴミを拾い集めていた。踏み潰されたプラスチックのカップ、噛み終わったガムを包んだ銀紙、破られたチケットの半券、誰かが落としたハンカチ。それらは、観客たちが夢の世界に没入していた時間の残骸であり、彼らが現実へと回帰した後に残された、唯一の証拠品でもあった。
都内の私立大学に通いながら、この劇場でアルバイトを始めて二年になる。
元々、映画は好きだった。いや、現実逃避の手段として物語に縋り付いていたと言った方が正しいかもしれない。幼い頃から、周囲に馴染めず、教室の隅で本を読んでいるような子供だったタカシにとって、虚構の世界は唯一のシェルターだった。
スクリーンの前に座り、暗闇に包まれている間だけは、平凡で何者でもない自分を忘れ、物語の主人公になれるからだ。スクリーンの中でなら、空を飛ぶことも、世界を救うことも、運命的な恋に落ちることも、誰かに深く愛されることもできる。たった二時間だけの、安価で手軽な魔法。
だが、現実は映画のようにはいかない。残酷なまでに、いかない。エンドロールが流れ、場内の明かりがついた瞬間、魔法は無慈悲に解け、観客はそれぞれの現実へと帰っていく。借金、失恋、仕事のトラブル、将来への不安。それらが待つ世界へ。
タカシ自身の人生にも、世界を救うミッションもなければ、劇的なロマンスもない。あるのは、迫り来る単位の心配と、書きかけのまま放置され、埃を被った小説の原稿データ、そして時給千円の深夜バイト生活だけだ。
このまま大学を卒業し、就職し、何者にもなれずに、エキストラAのような人生を送っていくのだろうか。そんな漠然とした、しかしタールのように粘り気のある不安が、深夜の劇場で増幅される。
「はぁ……」
深いため息をつきながら、最後列のシートを粘着ローラーで掃除する。コロコロという乾いた音が、無人の劇場に虚しく響き、吸音材の壁に吸い込まれていく。
正面のスクリーンには、真っ白な幕が下りている。上映中は夢を映し出す魔法の鏡も、今はただの巨大な白い布切れだ。何の変哲もない、沈黙した壁。そこには何も映っていないし、何も語りかけてこない。
タカシは時々、このスクリーンの裏側に奇妙な気配を感じることがあった。
誰かがこちらを覗いているような、あるいは何かが蠢いているような視線。それは恐怖というよりは、何か懐かしいものに呼ばれているような、不思議な引力を持った感覚だった。
だが、先輩たちは「ネズミだろ」「古い劇場だからな、映写技師の幽霊の一つや二つ出るさ」と笑い飛ばすだけだった。
「おーい、タカシ! 掃除終わったら映写室集合な。今日は店長いないから、やるぞ!」
先輩バイトの健二が、通路の向こうから明るい声を上げた。手には近所のコンビニの大きな袋が提げられている。袋からはスナック菓子や酒瓶の形が浮き出ている。
「やるぞ」とは、スタッフ内緒の恒例行事、「深夜の試写会」兼「打ち上げ」のことだ。
その日に出た廃棄予定のポップコーンと、こっそり持ち込んだ酒で、適当な映画を流しながら飲む。映画好きの貧乏学生スタッフにとって、これ以上の贅沢はない。普段なら、タカシもこの時間を楽しみにしていた。
だが今日のタカシは、なぜか心が浮き立たなかった。
自分がただ消費されるだけの観客でいることに、そして何も生み出せていない自分自身の空虚さに、焦りを感じ始めていたからかもしれない。スクリーンの白さが、自分の未来の白紙具合と重なって見えたのだ。自分はいつまで、他人が作った物語の掃除をしているのだろうか。
二、紫色の発光体
映写室は、劇場の心臓部だ。
デジタルプロジェクターの排熱ファンの音が、低い唸り声を上げている。壁一面にはポスターや、過去の上映スケジュールのメモ、歴代スタッフの落書きが貼られ、独特の熱気が籠もっている。フィルム時代の名残である油の匂いも微かに残っている。ここだけ時間の流れが違うような、密室特有の親密な空気があった。
狭い部屋に、バイト仲間四人が車座になって座り込んだ。
中央には、コンビニで買ってきたポテトチップスやサラミ、そして缶チューハイやリキュールの瓶が並んでいる。廃棄予定のキャラメルポップコーンが山のように積まれ、甘い匂いを放っている。
「かんぱーい! 今日もお疲れ!」
プラスチックのコップがぶつかり合う。安っぽい乾杯の音。
「今日の映画、どうだった? あのフランスの恋愛映画。パルムドール獲ったやつ」
健二が口火を切る。彼は映画監督志望で、いつも辛口の批評家気取りだ。
「いやー、客入り悪かったね。難解すぎて寝てる人多かったし。あんなの、意識高い系しか喜ばないよ。セリフ少なすぎだし、風景描写が長すぎる」
「俺は嫌いじゃないけどな、あのラストの虚無感。救いがないのが逆にリアルで。人生なんてあんなもんだろ」
別のスタッフがポテトチップスをかじりながら言う。
「でもさ、主人公が優柔不断すぎてイライラしたわ。もっとはっきりしろよって。あそこで抱きしめないでどうすんの。フランス人ならもっと情熱的になれよ」
スタッフたちの、遠慮のない映画談義が始まる。作り手の苦労などお構いなしの、無責任で楽しい批評会。ここでは誰もが評論家になれる。
タカシは愛想笑いを浮かべながら、手元のコップにカシスリキュールを注ぎ、炭酸水を足した。
シュワシュワ……。
紫色の液体の中で、炭酸の泡が立ち昇る。
カシスソーダ。甘ったるくて、子供っぽい味。でも、今のタカシにはこの安っぽい味が似合いだと自嘲気味に思う。複雑な味わいのワインやスモーキーなウイスキーは、まだ自分には早い気がした。苦味を受け入れられるほど、大人になりきれていないし、自分の人生に深みもない。
その時だった。
コップの中の泡が、不自然な動きを見せた。
通常なら水面でパチパチと弾けて消えるはずの泡が、弾けずに集まり始めたのだ。物理法則を無視して、液体の中央に凝縮していく。まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、あるいは何かの意思を持った集合体のように。
ブクブクブク……。
泡は寄り集まり、密度を増し、やがて一つの球体となり、コップの縁からこぼれ落ちるようにして床に転がった。液体ではない、確かな質量を持った個体として。
「え?」
タカシが目を凝らすと、その球体はフワリと重力を無視して宙に浮いた。
大きさはソフトボールほど。全身が紫色のフワフワした毛で覆われており、内側からカクテルのような妖しい、しかし温かみのある光を放っている。
目も口もないが、その毛並みの揺らぎから、何か意志のようなものが感じられた。まるで、小さな紫色の太陽のようだ。あるいは、深海の発光生物のようでもある。
「……見えてるの、俺だけか?」
健二たちは、熱心に「あのアクション映画のCGが酷かった」「予算の使い方が間違ってる」「監督の自己満足だ」という話題で盛り上がっていて、誰も足元の異変に気づいていない。彼らの声が遠のき、タカシと紫色の球体だけの世界が切り取られる。
紫色の毛玉――紫モジャは、フワフワとタカシの目の前を漂い、そしてトスン、とタカシの肩に着地した。
重さはほとんどない。炭酸の気泡が肌に触れているような、くすぐったい感触だけがある。
タカシが驚いて払いのけようとすると、紫モジャはピタリとシャツに張り付き、微かな温もりを伝えてきた。それは、誰かにそっと手を置かれたような、肯定的な安心感だった。
『……』
声は聞こえない。だが、タカシの脳内に直接、イメージが流れ込んできた。
それは、今まさにスクリーンで(スタッフ用に音量を絞って)流されている、B級ホラー映画のワンシーンだった。
チープな特撮、大げさな演技、予測可能な展開、ご都合主義の脚本。客観的に見れば、批評家が酷評するような駄作だ。サメとゾンビが合体したようなモンスターが暴れている。
スタッフたちも「これ、CGひどいな」「脚本に穴がありすぎ」「予算なかったんだろうな」「役者の無駄遣いだよ」と笑っている。嘲笑の対象でしかない。
タカシも同感だった。こんな映画に価値などない、と。時間を無駄にするだけの消費コンテンツだと、心のどこかで見下していた。こんなものを作るくらいなら、何も作らないほうがマシだとすら思っていた。
だが、紫モジャが伝えてきたのは、映画そのものの映像ではなかった。
視点が反転する。スクリーンから客席を見る視点へ。
それは「客席の風景」だった。スクリーンを見つめる観客たちの視点だった。
三、スクリーンの向こう側
タカシの意識は、紫モジャを通じて、昼間の上映回へとタイムスリップしていた。現実の時間は止まり、タカシの精神だけが過去の客席を彷徨う。
客席の最前列。スクリーンを見上げる特等席だが、首が痛くなるので敬遠されがちな場所。
そこに座っていたのは、くたびれた作業着を着た五十代くらいの中年男性だった。
手には、コンビニの袋。中には冷えたおにぎりが見える。顔には深い皺が刻まれ、疲労の色が濃い。目の下にはクマができ、指先は油で黒ずんでいる。爪の間に入った黒い汚れは、いくら洗っても落ちない職人の証だ。
おそらく、夜勤明けか何かなのだろう。体が泥のように重そうで、座席に沈み込んでいる。
彼は、食い入るようにスクリーンを見つめている。
他の観客が失笑するようなチープなアクションシーンで、彼は身を乗り出し、膝の上で拳を握りしめている。
『頑張れ……負けるな! 立ち上がれ!』
男の心の声が聞こえた。
映画の中の主人公は、絶体絶命のピンチに陥っている。理不尽なモンスターに追われ、仲間を失い、装備も壊れ、それでも泥だらけになって立ち向かう。武器もなく、勝算もなく、ただ生きるために、守るために、鉄パイプ一本で向かっていく。
その姿に、男は自分を重ねていたのだ。
理不尽な社会、報われない労働、孤独な生活、上司からの叱責、家族との不和、逃れられない貧困、そして老い。
そんな現実という巨大なモンスターと戦う自分へのエールとして、彼はこのB級映画を見ていた。主人公が勝てば、自分も勝てる気がする。主人公が立ち上がれば、自分も明日またあの過酷な現場に行ける気がする。
男の目から、一筋の涙がこぼれる。作業着の袖で乱暴に拭う。
そしてエンドロールが流れる頃には、男の表情から絶望的な疲労感が消え、微かな力が宿っていた。瞳に光が戻っていた。
『よし。……明日もやるか。あいつも頑張ったんだから。俺も、まだやれる』
場面が変わる。
今度は、制服を着た女子高生の二人組だ。
学校帰りにふらりと立ち寄ったのだろう。ポップコーンを食べながら、お喋りに夢中だった。
映画の内容なんてどうでもいい、ただ時間を潰したいだけのように見えた。暇つぶしの延長線上にある映画鑑賞。
だが、映画の中盤、主人公が恋人に別れを告げるシーンで、片方の少女が鼻をすすり始めた。チープなラブシーンだと笑われる場面だ。役者の演技も決して上手くはない。
しかし、彼女にとっては違った。
『わかる……私も言えなかった。怖くて、逃げちゃった』
彼女は失恋したばかりだったのだ。言いたくても言えなかった言葉が、胸につかえていたのだ。後悔が棘のように刺さっていた。
映画の中のセリフが、彼女の言えなかった言葉を代弁してくれた。自分の痛みを肯定してくれた。「それでいいんだよ、辛かったね」と言ってくれた、小さな友情の確認。言葉はいらない、ただ隣にいるという温もり。
映画が終わって明かりがついた時、少女は少しだけ晴れやかな顔で笑った。メイクは崩れていたが、瞳は雨上がりの空のように澄んでいた。
『ありがと。なんか、スッキリした。新しい恋、探すわ』
タカシは呆然とした。
自分たちが「駄作」と切り捨て、笑いものにしていた映画が、誰かにとっては救いになっていた。
退屈な日常を生き抜くための、酸素になっていた。
作り手が込めた思いは、たとえ技術が稚拙でも、脚本が粗くても、届くべき人には届いていたのだ。物語とは、完成度だけで測れるものではない。受け手との化学反応なのだ。一人の人間が救われるなら、それは名作と呼んでいいのではないか。
「俺は……何もわかってなかったんだ。映画を見る資格なんてないかもしれない」
タカシは呟いた。自分の傲慢さが恥ずかしかった。
映画の価値は、脚本の完成度やCGの技術、あるいは興行収入や批評家の点数だけで決まるわけじゃない。
それを受け取る観客の人生と共鳴した時、初めて物語は完成するのだ。
自分の人生が退屈だと嘆いていたタカシだが、その「退屈」の中にも、数えきれないほどのドラマが潜んでいることに気づかされた。観客一人一人に物語があり、彼らはスクリーンを通して自分の人生を見つめ直し、またそれぞれの戦場へと帰っていく。映画館は、そのための補給基地であり、教会であり、避難所だったのだ。
紫モジャは、タカシの肩の上でプルプルと震えた。
タカシの中にあった「焦り」や「退屈への不満」「自分への失望」といったネガティブな感情が、シュワシュワと音を立てて弾けていく。
それはまるで、炭酸の泡が喉を刺激するように、心地よい痛みと共に消えていった。心の澱が浄化され、透明になっていく感覚。
「お前、これを教えてくれたのか? 映画の神様なのか?」
タカシが心の中で問いかけると、紫モジャはカシス色の光を強く明滅させた。
肯定の合図だ。
こいつは、映画館に棲みつく「感情の残響」なのかもしれない。
無数の観客がスクリーンに向けて放った、喜び、悲しみ、勇気、希望。それらが暗闇の中で集まり、凝縮して生まれた、小さな映画の精霊。エンドロールの後に残る、目に見えない拍手喝采の結晶。
四、未来の予告編
「おいタカシ、どうした? ぼーっとして。カシスソーダ、炭酸抜けてるぞ」
健二に肩を叩かれ、タカシは現実に引き戻された。
「あ、いえ。……この映画、意外と悪くないですね」
「はあ? お前、さっきまでボロクソ言ってたじゃん。熱でもあるのか?」
健二が呆れたように笑う。
「いや、なんか……主人公が必死なのが、いいなって。不器用だけど、前向いてる感じが、誰かに似てる気がして」
タカシの言葉に、健二はきょとんとした後、ニカっと笑った。
「まあな。必死な奴は笑えないよな。俺たちも、必死こいてバイトしてんのと同じか。誰かのためにポップコーン作って、掃除してさ。俺たちの人生もB級映画みたいなもんか」
その時、映写機のリールが回る音が止まった。カタン、という乾いた音。
映画が終わったのだ。
スクリーンが暗転し、完全な闇が訪れる。
スタッフの誰かが電気をつけるまでの、ほんの数秒間。
その深い暗闇の中で、紫モジャが動いた。
フワリとタカシの目の前に浮かび上がり、自身の体を激しく発光させたのだ。
それはまるで、小さな映写機のようだった。
紫色の光が、タカシの瞳というスクリーンに、ある映像を投影した。
それは、映画のワンシーンではなかった。
タカシ自身の姿だった。
だが、今のタカシではない。少し大人びて、落ち着いた表情をしている。髪型も少し違うし、着ている服も今のタカシが持っていない、少し上質なシャツだ。
場所は、小さな書斎のようだ。壁一面に本が並んでいる。映画のパンフレットやDVDも山積みだ。
机の上には、積み上げられた原稿用紙と、飲みかけのコーヒー。マグカップからは湯気が立っている。
窓からは、柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。庭の緑が見える。
未来のタカシは、ペンを走らせている。パソコンのキーボードではなく、万年筆で、紙に文字を刻んでいる。
迷いはない。時折、窓の外を見て微笑み、また書き始める。その表情は真剣だが、苦しそうではない。楽しそうだ。物語を紡ぐ喜びに満ちている。
派手な成功者の姿ではない。喝采を浴びているわけでもない。有名作家としてテレビに出ているわけでもない。
ただ、自分の言葉で、誰かに届く物語を紡いでいる。
とても静かで、穏やかで、満ち足りた「日常」の風景。そこには、映画館で感じたような、誰かの人生に寄り添う温かさがある。
彼は知っているのだ。自分の物語が、どこかの誰かの夜を救うことを。自分の書いた言葉が、誰かの涙を拭うことを。
『これが……俺の未来? 書いているのか、俺は。諦めていないのか』
タカシが息を呑むと、映像の中にいる未来のタカシが、ふとこちらを向いてウィンクした気がした。
「大丈夫だよ、続けろよ」と言われた気がした。「この先、いいことが待ってるぞ」と。
その瞬間、どこからともなく音が響いた。
シャン、シャン、シャン……。
それは映画の上映終了を告げるブザー音と重なり、美しい和音となってタカシの鼓膜を震わせた。
それは「予告編」だった。
お前の人生という映画は、これから面白くなるぞという、神様からのネタバレ。ここからが本番だという合図。これまでの退屈な日々は、すべて伏線だったのだ。挫折も、焦りも、このバイト生活も、すべてはあの書斎に辿り着くためのプロローグだったのだ。
パッ、と映写室の電気がついた。
「よーし、お開きにするか! 片付けようぜ。始発まであと一時間だ」
健二の声で、魔法の時間は終わった。
タカシが慌てて周囲を見渡すと、紫モジャの姿はどこにもなかった。
ただ、飲み干したカシスソーダのコップの底に、紫色の滴がキラリと宝石のように光っていただけだった。
五、エンドロールのその先へ
翌日。
タカシはいつものように、開館前の清掃業務に追われていた。
昨夜の酒が少し残っているが、頭痛はない。気分は悪くない。むしろ、視界が晴れ渡っているようだった。昨日の雨が嘘のように、新宿の街はクリアに見える。
「14列の7番……よし」
タカシは、座席の一つ一つを丁寧に拭き上げていた。
ただの作業ではない。
「ここには今日、どんな人が座るんだろう」
失恋した少女かもしれない。疲れたサラリーマンかもしれない。あるいは、未来の映画監督かもしれない。何かに悩む学生かもしれない。
この座席の一つ一つが、誰かの人生を受け止め、物語と出会う場所なのだ。宇宙船のコックピットのようなものだ。ここから彼らは旅立ち、また戻ってくる。
そう思うと、単調な清掃作業が、とても神聖な儀式のように思えてきた。自分は、彼らの旅の準備をしているのだ。物語の入り口を守っているのだ。自分が整えた座席で、誰かが涙を流し、救われるかもしれない。そう思うと、雑巾を握る手にも力が入る。
「タカシ君、今日なんか機嫌いいね。鼻歌なんて歌っちゃって」
受付の女の子に声をかけられ、タカシは照れくさそうに鼻をかいた。
「そうかな。……ちょっといい夢を見たんだ。最高の映画の夢をね」
清掃を終え、劇場を出ようとした時。
タカシは何気なくスクリーンの方を振り返った。
真っ白なスクリーンの右下、暗闇の境目のあたり。
そこに、紫色の残像が揺れているのが見えた。
フワフワとした毛並みが、小さく手を振っているように見えた。「またな」と言っているように。「いい映画を作れよ」と言っているように。
「ありがとな。見ててくれよ」
タカシは誰にも聞こえない声で呟き、軽く手を振り返した。
あの予告編通りの未来が来るかはわからない。未来は確定していない。
でも、少なくとも今の自分は、自分の人生という映画の主人公として、胸を張って生きている。
退屈な日常? 上等だ。
そこには、まだ誰も知らない名作の種が埋まっているのだから。日常の中にこそ、本当のドラマがあるのだから。作業着の男の背中にも、女子高生の涙にも、物語は宿っている。それを拾い集め、紡いでいくのが自分の役目だ。
タカシは劇場の重い扉を開けた。
新宿の喧騒と、眩しい太陽の光が、彼を出迎えた。
カバンの中には、久しぶりに開いたノートと、新しいペンが入っている。
今日休憩時間になったら、書き始めよう。一行でもいい。
映画館の最後列で見つけた、小さな奇跡の物語を。タイトルはもう決めている。
『退屈なエンドロールと未来の予告編』。
タカシは人混みの中へ歩き出した。その背中は、昨日よりも少しだけ大きく、確かな足取りで未来へと向かっていた。彼のエンドロールは、まだずっと先の話だ。物語は、今始まったばかりなのだから。
(了)
何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。
御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。
前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。
これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。




