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屋台の赤提灯と冬の毛玉(執筆中)

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。

一、午前二時の彷徨


 冬の星座が凍りつくような、芯まで冷える二月の夜だった。

 東京都内某所。巨大な墓標のように聳え立つ高層ビル群の明かりはまばらになり、静まり返ったアスファルトの道路を走るタクシーのテールランプだけが、赤い血の川のように流れている。吐く息は白く濁り、街灯の光に照らされて亡霊のように揺らめいては消えていく。


「……最悪だ」


 高村タカシは、かじかんだ両手をくたびれたウールのコートのポケットに深く突っ込みながら、呪詛のような独り言を漏らした。

 腕時計の針は午前二時を回っている。終電などとうの昔になくなった時刻だ。

 新卒で入社した中堅出版社は、対外的には「クリエイティブな職場」「アットホームな雰囲気」を謳っていたが、その実態は典型的なブラック企業だった。慢性的な人手不足による連日の徹夜、理不尽な感情論で怒鳴り散らす編集長の叱責、作家の気まぐれに振り回される終わりの見えない校正作業。今日も今日とて、印刷所への入稿直前に発覚した致命的なミス――それもタカシのせいではなく、先輩の確認漏れによるものだった――への対応に追われ、気づけば広いオフィスには自分一人だけが取り残されていた。蛍光灯の明滅する音だけが響く無機質な空間からようやく解放された時には、世界は深夜の深い静寂に包まれていた。


 タカシは立ち止まり、財布の中身を確認した。千円札が一枚と、小銭が数百円。クレジットカードはあるが、来月の支払いを考えると軽々しくは使えない。先月買った参考資料代の引き落としが控えているのだ。

 ここから練馬にある自宅のアパートまでタクシーを使えば、深夜料金も加算されて軽く五千円は超えるだろう。かといって、狭い漫画喫茶のブースで始発を待つのも虚しい。あのタバコとカップ麺の混じった独特の匂いが、今の疲弊した精神には耐えられそうになかった。いびきや咳払いを聞きながら数時間を過ごすくらいなら、凍えている方がマシだと思った。

 何より、腹が減っていた。昼にコンビニの梅おにぎりを一個食べたきりだ。胃袋が空っぽすぎて、キリキリと痛む。空腹は思考をネガティブにする。


「帰ろう……歩いて」


 無謀な決断だった。自宅のアパートまでは徒歩で二時間は優にかかるだろう。だが、じっとしているよりはマシだ。体を動かしていれば、少しは気も紛れるかもしれないし、体温も上がるだろう。

 タカシはコートの襟を立て、マフラーに顔を埋めて歩き出した。

 薄っぺらい革靴の底から、アスファルトの冷気が容赦なく這い上がってくる。足の指先の感覚が次第になくなっていくのがわかる。鉄板の上を裸足で歩いているようだ。

 ビル風が吹き抜け、タカシの頬を切り裂くように叩く。耳が痛い。

「なんで俺、こんなことしてるんだろうな……」

 小説家になりたいという夢を抱いて、地方から上京して三年。現実は、誰かの書いた文章の誤字脱字をチェックし、理不尽なクレームの電話を受け、コピー機のご機嫌を伺うだけの毎日だ。自分の言葉なんて、一文字も書いていない。ネタ帳はカバンに入っているが、ここ数ヶ月、ページを開いてすらいない。

 惨めさと寒さと空腹が混ざり合い、涙が滲んでくるのを必死にこらえた。泣いたら涙が凍って余計に寒くなるだけだ。


 三十分ほど無心で歩いただろうか。ふと顔を上げると、見知らぬ路地裏に迷い込んでしまっていたことに気づいた。

 大通りから一本入っただけなのに、そこはまるで別世界だった。昭和の時代で時間が止まったような、古びた飲み屋街。看板の電球は切れかけ、錆びついたシャッターには剥がれかけた演歌歌手のポスターや、色あせた選挙ポスターが貼られている。

 人の気配はない。酔っ払いの声もしない。野良猫一匹通らない静けさだ。ただ風がゴミ袋を揺らす音だけがカサカサと響く。

 引き返そうかと思ったが、方向感覚が麻痺している。スマートフォンの地図アプリを開こうとしたが、寒さでバッテリーが落ちていた。画面は真っ黒だ。自分の将来のように。


「……ん?」


 路地の奥、突き当たりに、ぽつんと明かりが見えた。

 赤提灯だ。風に揺れて、頼りなげに、しかし温かみのあるオレンジ色の光を放っている。闇の中に浮かぶ灯台のようだ。

 近づいてみると、それは一軒の屋台だった。

 ビニールシートで囲われた簡素な造り。隙間から漏れる湯気が、白くたなびいている。

 不思議なことに、その屋台の周りだけ、空気が柔らかく、春のように温かい気がした。結界が張られているかのように、寒風が遮断されている。


「やってるのかな」


 タカシは吸い寄せられるように、ビニールシートの隙間から顔を覗かせた。

「すみません、まだいいですか」

 返事はない。

 狭い店内には、L字型の白木のカウンターと、数脚の丸椅子があるだけ。客は誰もおらず、店主の姿も見当たらない。

 ただ、カウンターの中央にある四角いおでん鍋だけが、コトコトと音を立てて煮えていた。

 飴色に染まった大根、三角のこんにゃく、結び昆布、ちくわ、がんもどき、そして半熟の卵。琥珀色の出汁の中で、具材たちが踊っている。かつお節と醤油の焦げたようないい匂いが、タカシの空腹を直撃した。胃袋が「食わせろ」と叫び声を上げた。


「親父さん、いないのか?」


 トイレにでも行っているのだろうか。それとも買い出しだろうか。あるいは奥で寝ているのか。

 タカシはとりあえず、一番端の丸椅子に腰を下ろした。冷え切った体に、おでんの湯気が心地よい湿気を与えてくれる。眼鏡が曇ったが、拭く気にもなれない。

 カウンターの隅には、一升瓶と徳利、お猪口が置いてある。銘柄は見たことのない漢字で書かれている。『夢幻泡影』とでも読むのだろうか。

「勝手にやっていいのかな……」

 迷ったが、背に腹は代えられない。後で店主が戻ってきたら謝ればいい。泥棒をするつもりはない、代金はちゃんと払う。財布の中の千円札一枚あれば、一杯くらいは飲めるだろう。

 タカシは徳利を手に取った。燗がついているのか、ほんのりと温かい。人肌のような温度だ。


 その時だった。

 入り口に吊るされていた赤提灯が、不自然に激しく揺れた。

 風はないはずなのに。まるで誰かが手で揺すっているかのように、バサバサと音を立てて暴れだした。

 そして、提灯の中の明かりが、まるで生き物のように蠢きだした。

 提灯そのものがボトリと地面に落ち――いや、落ちる前に空中で形を変えた。紙と竹ひごでできた提灯が、物理法則を無視して変形していく。


「うわっ!」


 タカシは驚いて椅子から転げ落ちそうになった。心臓が跳ね上がる。

 目の前に浮かんでいたのは、提灯ではない。

 真っ赤な毛並みをした、バスケットボールほどの大きさの毛玉だった。

 全身が長く赤い毛で覆われており、内側からぼんやりと発光している。目も口も見当たらないが、その毛玉全体から「いらっしゃい」と言わんばかりの親密な空気が漂っていた。


二、無言の店主代理


「な、なんだお前……妖怪か? 化け物か?」


 タカシが身構え、後ずさりすると、その赤い毛玉――赤モジャは、フワフワと重力を無視してカウンターの中へと移動した。その動きは滑らかで、空中を泳ぐ魚のようだ。

 そして、まるでお玉を持つかのように器用に毛の束を伸ばし、おでん鍋の蓋を少しずらした。

 湯気がさらに立ち昇り、赤モジャの体を包む。その光景は、どこか神々しくすらあった。湯気の中で赤く発光するその姿は、小さな太陽のようにも見えた。

 赤モジャは、タカシに向かって徳利をクイッと傾ける仕草をした。

 『飲みなよ』と言っているようだ。


「……店主の、ペットか?」


 そんなわけはない。どう見てもこの世の生物ではない。UMAか、あるいは都市伝説の類か。疲れすぎて幻覚を見ているのかもしれない。

 だが、不思議と恐怖心は薄かった。あまりにも寒く、ひもじく、そして孤独だったタカシにとって、この温かい光を放つ存在は、救いのように思えたのだ。

 それに、よく見るとその毛並みは、使い古された赤提灯の和紙のように、どこか懐かしく、手触りの良さそうな質感をしていた。危険な獣の気配は微塵もしない。むしろ、子犬のような人懐っこさを感じる。


「じゃあ……いただくよ。乾杯」


 タカシは震える手でお猪口に酒を注ぎ、一気に煽った。

 カァッ、と喉が焼ける。

 安い酒だ。雑味がある。アルコール度数も高そうだ。だが、五臓六腑に染み渡る熱さは、何物にも代えがたい。凍りついていた内臓が、音を立てて解凍されていくようだ。血流が再開し、体の芯から熱が生まれる。

「くぅ……生き返る」

 思わず声が出た。

 すると、赤モジャは嬉しそうにプルプルと体を震わせた。その振動に合わせて、店内の空気がほんの少し温度を上げた気がした。まるでエアコンの設定温度を上げたかのように、ふわりと温かい風が吹いた。


「お前、留守番か? 親父さんはどこ行ったんだよ」


 赤モジャは答えない。ただ、カウンターの上を滑るように移動し、カウンターの下からタカシの足元へと潜り込んだ。

 そして、タカシの冷え切った革靴の上に乗っかり、足首を自分の長い毛で包み込んだ。

「うわ、あったけぇ……」

 まるで湯たんぽだ。いや、それ以上の、生き物の体温に近い、脈打つような温もりが、凍りついた末端の血管を解凍していく。ジンジンと血が巡り始める感覚。痺れていた足の指に感覚が戻ってくる。


 タカシは二杯目を注いだ。今度はゆっくりと味わう。口の中に広がる米の旨味。

 酔いが回るにつれて、抑え込んでいた感情が堤防を決壊させたように溢れ出した。アルコールのせいか、この不思議な空間のせいか、それとも誰かに聞いてほしかったのか。


「なあ、聞いてくれよ。俺、なんでこんなことしてるんだろ」


 相手は毛玉だ。言葉なんて通じないかもしれない。でも、誰かに言わずにはいられなかった。

「毎日毎日、怒鳴られて、謝って。自分のミスじゃないのに頭を下げて。……書きたかった小説なんて一行も書けてないんだ。ネタ帳は真っ白なままだ。夢を追って東京に来たはずなのに、ただ消費されていくだけだ」

 タカシは愚痴をこぼし続けた。上司の理不尽な要求、同期の出世、実家からの「いつ帰ってくるんだ」というプレッシャー、自分の才能のなさ。

 惨めで、情けなくて、涙が滲んでくる。鼻水も出てくる。


 赤モジャは、タカシの足元でじっとしていた。

 だが、タカシがネガティブな言葉を吐くたびに、その赤い光が強弱をつけて明滅した。

 強く光ったり、弱く瞬いたり。それはまるで、真剣に耳を傾け、「うんうん」「そうか」「大変だったな」と相槌を打っているようだった。

 そして、タカシの涙がこぼれ落ちた瞬間、赤モジャの光が一層強くなり、タカシの心の中に、不思議なイメージが流れ込んできた。


三、屋台の記憶


 最初は、幻覚かと思った。空腹と疲労と酒が回ったせいで、脳が見せている白昼夢だと。

 だが、その映像はあまりに鮮明で、匂いと体温と、感情を伴っていた。自分の記憶ではない、誰かの記憶。


――雪の降る夜。

 この屋台のカウンターで、一人の初老の男が泣いている。

 くたびれたスーツ。肩には雪が積もっている。リストラされたのだろうか。

 『もう駄目だ。三十年勤めたのに。家族に合わせる顔がない。俺の人生は何だったんだ』

 男はうなだれ、コップ酒を握りしめている。その背中はあまりに小さく見える。

 そこに、屋台の親父らしき手が、熱々の大根を差し出す。

 『食いな。腹が満ちれば、考えも変わる。人間、空腹だとろくなことを考えねえもんだ。死ぬのは、腹一杯になってからでも遅くねえ』

 男はハフハフと大根を頬張る。出汁の味が、涙と混ざる。温かい食べ物が、男の凍った心を溶かしていく。

 隣に座っていた別の客――派手な格好をしたお姉さんが、自分のビールを男に注ぐ。

 『おじさん、真面目そうな顔してるじゃない。真面目なら、またどっかで拾ってもらえるわよ。世の中捨てたもんじゃないわ。私だって、何度もどん底見たけど、生きてるしね』

 男は顔を上げ、少しだけ笑う。

 その時、入り口の赤提灯が揺れ、温かい光が男の冷えた背中を押す。


 場面が変わる。

――春の嵐の夜。

 若いカップルが座っている。大喧嘩の最中だ。外は激しい雨風。

 『もう別れる! あんたのそういう無神経な所が嫌いなのよ!』

 『うるせえな、俺だって我慢してんだよ! お前の束縛がきついんだよ!』

 二人は背中を向けて座っている。

 だが、狭い屋台だ。二人の肩は触れ合っている。体温が伝わっている。本当は離れたくないのだ。

 おでんの湯気が、二人の間の冷たい空気を溶かしていく。

 『……卵、半分こする?』

 女がボソッと言う。男は無言で頷く。

 一つの卵を箸で割る。黄身がとろりと溶け出す。

 それを食べた瞬間、二人の怒りは空腹と共に消えていく。美味しいものを共有するという行為が、言葉以上の仲直りになる。

 『ごめん』

 『俺も』

 二人の足元で、赤い光が優しく揺れている。二人の未来を祝福するように。


――夏の蒸し暑い夜。

 汗だくの学生たちが、夢を語り合っている。

 『俺は絶対、ビッグになるんだ! 世界を変える発明をするんだ!』

 『バカ言え、お前なんか三日で逃げ出すよ。単位も危ないくせに』

 根拠のない自信と、若さゆえの不安。未来への希望と絶望。

 屋台は彼らの青臭い言葉をすべて吸い込み、夜空へと逃がしていく。彼らの熱気が、屋台の温度を上げている。彼らはまだ知らない。これから訪れる挫折も、成功も。でも、この夜の熱気だけは、一生忘れないだろう。


 タカシはハッと息を呑んだ。

 これは、この屋台に染み付いた記憶だ。場所の記憶だ。

 何十年もの間、数えきれないほどの人間がこの椅子に座り、酒を飲み、愚痴をこぼし、泣き、笑い、そして少しだけ軽くなって帰っていった。

 この赤モジャは、その全ての夜を見てきたのだ。

 提灯の明かりとなって、行き場のない魂たちを照らし、温め続けてきたのだ。ただの妖怪ではない。この場所の守り神のような存在なのかもしれない。都会の片隅で、誰にも気づかれずに人々を癒やしてきた、小さくも偉大な神様。


「俺だけじゃ……ないんだな」


 タカシの目から、ポロリと涙が落ちた。今度は温かい涙だった。

 辛いのは自分だけじゃない。

 どんな時代にも、どんな夜にも、誰かがここで躓いて、でもまた立ち上がって歩き出していた。

 自分もまた、その長い長い列の最後尾に並んでいる一人に過ぎない。

 そう思うと、孤独感が薄れ、代わりに奇妙な連帯感が胸に広がった。見知らぬ先人たちからのエールを受け取った気がした。「大丈夫だ、お前も行ける」と。


「お前、いい仕事してるな」


 タカシが足元の赤モジャに話しかけると、赤モジャは「キュウ」と鳴いて、タカシの脛に頭を擦り付けた。

 その温かさは、過去の客たちが残していった「希望」の温度そのものだった。


 タカシは、鍋の中の大根を見つめた。

 一番底で、飴色になるまで煮込まれた大円盤。出汁を限界まで吸い込み、重たげに沈んでいる。

 箸で持ち上げようとすると、ほろりと崩れるほど柔らかい。

 口に入れる。

 熱い。美味い。

 出汁の旨味が、細胞の一つ一つに染み渡っていく。

 それは言葉のない応援歌だった。

 『食え。飲め。そして寝ろ。そうすれば明日は来る』

 そんなシンプルな真理を、大根は教えてくれた。複雑に考えすぎていた頭が、シンプルに解きほぐされていく。生きることは、食べることだ。


四、夜明けの鈴音


 気がつくと、屋台の外の空気が変わり始めていた。

 漆黒だった闇が、群青色へと薄まりつつある。カラスの鳴き声が遠くから聞こえる。新聞配達のバイクの音がする。

 夜明けが近い。

 始発の時間が迫っていた。現実の世界に戻らなければならない時間が。


「そろそろ、行かなきゃな」


 タカシは名残惜しさを感じながら、最後の一口を飲み干した。

 財布の中の千円札をカウンターに置く。お釣りはいらない。この温かさと体験への対価としては安すぎるくらいだ。むしろ、もっと払いたいくらいだったが、生憎持ち合わせがない。


 タカシが立ち上がろうとすると、赤モジャが足元から離れ、フワリと目の高さまで浮き上がった。

 そして、タカシの胸のあたりに向かって、ゆっくりと突進してきた。

 ぶつかる、と思った瞬間、赤モジャは光の粒子となってタカシの体の中に吸い込まれた。


 ドクン。


 心臓の奥底、あるいは丹田のあたりに、重たくて温かいものが落ちた感覚がした。

 それは、さっき食べた大根のような、あるいは小さな太陽の欠片のようなイメージだった。体の内側に、消えない火が灯ったような感覚。

 もう寒くはない。体の芯に熱源があるからだ。


「……なんとかなる」


 根拠はない。明日会社に行けば、また同じ地獄が待っているかもしれない。上司は怒鳴り、仕事は終わらないかもしれない。

 小説が書ける保証もない。

 でも、今のタカシには確信があった。

 自分は今日、生き延びた。そして、この温かい記憶を持っている。

 それだけで十分じゃないか。自分の中に、あの赤モジャがいる限り、凍えることはない。いつでもあの温かい場所に戻れるのだ。


「ありがとう」


 タカシが呟くと、体の奥底から、あるいは頭上の空から、澄んだ音が響いた。


 シャン、シャン、シャン……。


 それは神社の鈴のような、あるいは夜明けを告げる一番鶏のような、清浄な音色だった。

 その音と共に、屋台の風景がぐにゃりと歪んだ。

 ビニールシートが朝霧になり、おでんの匂いが風に溶け、赤提灯の光が朝日に変わっていく。世界が塗り替えられていく。


五、缶コーヒーのぬくもり


「……ん?」


 タカシは目を覚ました。

 背中が痛い。固い感触。おでんの匂いはしない。

 目を開けると、そこは路地裏の屋台ではなかった。

 大通り沿いにある、自動販売機の横の木製ベンチに座っていた。

 空はすっかり明るくなり、朝の光がビル群を照らしている。

 通勤する人々が、足早に目の前を通り過ぎていく。誰もがスマホを見たり、イヤホンをして自分の世界に入っている。昨夜の自分と同じように、皆、何かと戦っているのだろうか。


「夢……だったのか?」


 タカシは呆然とあたりを見回した。

 あの路地裏も、赤提灯も、どこにもない。

 ただの夢遊病者のように、ここまで歩いてきて疲れて眠り込んでしまったのだろうか。


 だが、違和感があった。

 こんな二月の寒空の下で一時間も寝ていたら、凍死していてもおかしくない。なのに、体が芯から温かいのだ。

 まるで、温泉に浸かった直後のように、指先まで血が巡っている。ポカポカとしている。

 そして、右手には温かい缶コーヒーが握られていた。

 「微糖」。

 自分で買った記憶はない。小銭を使った覚えもない。

 プルタブは開いていないが、カイロのように熱を持っている。


 タカシは缶コーヒーを開け、一口飲んだ。

 甘ったるい缶コーヒーの味。人工的な甘さ。

 だが、その後味に、ほんの微かに、かつお出汁と醤油の香りが混じっている気がした。鼻の奥に、あのおでんの匂いが残っている。


「ふっ……」


 タカシは思わず笑ってしまった。

 夢じゃない。あそこには確かにあったのだ。

 行き場のない夜を彷徨う者だけが辿り着ける、幻の屋台が。

 そしてあの赤い毛玉――赤モジャが、自分にこの温もりと、小さな勇気をくれたのだ。千円札の代わりに、この温かさをくれたのだ。


 タカシはベンチから立ち上がった。

 背筋を伸ばし、大きく伸びをする。

 関節がポキポキと鳴る。体の中に力が戻ってきているのがわかる。

 視界がいつもよりクリアに見えた。

 ビルの隙間から昇る朝日が、街を黄金色に染めていく。

 それは、あの屋台のおでん出汁と同じ色をしていた。世界は、案外美味しい色をしているのかもしれない。


「よし、行くか」


 タカシは空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨て、駅へと歩き出した。

 カバンの中には、ずっと白紙のままだったネタ帳が入っている。

 今日は帰ったら、少しだけでも書こう。

 あの屋台の話を。赤提灯と、冬の毛玉の話を。

 タイトルはもう決まっている。


『屋台の赤提灯と冬の毛玉』。


 人混みの中に紛れていくタカシの背中からは、もはや昨夜の悲壮感は消えていた。

 その足取りは、見えない誰かと並んで歩いているかのように、力強く、軽やかだった。

 ポケットの中で、見えない赤モジャが「頑張れ」と言ってくれている気がした。


 どこか遠くで、シャン、と鈴の音が聞こえた気がした。

 それは新しい朝の始まりを告げる音だった。


(了)

何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。

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