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祖父の隠し酒と鍵守り(執筆中)

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。

一、封印された祭壇


 梅雨の湿気が、まるで生き物のように肌にまとわりつく六月の午後だった。

 古都・鎌倉。その中でも観光客の喧騒が届かない、奥まった谷戸やとと呼ばれる谷あいの地形に、その古い日本家屋はひっそりと佇んでいる。苔むした石段を登りきった先に現れる重厚な門構えは、かつてここが文学者や編集者たちが集うサロンのような場所であったことを無言のうちに物語っていた。

 開け放たれた縁側からは、雨に濡れた紫陽花の鮮やかな青と、湿った土、そして古木が水を吸った独特の芳香が漂ってくる。普段ならば風情があると感じられるその湿り気も、今の高村タカシにとっては、自身の憂鬱を増幅させ、思考を鈍らせる舞台装置のようにしか思えなかった。


「……終わらないな。これは、あと一週間あっても終わらないかもしれない」


 タカシは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、途方に暮れた溜息を吐いた。

 十畳ある和室の畳の上には、時代がかった古書の山が幾つも築かれている。ほどかれた風呂敷からは黄ばんだ原稿用紙が溢れ、中身をぶちまけられた桐箪笥の引き出しからは、万年筆や眼鏡といった愛用品が散乱していた。

 先週、九十二歳で大往生を遂げた祖父・高村 厳一郎げんいちろうの遺品整理である。

 厳一郎は、戦後の混乱期から出版社を立ち上げ、昭和の文壇を牽引し、数多くの名作を世に送り出した伝説的な編集者だった。「稀代の目利き」「鬼の厳一郎」などと称された彼の蔵書の数は、優に図書館の分室ほどの規模があった。

 床が抜けないように鉄骨で補強工事がされた書庫には、明治・大正期の稀覯本から現代作家の初版本、さらには海外のペーパーバックまでが、作家別、ジャンル別に整然と、しかし圧倒的な質量を持って所狭しと並んでいた。しかも、祖父の几帳面すぎる性格――それは編集者としては美徳であったが、遺族にとっては災難でしかなかった――ゆえに、作家との私的な書簡や、構想を記した何気ないメモ一枚、果ては飲み屋のコースターの裏に書かれた走り書きに至るまで丁寧にファイリングされ、保管されていた。それらを「永久保存」「大学への寄贈」「廃棄」に仕分ける作業は、気の遠くなるような時間と、文学的知識を要した。


 タカシにとって、祖父は「恐怖」の象徴だった。

 幼い頃の記憶にある祖父は、常に背筋を定規が入っているかのようにピンと伸ばし、大島紬の着物を粋に着こなし、全ての嘘を見透かすような厳しい眼光で人を射抜く男だった。口を開けば叱責か、あるいは文学論議という名の説教。孫であるタカシに対しても、決して「おじいちゃん」としての甘い顔を見せることはなかった。

「タカシ、背中が丸いぞ。男が自信なさげにするな。姿勢は生き方を表す」

「箸の持ち方がなっていない。美しい所作は美しい精神に通じるのだ」

「そんな軽薄な文章で、人の心を動かせると思っているのか。言葉を舐めるな。言葉は刃物だ、扱いを間違えれば自分を殺すぞ」

 大学で文学を志し、震える手で書き上げた処女作の原稿を、勇気を振り絞って見せた時のことも鮮明に覚えている。祖父は読み終えると、原稿を机に放り投げ、鼻で笑ったのだ。

『お前の文章には、骨がない。ただの飾りだ。上辺だけの綺麗事で、誰の魂が震えるというんだ。インクの無駄だ』

 その言葉は呪いのようにタカシの心に焼き付き、以来、タカシは祖父を避けるようになっていた。なんとか作家としてデビューした後も、祖父に新作を送ることはなかった。どうせ否定される。お前には才能がないと言われる。そう思い込んでいたからだ。


「骨がない、か……。結局、俺は死ぬまでじいちゃんに認められなかったな」

 タカシは独りごちて、再び重いため息をついた。

 整理の手を休め、廊下の突き当たりにある書斎へと向かう。ここが最後の砦だ。祖父が誰にも触らせなかった聖域。書斎の最も奥まった場所にあり、常に施錠されていた観音開きの重厚な扉がある。

 ジャラリ、と手元の鍵束を鳴らす。

 祖父の腰巾着から見つかった、真鍮製の古びた鍵。どれが合うのか試行錯誤し、三本目でようやく鍵穴に吸い込まれるように入った。

 カチャリ、と重い音がしてロックが外れる。長年閉ざされていた蝶番が、悲鳴のような軋み声を上げて扉が開く。

 タカシは、溢れ出るであろう黴の臭いや埃を覚悟して身構えた。


 しかし、中には予想に反して本は一冊もなかった。

 あるのは、壁一面を埋め尽くす大量のスクラップブックと、中央の棚に鎮座する不思議な物体だけだった。


 それは、バカラだろうか、美しい幾何学的なカットが施された最高級のクリスタルデキャンタだった。

 中には濃い琥珀色の液体がなみなみと満たされており、薄暗い棚の中で、窓からの微かな光を吸って妖艶な輝きを放っている。

 だが、異様なのはその佇まいだ。

 デキャンタの首には、神社のご神木で見かけるような注連縄しめなわが丁寧に巻かれ、白い紙垂しでが二つ、厳かに垂れ下がっている。そしてボトルの下には、白木の三方さんぼう――神様への供物を乗せる台――が敷かれていた。

 さらにその手前には、白磁の小さな杯と、円錐形に盛られた清めの塩まで置かれている。


 まるで、洋酒を御神体として祀る、小さな祭壇のようだった。

 三方の脇には、和紙の短冊が添えられている。祖父の、あの威圧的で流麗な達筆で、こう書かれていた。


『弱虫な夜のための、御神酒おみき


 厳格で、剛毅で、鬼と呼ばれた祖父には似つかわしくない「弱虫」という言葉。そして、洋酒と神道という、あまりにもちぐはぐで奇妙な取り合わせ。

 タカシは強烈に興味を惹かれた。これは何だ? 祖父の隠し趣味か? それとも、何かの願掛けか?

 タカシはそのデキャンタへと手を伸ばした。

 ずっしりと重い。クリスタルガラスの冷たさが掌に伝わる。封を切ると、芳醇な香りが一気に部屋いっぱいに広がった。

 それは最高級のコニャック(ブランデー)の香りだ。葡萄の凝縮された甘みと、樽の木の香り。だが、その奥底にどこか、清酒のような凛とした米の甘い匂い、あるいは神社の境内に漂うような清浄な空気が混じっているように感じた。


「……なんだ、これ。ただの酒じゃないのか?」


 ふと、部屋の空気が変わった気がした。

 梅雨特有の、肌にまとわりついていた不快な湿気が一瞬で消え、ひんやりとした、しかし澄んだ静寂が降りてくる。まるで、深い森の中に迷い込んだような感覚。

 書斎の隅、本棚と壁の隙間の一番影の濃い場所から、何かが這い出てきた。

 最初は影の塊かと思った。古家の闇が生み出した幻影かと。だが、それは質量を持ち、息遣いを持ち、床板を踏む微かな音を立てていた。


 それは、大きな犬のようでもあり、冬眠前の熊のようでもあった。

 全身が灰色にくすんだ長い毛で覆われている。毛並みはボサボサで、所々が抜け落ちてピンク色の皮膚が見えており、年老いた獣特有の哀愁と疲労感が漂っていた。

 目元は長い毛に埋もれて表情は読めないが、鼻先だけが白くなっているのがわかる。


「うわっ!」

 タカシは驚いて腰を抜かしそうになり、後ずさって背中を書棚にぶつけた。野犬か? いや、どこから入った? 戸締まりは完璧なはずだ。それに、この異様な気配は何だ?

 だが、その獣――モンスターは、タカシを襲うそぶりを全く見せなかった。牙を剥くことも、唸ることもない。

 むしろ、タカシが手に持っている「御神酒」を見て、安堵したように「クゥ……」と、子犬のような弱々しい声を漏らした。

 そして、ゆっくりと足を引きずりながら、ためらうことなくタカシに近づいてくると、彼の膝にゴロリと重たい頭を乗せたのだ。

 その重みと体温。生きている。獣臭さはなく、古い書物と線香が混ざったような、懐かしい匂いがした。


「……久しぶりだな、って言ってるのか?」


 その仕草には、敵意など微塵もなかった。

 まるで、長い間待ちわびていた主人の帰還を喜ぶ、忠実な老犬のように。あるいは、神社の境内で雨の日も風の日も参拝客を見守り続けてきた狛犬が、ようやく休息を得たかのように。

 タカシの恐怖心は、不思議と霧散していた。

 その老いたモンスターの毛並みに、恐る恐る触れてみる。

 指先から、温かい記憶が流れ込んでくるような気がした。遠い昔、どこかで感じたことのある、絶対的な安心感。懐かしく、そして胸が締め付けられるほど切ない記憶の断片が、タカシの脳裏をかすめた。


二、琥珀色の直会なおらい


「お前……じいちゃんの知り合いか? ずっとここにいたのか?」


 タカシが尋ねると、モンスターはゆっくりと、重たげに瞬きをした(ように見えた)。

 その瞳は白濁しており、おそらく視力はほとんど残っていないのだろう。それでも、鼻をひくつかせてタカシの匂いを嗅ぎ、安心しきっているのがわかる。ボサボサの尻尾が、パタン、パタンと畳を叩く音が、静かな部屋に響く。

 タカシは、手に持っていたデキャンタを傾けた。

 グラスはない。そのまま直に口をつけるのは躊躇われたが、これは「御神酒」だ。神と人が共に食する儀式なのだと思えば、行儀作法など関係ないのかもしれない。何より、この不思議な状況が、タカシにそうさせた。


 一口、あおってみる。

 カッ、と喉が焼けるような熱さ。食道が熱を持ち、胃の中で小さな太陽が爆発するような感覚。

 その味は衝撃的だった。

 舌の上で転がすと、極上のブランデーの芳醇な葡萄の香りと、数十年熟成された古酒のような深み、そして飲み込んだ後に残る清酒の浄化されるような清涼感が複雑に混ざり合っている。おそらく、祖父が独自にブレンドし、長い年月をかけて祈りを込めたものなのだろう。

 西洋の「勇気」と、東洋の「祈り」を混ぜ合わせた、奇妙で、涙が出るほど優しいカクテル。


 次の瞬間、タカシの視界がぐにゃりと歪んだ。

 書斎の風景が水飴のように溶け出し、色彩を失い、セピア色の映像となって再生され始めた。これは、この酒に溶け込んだ記憶なのか。


――狭い木造アパートの一室。裸電球が揺れている。

 若き日の祖父・厳一郎が、ボロ切れのような服を着て、小さなちゃぶ台に向かっている。

 背中が丸い。今のタカシよりもずっと線が細く、頼りない背中だ。着ている半纏は擦り切れ、部屋の隅には冷えた七輪が転がっている。窓の外は闇だ。

 机の上には、ゲラ刷りの山と、インクの染みた原稿用紙。そして、赤ペンで無数に修正され、真っ赤に血を流しているかのような企画書の残骸。

 『こんな本、売れるわけがない』

 『君には編集の才能がないよ。田舎に帰って百姓でもしたらどうだ』

 『戦争が終わって、人々は娯楽を求めているんだ。こんな小難しい文学など誰も読まない。紙の無駄だ』

 編集長や作家たち、そして世間からの罵倒が、幻聴のように幾重にも重なって響いている。

 厳一郎は頭を抱え、震えている。

「怖い……。失敗したら、借金はどうする。妻と生まれたばかりの赤ん坊をどうやって養えばいいんだ。俺には、何もない……」


 そこに、小さな影が現れる。

 まだ若々しく、艶やかな銀色の毛並みをした、あのモンスターだ。瞳は金色に輝き、生命力に満ちている。

 厳一郎は、三方に乗せた安物のコップ酒を、モンスターの前に震える手で差し出す。

「神様、どうか……この弱虫な俺の供物を受け取ってください」

 厳一郎は二礼二拍手一礼をする。その所作だけは、美しく整っている。

「聞いてくれ……俺は弱い男だ。本当は逃げ出したいんだ。自信なんて欠片もない。でも、この作家の才能を埋もれさせたくないんだ。この言葉は、いつか必ず誰かを救う。それだけは信じられるんだ」

 モンスターは何も言わず、厳一郎の目から溢れる涙を、口から吐き出される弱音を、心に巣食う恐怖を、掃除機のように吸い込んでいく。

 そして、差し出された酒を舐める。


 場面が変わる。

 今度は、都心のビルの立派な応接室だ。革張りのソファ、マホガニーのデスク、窓の外には復興を遂げた東京の街並み。

 中年になった厳一郎。出版社は成功し、彼は「鬼の編集長」と呼ばれている。

 部下を叱責し、大作家と激論を交わす。隙のない、完璧な男。

 「妥協するな! 魂を削って書け! 読者に媚びるな!」

 その怒号は、社内を震え上がらせていた。誰もが彼を恐れ、同時に敬っていた。

 だが、夜、自宅の書斎に一人戻ると、彼は仮面を外したかのように崩れ落ちるように椅子に座る。

 デキャンタに注連縄を巻き、恭しくモンスターに捧げる。

「また怒鳴ってしまった……。あいつの原稿は素晴らしかったのに、素直に褒めてやれなかった。もっと優しく導いてやればよかった。俺はなんて器の小さい、不器用な男なんだ」

 厳一郎はブランデーをあおり、モンスターに語りかける。

「これはみそぎだ。俺の傲慢さという穢れ(けがれ)を祓ってくれ。……なあ、お前だけだ。俺の本当の姿を知っているのは。俺が毎晩、恐怖で震えているのを知っているのは」

 モンスターは、厳一郎の自己嫌悪や後悔を、静かに食べていく。

 厳一郎が虚勢を張り続けられたのは、この「弱音のゴミ箱」という名の神がいたからだったのだ。彼の強さは、弱さを吐き出せる場所があったからこそ保たれていた。


 そして、最後の映像。

 晩年の厳一郎。

 病床に伏している。痩せ細り、呼吸器をつけている。死期が近いことを悟った静けさが漂う。

 枕元には、タカシの書いたデビュー作の小説が置いてある。付箋だらけで、ボロボロになるまで読み込まれている。

「……タカシの文章は、優しいな」

 厳一郎は、枯れ木のような手で本の表紙を愛おしそうに撫でる。

「あいつは、俺と違って、弱さを知っている。人の痛みがわかる文章だ。骨がないんじゃない。しなやかなんだ。折れない柳のような強さがある。……でも、だからこそ心配だ。この過酷な世界で、あいつの優しさが食い物にされないか。俺のように、虚勢を張って心を壊さないか。潰されてしまわないか」

 傍らには、すっかり年老いて、毛並みがくすんだモンスターが座っている。

「なあ、頼むよ。俺がいなくなったら、あいつを守ってやってくれ。俺の代わりに、あいつの弱音を聞いてやってくれ。……あいつは、俺の自慢の孫なんだ」

 厳一郎の目から、一筋の涙がこぼれる。

 モンスターはその涙を舐め取り、悲しげに「クゥ」と鳴いた。


 ハッと我に返ると、タカシは泣いていた。

 涙が止まらなかった。嗚咽が漏れた。膝の上のモンスターの毛並みを、自身の涙で濡らしていた。

「じいちゃん……そんなこと、思ってたのかよ……」


 厳しかった言葉の裏側にあった、不器用すぎる愛情。

 「骨がない」と言ったのは、否定したかったからではない。タカシの繊細さを守るために、あえて厳しく接して、精神的な支柱を作ろうとしていただけだったのだ。世間の荒波に負けないように、あえて壁となっていたのだ。

 そして、自分自身の弱さと向き合い、それを「神事」として昇華させることで必死に戦っていた一人の男の姿。完璧に見えた祖父もまた、震える夜を過ごしていたのだ。


 タカシは、膝の上のモンスターを見た。

 こいつは、祖父の「弱さ」という供物を受け取り、何十年もの間、浄化してくれていた守り神だったのだ。

「お前が……食べてくれてたんだな。じいちゃんの苦しみを」


 ふと、幼い頃の記憶が蘇る。

 高熱を出して寝込んでいた夜。両親が仕事で不在だった夜。

 枕元に、誰かが座っていた気配。

 大きな手が、汗ばんだ額を撫でてくれた感触。ゴツゴツとした、祖父の手。

 そして、耳元で聞こえた、シャンシャンという神楽鈴のような音。

 あれは夢じゃなかった。

 祖父が、この神様を連れて「お祓い」に来てくれていたのだ。孫の苦しみを取り除くために。


三、継承の儀式


「ありがとうな。じいちゃんを支えてくれて」


 タカシは、モンスターの頭を撫でた。

 ゴワゴワとした毛の感触。温かい。だが、その温もりはどこか儚かった。

 モンスターの体は、先ほどよりもさらに薄く、透け始めているように見えた。

 輪郭がぼやけ、向こう側の畳の目が見える。まるで、夕暮れの陽炎のように、今にも空気の中に溶けてしまいそうだ。


「えっ……待ってくれ。消えるのか?」


 モンスターは、力なくタカシを見上げた。

 その瞳には、「主」を失ったことへの受容と、役割を終えた安堵が浮かんでいた。

 祖父・厳一郎の死と共に、この守り神もまた、消滅する運命にあるのだろうか。

 祖父の弱音を食べ尽くし、その生涯を支えきった今、この世に留まる理由はないのかもしれない。あるいは、祖父と共に彼岸へ渡ろうとしているのかもしれない。


「嫌だ……行くなよ」


 タカシは咄嗟にモンスターの首(らしき部分)に抱きついた。

 その体は頼りなく、煙のようだった。掴んでも、指の間からすり抜けていきそうだ。

「じいちゃんの代わりに、俺がなるよ! 俺が新しい主になる!」


 自分はまだ未熟だ。

 作家として大成できるかもわからない。二作目が書けずに苦しんでいる。編集者からの電話に出るのが怖い。ネットの評判を見るのが怖い。

 祖父のように強くもないし、立派でもない。

 でも、弱さを知っている。痛みを知っている。祖父が認めてくれた「しなやかさ」が自分にあるなら。

 だからこそ、こいつが必要なのだ。


「俺だって、怖い夜はあるんだ。書けない夜も、逃げ出したい朝も山ほどある。……だから、俺の供物を受け取ってくれよ! 俺にはお前が必要なんだ!」


 タカシは、デキャンタに残っていた「御神酒」を口に含んだ。

 琥珀色の液体が口内を満たす。

 そして、そのままモンスターの口元(らしき部分)に顔を寄せ、口移しで流し込んだ。

 神と人が同じものを口にする「直会なおらい」。

 魂の境界線を溶かし、契約を結ぶための古来からの儀式。


「頼む……俺の弱音も、食ってくれ!」


 瞬間、カッ! と強い光が書斎を満たした。

 タカシは思わず目を閉じる。

 光の中で、不思議な感覚に包まれた。

 全身の細胞が沸き立ち、古い皮が剥がれ落ちていくような感覚。血管の中を熱い何かが駆け巡る。祖父の血が、自分の中で騒いでいるのがわかる。

 そして、シャン、シャン、シャン……と、あの鈴の音が幾重にも重なって響き渡った。それは、天岩戸が開く音のようにも聞こえた。


 目を開けると、そこには驚くべき光景があった。

 膝の上にいた、年老いてくすんでいたモンスターが、変化していたのだ。

 灰色だった毛並みは艶を取り戻し、月光を浴びたような若々しい銀色に輝いている。筋肉は張りを取り戻し、一回り大きくなっている。

 白濁していた瞳は、深い知性を湛えた金色に澄み渡り、タカシをまっすぐに見つめ返していた。そこには、新しい主人への忠誠と、慈愛が宿っていた。


「お前……若返ったのか?」


 モンスターは、力強く立ち上がり、タカシの胸に頭を擦り付けた。

 その衝撃は、さっきまでの弱々しさとは段違いだった。ドスンと重みを感じる。

 温かいエネルギーが、タカシの心臓へと流れ込んでくる。

 それは「契約」の成立を告げていた。

 祖父・厳一郎から、孫・タカシへ。

 守り神の役割は引き継がれたのだ。

 祖父の思いが、祈りが、この神を通してタカシへと受け継がれた瞬間だった。


 モンスターは、「ウォン!」と一声、吠えた。

 それは、新しい物語の始まりを告げる合図のようだった。


四、弱虫な夜の処方箋


 数日後。遺品整理はすべて完了した。

 厳一郎の膨大な蔵書は、生前の意志通り大学の図書館に寄贈されることになった。「厳一郎文庫」として保存され、多くの学生たちの糧となるだろう。

 この谷戸の屋敷も売却される予定だが、タカシはこの書斎にあるデキャンタと、数冊のスクラップブックだけを形見として持ち帰ることにした。

 スクラップブックには、祖父が編集した本への書評や、若き日の苦闘の記録、そしてタカシの作品に関する記事の切り抜きも丁寧に貼られていた。それは、どんな教科書よりもタカシにとって価値のある、勇気の書だった。


「じゃあな、じいちゃん」


 タカシは、空っぽになった書斎に、二礼二拍手一礼をした。

 その拍手の音は、以前よりも乾いた、良い音がした。

 もう、ここにはあの恐ろしい祖父の気配はない。

 あるのは、家族を愛し、仕事に命を懸け、そして自身の弱さと戦い抜いた、尊敬すべき先人の残香だけだ。


 荷物を抱えて玄関を出る。

 梅雨の晴れ間から、強い日差しが降り注いでいた。紫陽花についた雨粒が、宝石のように輝き、蒸発していく。

 タカシの足元には、誰にも見えないが、銀色の毛並みをした頼もしい相棒が並んで歩いている。その歩調は、タカシとぴったり合っていた。


「さて、帰ったら原稿の続きだ。……今度の新作、じいちゃんが読んだらなんて言うかな」

 『まだまだ甘い。書き直せ』と鼻で笑うかもしれない。

 あるいは、少しだけ口角を上げて『少しは骨が出てきたな』とニヤリとするかもしれない。

 どちらにせよ、もう怖くはない。どんな言葉も、愛だと知っているから。


 タカシは、カバンの中のデキャンタに触れた。

 『弱虫な夜のための、御神酒』。

 この先、作家として生きていく中で、眠れない夜は何度でも訪れるだろう。

 自分の才能を疑い、世間の評価に怯え、筆を折りたくなる瞬間もあるはずだ。創作とは、自分自身の内面を削り取る作業なのだから。

 だが、もう大丈夫だ。

 自分には、世界で一番聞き上手な神様がいる。

 そして、祖父から受け継いだ「弱さを知る強さ」がある。

 弱さを否定するのではなく、受け入れ、供物として捧げることで、また明日への活力に変えていく。それが、祖父が教えてくれた生き方だった。弱さは恥ではない。祈りの始まりなのだ。


 駅へと続く坂道を下りながら、タカシはふと思った。

 この不思議な体験を、物語にしてみようか。

 頑固な編集者の祖父と、その孫の物語。そして、彼らを見守る不思議な神様の物語。

 タイトルは……そうだな。

 『祖父の隠し酒と鍵守り』なんてどうだろう。


「な、いいだろ?」

 タカシが相棒に話しかけると、

 誰もいないはずの虚空から、シャン、と涼やかな鈴の音が響いた。

 それは、タカシの背中を風のように押し、心をふわりと軽くしてくれた。


 坂の下から吹き上げてくる潮風には、もう湿気は混じっていなかった。

 鎌倉の海が、夏の色を帯びてキラキラと輝いている。

 新しい夏が、そしてタカシの新しい作家人生が、始まろうとしていた。


(了)

何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。

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