表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/19

午前二時のルームサービス。注文はホット・トディ、添えられたのは私の過去と未来でした

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。

結婚前夜、逃げ出したくなった私の前に現れたのは、かつて迷子の私を救った「白いあの子」だった。


一、純白の檻


 都心の夜景を一望できるラグジュアリーホテル。その最上階に位置するエグゼクティブ・スイートは、静寂と豪奢が支配する空間だった。

 分厚い絨毯は足音を吸い込み、磨き上げられた大理石のテーブルには、ウェルカムフルーツのバスケットが芸術品のように鎮座している。窓の外には、宝石箱をひっくり返したような光の洪水が広がっていた。東京タワーの赤い輝きが、夜の帳を切り裂くように聳え立ち、首都高速を流れる車のテールランプは、終わりのない光の河となって都市の動脈を描き出している。無数のビルの窓灯り一つ一つに、誰かの営みがあり、物語がある。それらは、ここが成功と幸福の頂点であることを無言で、しかし圧倒的な説得力を持って主張していた。


 だが、今の佐伯さえき さきの目には、その輝きさえも疎ましく、冷たい人工の光の集積に過ぎないように映った。

 華やかな夜景は、彼女の心の中に広がる暗闇を、より一層深く際立たせるだけだった。


 部屋の隅、間接照明の柔らかな光の中に、純白のウェディングドレスがトルソーに着せられ、亡霊のように佇んでいる。

 最高級のシルクサテンは真珠のような光沢を放ち、胸元にあしらわれた繊細なフランス製のリバーレースは、職人の吐息さえ感じさせるほどの精緻さだ。何ヶ月もかけて打ち合わせを重ね、ミリ単位で調整されたオーダーメイドのドレス。それは明日、咲の体を包み込み、世界で一番美しい花嫁へと変身させるための魔法の衣だ。


 しかし今の咲にとって、それは美しいドレスというよりも、逃れられない運命を象徴する「純白の檻」のように見えた。

 明日、咲はこのドレスを着て、多くの人々の祝福の中、バージンロードを歩く。

 その事実が、鉛のように重く、冷たく、彼女の全身にのしかかっていた。胃の腑に冷たい石が居座っているような、息苦しい圧迫感。


「……逃げたい」


 咲は、身体を包み込むような革張りのソファに深く身を沈め、膝を抱えた。誰に聞かせるわけでもない呟きが、広い部屋の空気に溶けていく。

 マリッジブルー。世間ではそう呼ぶのだろう。結婚を控えた女性が陥る、一時的な情緒不安定。そんな安っぽい言葉で片付けたくなかった。

 もっと根源的な、存在の揺らぎ。「佐伯 咲」というアイデンティティの喪失への恐怖だ。


 結婚相手の健太けんたは、非の打ち所がないほど優しくて誠実な人だ。

 大手メーカーの研究開発職に勤める彼は、理系特有の穏やかな思考回路を持ち、咲の感情的な起伏も静かに受け止めてくれる。文芸誌の編集者として働く咲の激務や、締め切り前の殺気立った不規則な生活も理解し、「咲が書く人を支えているように、俺は咲を支えたい」と言ってくれた。

 友人の紹介で出会い、交際して三年。大きな喧嘩もなく、穏やかな川が海へと注ぐような自然な流れでプロポーズを受け入れた。

 周囲からは「理想的なカップル」「幸せになれるに決まっている」と言われ続けてきた。不満などないはずだった。誰もが羨む結婚のはずだった。


 だが、いざ婚姻届に判を押し、名字が変わるという現実が目の前に迫った時、咲の中に強烈な違和感が生まれた。それは小さなひび割れから始まり、瞬く間にダムを決壊させるほどの濁流となって彼女を襲った。

 「佐伯 咲」という個人が溶けてなくなり、「誰かの妻」という役割に上書きされてしまうのではないか。

 仕事で培ってきたキャリア、一人で映画館に行きレイトショーを楽しむ自由な時間、深夜まで誰に気兼ねすることなく本を読み耽る気ままな生活。お気に入りのカフェで過ごす休日。それらが、結婚という制度の中に飲み込まれ、変質してしまうのではないか。

 家庭という共同体の中では、「私」よりも「私たち」が優先される。それは尊いことだと頭では分かっている。けれど、心は叫んでいた。私の輪郭がぼやけてしまうのが怖い、と。

 そんな漠然とした、しかし切実な恐怖が、式の前夜になって津波のように押し寄せてきたのだ。

 健太のことは好きだ。愛していると言ってもいい。でも、「私」が消えるのは怖い。その恐怖は、愛とは別次元の問題として、咲の心を蝕んでいた。


 ふと視線を落とすと、サイドテーブルに置かれたスマートフォンが静まり返っている。健太からの「明日はよろしくね。ゆっくり休んで」というメッセージには、まだ既読をつけていない。返信を打つ指が動かなかったのだ。


 時計の針は深夜二時を回っていた。

 明日の挙式は午前十時から。メイクや着付けの時間を考えれば、もう眠らなければ肌に響く。

 だが、目を閉じると、得体の知れない不安が黒い触手のように絡みついてくるようで、とても眠れる状態ではなかった。

 咲は受話器を取り、ルームサービスを頼んだ。

「ホット・トディを一つ。蜂蜜とレモンを多めでお願いします」

 風邪気味の時や、心が凍えそうな夜に飲む、温かいウィスキーのカクテル。スコットランドの古い知恵であり、魂を温める薬のような飲み物だ。

 しばらくして、ワゴンが運ばれてきた。初老のボーイが恭しく一礼して去り、再び部屋に静寂が訪れる。


 湯気を立てる耐熱グラスを手に取る。

 琥珀色の液体から立ち上るウィスキーの芳醇な香りと、クローブのスパイシーな刺激、そして蜂蜜の甘く優しい匂いが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。

 一口、啜る。

 熱い液体が喉を通り、食道を滑り落ち、冷え切った胃の腑に落ちていく。アルコールが血管を巡り、強張っていた身体の緊張を少しだけ解いてくれる。


「ふぅ……」


 大きく息を吐く。

 その深いため息と、グラスから立ち昇る湯気が混ざり合い、白い靄となって視界を揺らした瞬間だった。

 ゆらゆらと揺れる湯気が、白く濁り、質量を持ち始める。

 それは単なる水蒸気ではなく、意志を持った生き物のように蠢き、テーブルの上にふわりと着地した。


「え……?」


 咲は目を疑った。

 そこにいたのは、子犬ほどの大きさの、真っ白な生き物だった。

 長い毛並みはシルクのように艶やかで、まるで何層にも重ねたウェディングベールのように光を透かしている。長い耳が垂れ下がり、つぶらな瞳が二つ、夜空の星のように瞬いて咲をじっと見上げている。

 現実離れした光景。酔いが回ったのか、極度の緊張と寝不足で幻覚を見ているのか。

 なのに、咲の記憶の奥底にある扉が、ギイと音を立てて開いた。錆びついていた蝶番が外れ、埃を被っていたアルバムのページがめくられるように、鮮烈な記憶が蘇る。


「あなた……もしかして、『シロ』?」


 咲が五歳の頃だ。近所の神社で行われた夏祭り。

 人混みで母の手を離してしまい、迷子になった。極彩色の屋台の灯りと、大人たちの足の森の中で、世界から切り離されたような孤独感に押しつぶされそうになって泣きじゃくっていた。

 その時、ふと足元に現れたのが、この白い毛玉だった。

 柔らかい尻尾で咲の手首を巻き取り、人波を縫うように、迷子センターのテントまで導いてくれた不思議な生き物。

 「ワンワン」とも「ニャー」とも言わず、ただ静かに寄り添い、震える咲の足元を温めてくれた。母が見つかり、安心した咲が振り返った時には、煙のように消えていた。

 あれは夢じゃなかったのだ。


 シロは「クゥ」と小さく鳴き、咲の膝の上に軽やかに飛び乗ってきた。

 温かい。

 ホット・トディの熱とは違う、確かな鼓動を持った生き物の体温。トクトクと打つ小さな心臓のリズムが、咲の太ももを通して伝わってくる。

 ベールのような毛が咲の手を包み込むと、恐怖で震えていた指先が、じんわりと解れていった。


二、物語の守り人


「また、迷子になっちゃったのを見つけてくれたの?」


 咲が問いかけると、シロは長い舌で咲の頬を舐めた。犬のようなざらりとした感触はなく、綿菓子のように柔らかく、微かに甘い匂いがした。

 シロの毛並みに顔を埋めていると、ふと、ある作家の言葉が蘇ってきた。


 高村タカシ。

 咲が文芸編集者として初めて大きな仕事を任された、高名な執筆家だ。

 気難しく、編集者泣かせで有名な彼だが、その紡ぐ物語は人間の弱さに寄り添い、多くの人の心を救ってきた。咲もまた、学生時代から彼の作品に救われてきた一人だった。

 彼のエッセイ集『境界線の歩き方』の中に、こんな一節があった。


『人は人生の節目において、必ず一度立ち止まる。それは恐怖からではない。これから渡る橋の向こう側へ、古い自分を連れていけないことを魂が知っているからだ。脱皮する蛇が一時的に目が見えなくなるように、人もまた、変わる時には孤独になる。そんな時、古い自分と新しい自分を繋ぐために、境界線の守り神が現れることがある。彼らは形を持たないが、見る人の心象風景に合わせて姿を変える』


 以前、神楽坂の料亭での打ち合わせの席で、高村にその話を聞いたことがある。

 『高村先生、この守り神というのは比喩ですか? それとも創作上のギミックでしょうか』

 高村は眼鏡の奥の瞳を細め、日本酒の猪口を傾けながら、いたずらっぽく笑って答えた。

 『さあね。でも、僕がスランプで筆を折ろうとした二十代の夜には、インクの匂いがする黒猫が現れて、原稿用紙の上で昼寝をしていったよ。目が覚めたら、書きかけの原稿が完成していた……なんてことはないけれど、またペンを握る勇気は湧いていたな』


(先生、私のところには、白いベールの守り神が来ましたよ)


 咲は心の中で高村に話しかけた。

 シロは、咲の不安を吸い取るように、体を擦り寄せてくる。その動きに合わせて、周囲の空気が微かに揺らぐ。

 すると、シロの瞳がプロジェクターのように光を放ち、部屋の白い壁に映像を映し出した。それは、セピア色の映画のように、少しノイズ混じりで浮かび上がった。


 それは、咲の知らない「健太」の姿だった。


 一週間前の健太の部屋。独身寮の殺風景な一室。

 彼は鏡の前で、タキシードではなく、スウェット姿で、机に向かい何枚もの便箋と格闘していた。

 『咲さんへ。……いや、これじゃ硬いか。上司への報告書じゃないんだから』

 独り言と共に、くしゃくしゃに丸められた紙の山が、ゴミ箱から溢れている。

 『咲、いつもありがとう。……平凡すぎるな。もっと、俺の気持ちを……俺がどれだけ咲のことを大切に思っているか、どうすれば伝わるんだ』

 彼は頭を抱え、深夜まで悩み続けていた。髪をかきむしり、時には天井を仰ぎ、時には深いため息をつく。

 それは、明日の披露宴でサプライズとして読むはずの「新婦への手紙」の下書きだった。咲には「披露宴の演出は全部プランナーに任せたから」と言っていたのに。


 場面が変わる。

 三ヶ月前、健太が咲の実家へ挨拶に行った日。

 玄関先で深呼吸を繰り返し、胃薬を飲み、震える手でチャイムを押す直前の姿。

 スーツの背中は緊張の汗で張り付き、顔面は蒼白だ。いつもの冷静沈着な健太の姿はない。

 そして、帰り道。駅の改札で咲を見送った後、誰も見ていない路地裏で一人、ガッツポーズをして、「よしっ! やったぞ!」と小さく叫び、コンビニで発泡酒を買って、公園のベンチで一人祝杯をあげている姿。


「あはは……なにこれ」


 咲の目から涙がこぼれた。笑いながら、涙が止まらなかった。

 健太も、怖かったのだ。

 いつも余裕があるように見せていた彼にとっても、結婚は未知の世界であり、一人の女性の人生を預かるという責任の重圧に押しつぶされそうになっていたのだ。

 それでも、咲と一緒にいたい一心で、必死に前を向いていたのだ。不器用なりに、懸命に。


(私は、自分のことばっかりだった……)


 シロが見せる映像は、さらに時間を遡る。

 それは二人の祖先たちの物語だった。

 セピア色の風景が、高速で流れていく。

 明治、大正、昭和、平成。

 戦争があり、空襲があり、災害があり、貧困があった。

 咲の曽祖母が、空襲警報の中、子供たちを守るために防空壕へ走る姿。戦地へ赴く夫を見送る背中。

 健太の祖父が、高度経済成長期の工場で油まみれになって汗を流す姿。家族のために懸命に働く背中。

 それでも、誰かと誰かが出会い、愛し合い、あるいは喧嘩し、許し合いながら命を繋いできた。

 無数の「点」が繋がり、太い「線」となって、今ここにある咲と健太に辿り着く。

 この結婚は、単なる二人の契約ではない。歴史という巨大な川の合流点なのだ。何千、何万という命のリレーが、明日、一つの結び目を作ろうとしている。


 シロが、ホット・トディのグラスを鼻先で突いた。

 咲は促されるままに、冷めかけたカクテルを口に含む。

 不思議と、先ほどよりも味がまろやかになっていた。アルコールの角が取れ、蜂蜜の甘みが深く染み渡る。時間が経つことで、素材同士が馴染み、新しい味わいが生まれていた。


(水だ……)


 咲は直感した。

 結婚とは、二つの異なる川が合流することだ。

 水は混ざり合い、形を変えるが、水そのものが消えるわけではない。

 むしろ、水量は増し、より大きな流れとなって海へと向かう。

 「個の消失」ではない。「新しい川の誕生」なのだ。

 咲という水と、健太という水が混ざり合い、新しい味になる。それは決して悪いことではない。混ざり合うことでしか見られない景色が、きっとあるはずだ。


「私、変わってもいいんだね」


 咲が呟くと、シロは嬉しそうに尻尾を振った。その瞳が、優しく輝く。

 高村タカシの言葉が、今度は確信を持って響く。

 『変わることは、生きることそのものだ。恐れるな、佐伯くん。君の物語は、まだ章が変わるだけだよ。次の章のタイトルは、君自身が決めるんだ。「結婚」という章の次は、「冒険」かもしれないし、「創造」かもしれない』


三、夜明けの鈴音


 窓の外が、白々と明るくなり始めていた。

 東の空が濃紺から紫、そして茜色へと美しいグラデーションを描く。夜明けだ。

 ビルのシルエットがくっきりと浮かび上がり、街が目覚め始める。眠らない街・東京が、朝の顔へと表情を変えていく。

 それは、独身最後の夜の終わりであり、花嫁としての朝の始まりだった。


 咲の心にあった重たい鉛は、いつの間にか消え去り、代わりに静かな決意が満ちていた。

 シロが、咲の膝から降りて、テーブルの上に座り直す。

 その姿が、差し込む朝の光に溶けて、輪郭が薄くなっていく。役目を終えた守り神が、本来いるべき場所へ帰ろうとしている。


「もう、行くの?」


 名残惜しさを込めて咲が問うと、シロは答えず、前足(のように見える毛の束)を伸ばし、咲の目元に残っていた涙の跡を優しく拭った。

 手触りは、幼い頃に頭を撫でてくれた母の手のようでもあり、これから祭壇の前で握るであろう健太の手のようでもあった。

 「大丈夫だよ」と言われた気がした。言葉を超えた、絶対的な肯定。


 その時。

 遠くから、鐘の音が聞こえてきた。

 朝の礼拝を告げる近隣の教会の鐘だろうか。ゴーン、ゴーンと厳かに響き、都会の朝に祈りを届ける。

 だが、その重厚な音に混じって、もっと軽やかで、高く澄んだ音が、咲の耳にだけ響いた。


 シャン、シャン、シャン……。


 鈴の音だ。神社の巫女が舞う時に鳴らす神楽鈴のような、清浄な音色。

 その音は、咲の鼓膜ではなく、魂を震わせた。

 それは祝福の合図だった。

 過去から未来へ、連綿と続く命のリレーに対する、宇宙からの賛歌だった。


 シロの姿が完全に消える直前、最後に見せてくれた光景があった。

 壁ではなく、咲の脳裏に直接焼き付けられた、一枚の写真のような静止画。


 縁側のような場所で、柔らかな日向ぼっこをしている二人の老人。

 古びた日本家屋。庭には季節の花が咲いている。

 シワだらけの手と手が、しっかりと握り合われている。

 白髪になり、背中が丸くなった健太と、同じく歳を重ねた咲。二人の顔には、長い歳月が刻んだ皺があるが、その表情は穏やかで、満ち足りている。

 二人は言葉を交わすことなく微笑み合い、その膝元には、あの白い毛玉――シロが丸まって眠っていた。

 そこには激しい情熱はないかもしれない。だが、長い年月を共に歩んできた者同士だけが共有できる、絶対的な信頼と、空気のような安らぎがあった。


「……っ」


 咲は息を呑んだ。

 それは「永遠」の約束だった。予言と言ってもいい。

 これから先、喧嘩もするだろう。苦しいこともあるだろう。子供のこと、仕事のこと、親の介護。人生には様々な試練が待っているはずだ。

 でも、最後にはあんな風に笑い合える未来が待っている。

 赤い糸は、途切れることなく続いていく。

 「結婚してよかった」「あなたでよかった」と思える日が、必ず来る。


 シャン……。


 最後の鈴の音が余韻を残し、シロの姿は朝の光の中に溶けて完全に消えた。

 後には、飲み干されたグラスと、少し湿ったテーブルクロス、そして咲の心に残る温もりだけが残っていた。


四、新しい章の始まり


「失礼いたします。ヘアメイクの担当です」


 控えめなノックと共に、ドアが開いた。

 現れたスタッフは、メイク道具の詰まった大きなバッグを抱え、ソファに座る咲を見て、少し驚いたように目を丸くした。

 昨夜の最終打ち合わせでは、不安げで顔色の悪かった花嫁が、今は憑き物が落ちたように晴れやかな表情をしていたからだ。

 肌には血色が戻り、瞳には強い光が宿っている。それは、覚悟を決めた女性の美しさだった。


「おはようございます、佐伯様。……とても良いお顔ですね。昨夜はよく眠れましたか?」

「ええ。ぐっすり眠れたみたいです。素敵な夢を見ました」


 咲は嘘をついた。一睡もしていない。けれど、体には不思議な力が満ちていた。眠り以上の休息を、魂が得たのだ。

 鏡の前に座り、シルクのガウンを脱ぐ。

 メイクアップアーティストの手によって、肌に色が乗せられ、髪が結い上げられていく。

 リップが塗られ、チークが入り、徐々に「佐伯咲」から「花嫁」としての顔が出来上がっていく。

 最後に、純白のウェディングベールが頭に被せられた。

 その感触は、シロの毛並みと同じくらい、優しく、神聖な重みがあった。

 これは自由を奪う拘束具ではない。新しい世界へ踏み出す自分を守るための、守護の証なのだ。


 支度が整い、部屋を出る時間になった。

 咲は振り返り、テーブルの上を見た。

 そこには、飲み干されたホット・トディの空きグラスが一つ、窓から差し込む朝日に照らされて輝いている。

 そのグラスの横には、何もいない。

 けれど、グラスの周りの空気だけが、そこだけ少し温度が高いように陽炎めいて見えた。

 見えない誰かが、そこに座って見送ってくれているのだ。

 人生の節目に現れる、私の守り神。


「行ってきます、相棒」


 咲はニッコリと笑い、グラスに向かって小さく手を振った。


 エレベーターホールへ向かう廊下で、一人の紳士とすれ違った。

 列席者として招かれていた、高村タカシだった。

 彼は仕立ての良いモーニングコートを着こなし、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。手には水引の美しい祝儀袋を持っている。


「やあ、佐伯くん。おめでとう。今日は一段と美しいね」

「高村先生! ありがとうございます。お忙しい中、遠いところを」

「……ふむ」


 高村は咲の顔をじっと見つめ、そして咲の肩のあたりに視線を移した。まるで、そこに誰かが乗っているのを見るかのように、視線を虚空に彷徨わせる。

 その視線に、咲はハッとする。

 この人には見えているのだ。インクの匂いのする黒猫に出会った彼には、私に憑いている白い守り神の姿が。


「いい相棒を見つけたようだね。とても綺麗なベールだ。君によく似合っている」


 高村の言葉に、咲は胸が熱くなった。

 彼は物理的なベールではなく、その上にある、温かいオーラのようなものを褒めてくれたのだ。


「……はい。先生の言う通りでした。境界線には、本当に守り神がいました。白くて、温かい守り神が」


「それはよかった。その話、いつか聞かせてもらうよ。取材としてね。もしかしたら、僕の次の小説のネタになるかもしれない」

 高村は片目を瞑り、エレベーターのボタンを押した。

「さあ、行きなさい。彼が待っている。新しい章の始まりだ。素晴らしい物語になることを、僕は確信しているよ」


 チャペルの重厚な扉の前。

 父の腕に手を添える。父の腕が少し震えているのがわかる。いつも強気な父が、今は小さく見えた。

 「咲、綺麗だぞ」

 父の小さな声に、咲は頷く。

 扉の向こうには、健太がいる。そして、新しい人生が待っている。

 もう怖くはない。

 私の中には、無数の物語が流れている。そして今日、また新しい川と出会うのだ。


 パイプオルガンの前奏が始まる。

 重厚な扉がゆっくりと、厳かに開く。

 光溢れるバージンロードの先、祭壇の前で、健太が緊張した面持ちで振り返った。その顔を見て、咲は心から愛おしいと思った。彼となら、どんな荒波も越えていける。


 その瞬間、咲の耳には、パイプオルガンの荘厳な音色と共に、あの懐かしい音が聞こえた気がした。


 シャン、シャン、シャン。


 咲は一歩、踏み出した。

 その足取りは、かつて迷子の手を引いてくれたあの日のように、力強く、軽やかだった。

 私は、私を生きる。新しい名前と共に、新しい物語を紡いでいく。


何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ