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無重力のウィスキー・ロック(執筆中)

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。

一、真空の独房


 警告音が止んでから、どれくらいの時間が経っただろうか。

 時間の感覚はとうに失われていた。国際宇宙ステーション(ISS)の日本実験棟「きぼう」に接続された居住モジュールの一角で、日本人宇宙飛行士の向井蓮むかい れんは、無重力空間に漂う塵のように体を丸めていた。

 静寂。あまりにも深く、重たい静寂。

 かつては生命維持装置のファンの音や、実験機器の駆動音、そして何より同僚たちの交わす冗談や笑い声で満たされていたこの空間は、今や深海の底に沈んだ沈没船のように静まり返っている。聞こえるのは、自分の浅い呼吸音と、鼓膜の奥で鳴る耳鳴り、そして早鐘を打つ心臓の鼓動だけだ。


「こちらJAXA、向井です。ヒューストン、および筑波、聞こえますか……」


 マイクに向かって呼びかけるのは、もう三百回目くらいだろうか。声は枯れ、喉の奥がヒリついている。

 返ってくるのは、無慈悲なホワイトノイズだけ。

 原因不明のシステムダウン。メインアンテナとの接続が完全に断たれ、バックアップ通信系も沈黙している。ISSに取り残されたのは、蓮ただ一人だ。

 あの日、デブリ(宇宙ゴミ)の接近警報が鳴り響いた。他のクルーたちは、緊急事態発生時の手順に従い、ソユーズ宇宙船へと退避した。蓮だけが、「きぼう」での実験データのバックアップを回収するためにわずかに遅れ、その瞬間にハッチの電子ロックが誤作動を起こしたのだ。

 仲間たちが必死に呼びかける声が聞こえていた。「レン! 急げ!」「ハッチが開かないんだ!」――そして、衝突警報のカウントダウンと共に、彼らは苦渋の決断でソユーズを切り離さざるを得なかった。

 幸い、デブリの衝突による壊滅的な破壊は免れたが、蓮は真空の牢獄に一人、取り残された。


 酸素供給システムと電力は、非常用バッテリーと予備タンクでかろうじて生きている。食料もあと二週間分はある。物理的な生存は可能だ。

 だが、精神が持たない。

 円窓ポートホールの外には、圧倒的な暗黒と、眼球を突き刺すような鋭利な星々の光。地球は美しく青いが、今の蓮にとっては、手の届かない宝石のように冷たく、残酷に見えた。

 あの青い星のどこかで、家族や友人たちが自分の帰りを待っている。あるいは、もう「向井蓮は死亡した」というニュースが流れ、葬儀の準備が進められているのだろうか。

 思考が悪い方向へ螺旋を描いて落ちていく。

 自分はここで、誰にも知られずに死ぬのかもしれない。真空の棺桶の中で、干からびたミイラとなって永遠に地球の周りを回り続ける衛星の一つになるのかもしれない。


「クソッ……」


 蓮は無重力の壁を蹴り、個室へと戻った。

 本来なら安らぎの場であるはずのプライベート空間。狭いスリーピングバッグ。壁にマジックテープで固定された家族の写真。それらが、かえって孤独を際立たせる。

 極限のストレス。閉塞感。そして、「世界から忘れ去られるのではないか」という根源的な恐怖。

 人間は社会的動物だ。他者との繋がりを断たれた時、精神は急速に崩壊していく。蓮はそれを身をもって体験していた。

 時折、船内のパイプがきしむ音が、誰かの話し声に聞こえる。幻聴が始まりつつあった。


 蓮は、壁に固定された私物バッグの奥底を探った。

 指先に触れたのは、本来持ち込みが厳禁されている小さなガラス瓶の冷たい感触だった。

 出発前、地上のバーで、一人の友人が「お守りだ」と言って渡してくれた、ヴィンテージのスコッチウィスキー。

 『宇宙で飲む酒は、どんな味がするんだろうな』

 その友人の言葉が蘇る。


 蓮はその友人の顔を思い浮かべた。

 高村タカシ。

 大学時代からの腐れ縁で、今は少し名の知れた執筆家になっている男だ。

 いつも飄々としていて、現実離れしたことばかり言っている変人。蓮がパイロット試験に落ちて自暴自棄になっていた時も、高村だけは「お前の目はまだ空を見てるよ」と言って笑い飛ばし、酒を奢ってくれた。

 『お前が宇宙に行くなら、俺の小説のネタを拾ってきてくれよ。俺の想像力じゃ届かない場所の景色をさ』

 そう言って笑っていた高村。彼なら、この絶望的な状況をどう描写するだろうか。

 「“真空の独房で、男は琥珀色の夢を見る”……なんてな」

 蓮は自嘲気味に呟き、小瓶のキャップを捻った。

 プシュッ、という小さな音が、静寂を破る。芳醇なピートの香りが、無機質な船内の空気に漂い出す。それは、消毒液とオゾンの匂いしかしないこの場所にはあまりに異質な、地球の土と風、そして熟成された時間の匂いだった。


 琥珀色の液体が、無重力の空間にゆっくりと滲み出る。

 表面張力によって丸まった液体は、直径三センチほどの美しい球体となって、蓮の目の前にふわりと浮かんだ。

 LED照明の光を受けて黄金色に輝くその球体は、まるで小さな惑星のようだ。その中に、小さな気泡が星のように散りばめられている。

 本来なら、ストローで飲むべきだろう。こぼれれば計器に入り込んでショートする危険がある。だが、今はそんな気になれなかった。この美しい惑星を、そのまま飲み干してしまいたかった。これこそが、蓮に残された最後の自由であり、人間らしさの証明であるように思えたからだ。


「乾杯だ、高村」


 蓮がその球体に口を近づけようとした、その時だった。

 黄金色の惑星が、ぶるりと震えた。

 蓮の手の震えではない。液体そのものが、内部から湧き上がる意志を持ったように波打ったのだ。

 そして、液体の中から何かが「孵化」するように、モジャモジャとした毛並みが広がり始めた。


二、琥珀色の同居人


「なっ……!?」


 蓮は反射的に身を引いたが、無重力ゆえにうまく動けず、空中でバタついた。背中を壁に強く打ち付け、痛みに呻く。

 目の前の液体は、もはや液体ではなかった。

 大きさはテニスボールほど。深く透き通った琥珀色で、全身が長い毛のようなもので覆われた毛玉のような生物。

 重力がないせいか、その毛は四方八方に放射状に広がっており、まるでウニか、あるいは爆発した瞬間の星のようにも見える。中心部がほんのりと温かなリズムで発光し、脈打っている。


「なんだ、お前は……カビか? 未知のバクテリアか? それとも俺の脳がついに焼き切れて見せる幻覚か?」


 連日のストレスで脳が参ってしまったのか。酸素濃度が低下して幻覚を見ているのか。

 蓮は目をこすり、頬をつねった。痛みはある。夢ではない。

 その毛玉は確かにそこに「居た」。

 毛玉の一部が割れ、クリッとした大きな目が一つ、蓮を覗き込んだ。その瞳は、ガラス玉のように無機質でありながら、どこか深い知性を湛えていた。瞳の奥に、宇宙の星々が映り込んでいるように見える。

 そして、小さな口のようなものが開き、ストローのような細長い舌が伸びてきた。


 チュウウウ……。


 奇妙な音がして、蓮の眉間から何かが吸い出される感覚がした。

 痛みはない。むしろ、熱を持っていた頭が冷やされていくような、心地よい感覚だ。真夏の熱帯夜に、一陣の涼風が吹き抜けたような爽快感。

 吸い出されていたのは、「恐怖」だった。

 真空への恐怖、孤独への恐怖、死への恐怖。それらが、黒い霧となって蓮の頭から立ち上り、ストローを通じて毛玉の中へと消えていく。


「お前……俺の恐怖を食ってるのか?」


 毛玉は満足げに体を震わせ、少し大きくなった気がした。毛の一本一本が艶やかに輝きを増している。まるで上質な食事を終えた後のように、満足げな波動を出している。

 そして、お返しとばかりに、蓮の脳内に直接イメージを送り込んできた。


 ドクン。


 視界が切り替わる。

 そこは、閉塞したISSの船内ではなかった。

 もっと広大で、もっと根源的な場所。


 暗黒の中に、ガスと塵の巨大な渦が巻いている。

 何光年にも渡る分子雲。その中で、重力の収縮が始まる。

 中心部が熱を持ち、赤く輝き始める。温度が上がり、圧力が上がり、臨界点を超える。

 オギャアアアア!

 産声のような、しかし音のない爆発と共に、新しい星が誕生する瞬間。

 その圧倒的なエネルギー。熱量。輝き。

 (星が……生まれる)

 蓮はその光景に圧倒された。恐怖など感じる暇もないほどの、純粋なエネルギーの奔流。それは破壊ではなく、創造の光景だった。


 続いて、場面が変わる。

 今度は、全てを飲み込む漆黒の穴、ブラックホールだ。

 だが、それは死の象徴ではなかった。

 周囲の物質を飲み込みながら、事象の地平面から強烈なジェットを噴き出し、空間そのものを震わせている。

 ブーン、ブーン……。

 重低音のような振動が、蓮の骨に響く。それはまるで、宇宙という巨大な生命体の心臓の鼓動のようだった。飲み込まれた物質は消滅するのではなく、別のエネルギーへと変換され、宇宙の循環の一部となるのだ。そこには「無」ではなく、濃密な「有」があった。


 ハッと我に返ると、蓮は再び個室の中にいた。

 汗びっしょりになっていた。だが、その汗は冷や汗ではなく、激しい運動後のような心地よいものだった。

 目の前には、琥珀色の毛玉――モジャモジャが、フワフワと漂っている。


「すごい……今のを見せてくれたのか?」


 モジャモジャは、長い毛をゆらゆらと揺らして肯定した(ように見えた)。

 恐怖が消えた蓮の心に、代わりに満ちていたのは「繋がり」の感覚だった。

 自分は一人ではない。

 この広大な宇宙は、死の世界ではない。

 星が生まれ、死に、また生まれ変わる、賑やかな「生のスープ」なのだ。

 自分もまた、そのスープの一部であり、星屑の兄弟なのだ。地球にいる人間も、このモジャモジャも、自分も、すべては同じ元素からできている。炭素、窒素、酸素。すべては星の核融合から生まれた。


「高村……お前の小説よりも、ずっとすごいもん見ちまったよ」


 蓮は窓の外を見た。

 さっきまで恐怖の対象でしかなかった暗闇が、今は温かく、懐かしいものに見えた。

 無数の星々が、まるで遠くの親戚のように、優しく瞬いている。「よう、元気か? こっちは忙しいぞ」と語りかけてくるようだ。


 それから数日間、蓮とモジャモジャの奇妙な同居生活が続いた。

 食料や酸素は減っていくが、蓮の心は穏やかだった。

 モジャモジャは、蓮がふとした瞬間に感じる「帰れないかもしれない」という不安や、「家族に会いたい」という切なさを感じ取ると、すかさず寄ってきてそれをストローで吸い取り、代わりに宇宙の記憶を見せてくれた。


 彗星に乗って旅をする氷の記憶。太陽風に吹かれてなびく尾の美しさ。

 二つの銀河が衝突し、数億年かけて混じり合う壮大なダンス。

 超新星爆発が撒き散らす、生命の種(元素)のきらめき。それがやがて惑星となり、海となり、原始の生命となる過程。

 蓮は、自分が人類の代表として、宇宙の歴史そのものを講義されているような気分になった。


 蓮はノートを取り出し、その記憶を必死に書き留めた。

 ボールペンがインク切れを起こすまで、予備の鉛筆が短くなるまで書き続けた。

 通信が回復したら、真っ先に高村に伝えなければならない。

 この宇宙には「孤独」なんて存在しないのだと。僕たちは、巨大な連鎖の一部なのだと。


三、星屑の兄弟


「こちら救助船オリオン! ISS、応答せよ!」


 ノイズ混じりのスピーカーから、待ちに待った人の声が響いたのは、遭難から一週間後のことだった。

 蓮は飛び起きた。幻聴ではない。確かに日本語だ。JAXAの管制官の声ではなく、もっと近く、クリアな通信音声。

 コンソールに飛びつき、マイクを握りしめる。指の震えを抑えながらスイッチを入れる。

「こちら向井! 感度良好、聞こえるぞオリオン! 生存者は一名、健康状態は良好だ!」

 蓮は歓喜の声を上げた。涙がにじみ、無重力空間に小さな水滴となって舞う。

「よかった……! 本当によかった! 現在アプローチ中。すぐにドッキング準備に入る。あと四時間で到着する」


 四時間。

 永遠のように感じられた孤独な時間が、あとわずかで終わる。

 蓮はハッチへ向かい、ドッキングの準備を始めた。手慣れた手順だが、高揚感で心臓が破裂しそうだ。気圧調整、ハッチのロック確認、ドッキングポートの開放。一つ一つの作業が、生還へのステップだ。


 準備を終え、再び居住モジュールに戻る。

 そこでふと、蓮は足を止めた。

 安堵と共に、胸の奥に刺さるような寂しさを感じていた。

 救助が来れば、この奇妙な同居人ともお別れだ。地球の重力下では、この姿を保てないかもしれない。あるいは、この場所でしか生きられない存在なのかもしれない。科学的に説明のつかないこの存在を、連れて帰ることはできないだろう。


 蓮は、ウィスキーの小瓶に残っていた最後の一滴を空中に放った。

 これが最後の晩餐だ。

 モジャモジャは、それを嬉しそうに吸収し、体全体を黄金色に輝かせた。

 船内の計器のLEDや、窓から差し込む太陽光を反射し、モジャモジャはまるでミラーボールのように光を撒き散らす。部屋中がプラネタリウムのように輝き始めた。壁も床も天井も消え、蓮は宇宙空間そのものに浮いているような錯覚に陥った。


 シャン、シャン、シャン……。


 どこからともなく、鈴のような音が聞こえてきた。

 いや、音ではない。空気のない宇宙で音が聞こえるはずがない。これは振動だ。宇宙空間を伝わる、喜びの波動だ。

 蓮の身体中の細胞が共鳴している。骨が、血液が、DNAが歌っている。


(お前は一人ではない)


 頭の中に、はっきりと言葉が響いた。

 それはモジャモジャの声であり、同時に高村の声のようでもあり、あるいは自分自身の深層心理の声のようでもあった。


(俺たちは皆、同じ星屑から生まれた兄弟だ。離れていても、繋がっている。恐怖に飲み込まれそうになったら、思い出してくれ。この光を。この音を)


 シャンシャンシャン!

 音が高まり、光が強まる。それは祝福のファンファーレだった。

 蓮は眩しさに目を細めた。

「ありがとう。お前のおかげで、正気を保てたよ。お前がいなけりゃ、俺は今頃、闇に飲み込まれていた」


 モジャモジャは、最後にパッと弾けるように拡散し、無数の光の粒子となって消えていった。

 まるで花火のように。あるいは、新しい星が生まれて散っていくように。

 後には、微かなウィスキーの香りと、温かい安心感だけが残った。


 ガコン、という重い金属音が響く。ドッキングが完了した合図だ。

 気圧調整のシューッという音が聞こえる。

 エアロックの向こうから、救助隊員たちのヘルメット越しの顔が見えた。彼らの顔にあるのは、死者を見つけるような強張った表情ではなく、生存者を見つけた安堵の表情だった。


「向井さん! 無事ですか!」

 隊員が飛び込んでくる。彼の手が、蓮の肩を掴む。確かな人の温もり。

「ああ、ピンピンしてるよ」

 蓮は笑顔で答えた。自分でも驚くほど穏やかな声だった。

「一人旅も、案外悪くなかったさ」


四、地上の星々


 地球への帰還。

 大気圏突入の強烈なG、パラシュートが開いた時の衝撃、そして着陸したカザフスタンの草原の土と草の匂い。

 重力のある生活。リハビリテーション。絶え間ないメディカルチェック。メディアへの対応。記者会見の無数のフラッシュ。

 「奇跡の生還」として世界中が蓮を称賛した。だが、蓮はあの一週間の出来事を、誰にも詳しく話さなかった。話しても信じてもらえないだろうし、何より、あの体験を言葉にして陳腐化させたくなかった。


 喧騒の日々が過ぎ去り、ようやく落ち着きを取り戻した頃、蓮は高村タカシと再会した。

 場所は、二人が学生時代によく通った、都内の古いバーだ。

 地下にあるその店は、薄暗く、紫煙が漂い、ジャズが静かに流れている。壁には古びた映画のポスターが貼られ、カウンターの木目は飴色に輝いている。ここだけ時間が止まっているようだ。


「まさか、本当にお守りのウィスキーが役に立つとはな」

 高村は、蓮が持ち帰った空の小瓶を眺めながら苦笑した。小瓶は洗浄され、ラベルも少し剥がれていたが、そこには確かに宇宙の痕跡が残っているように見えた。

「ああ。あれがなかったら、俺は発狂してたかもしれない。お前の言う通り、最高のネタを拾ってきたよ」


 蓮は、意を決してモジャモジャの話をした。

 恐怖を食べる毛玉のこと。宇宙が見せてくれた生のスープのこと。そして、最後のシャンシャンという音のこと。

 普通の人間なら「極限状態での幻覚だろう」「PTSDの一種じゃないか」と片付ける話だ。実際、JAXAの心理カウンセラーには「孤立感による一時的な解離症状」と報告されている。

 だが、高村は真剣な眼差しで、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けていた。グラスを傾けるのも忘れ、子供のように目を輝かせて。彼だけは、蓮の言葉の奥にある真実を感じ取っていた。


「……なるほど。無重力のウィスキー・ロック、か。そして、恐怖を食らう星屑の精霊」

 高村は静かにグラスを傾けた。氷がカランと音を立てる。

「『琥珀色の同居人』なんてタイトルはどうだ? 蓮、その話、俺に書かせてもらえないか」


「もちろんさ。そのために記録してきたんだからな」

 蓮は持参したノートを高村に渡した。そこには、宇宙で見た壮大なビジョンが、拙いながらも力強い言葉で綴られていた。殴り書きのような文字だが、そこには魂がこもっていた。

「俺には書けない。俺が見たのは映像と感覚だ。それを、お前の言葉で翻訳してくれ。世界中の人に、宇宙は孤独な場所じゃないって伝えてくれ」


 高村はノートを受け取り、パラパラとめくった。その指が止まる。

「しかし、不思議だな」

 高村は呟いた。

「俺も小説を書いている時、たまに聞こえるんだよ。そのシャンシャンって音が」


「え?」

 蓮は目を丸くした。

「極限まで集中して、物語の世界に没入している時だ。自分という存在が消えて、世界と一体になるような感覚……ゾーンに入った時とでも言うのかな。登場人物が勝手に動き出し、物語が俺の手を離れて走り出す瞬間。その時、遠くから鈴の音が聞こえる気がするんだ。とても懐かしくて、温かい音が。もしかしたら、俺の部屋にもそのモジャモジャがいるのかもしれないな」


 二人は顔を見合わせ、笑った。

 作家が孤独な作業部屋で向き合う内なる宇宙と、宇宙飛行士が真空の独房で向き合う外なる宇宙。

 場所は違えど、そこには同じ「何か」が存在しているのかもしれない。

 それは創造の源泉であり、孤独を癒やす光であり、生命そのもののリズムなのかもしれない。宇宙の法則は、物理的な空間だけでなく、人間の精神の中にも同様に働いているのだ。


 店を出ると、夜空には満天の星が輝いていた。

 東京の空は明るすぎて、宇宙ステーションから見た星空とは比べ物にならないほど貧弱だ。スモッグとネオンに遮られ、数えるほどしか見えない。

 だが、今の蓮には、その一つ一つの星が愛おしく感じられた。

 あの星の周りにも、誰かがいるかもしれない。

 あるいは、遠く離れた場所で、別の誰かが同じ星を見上げているかもしれない。

 僕らは皆、同じスープの中に浮かぶ具材なのだ。数億年の時を超えて、形を変え、また出会う。


 蓮は夜空に向かって、見えないグラスを掲げた。

 星が瞬くたびに、遠い宇宙で、あのモジャモジャが「乾杯」と返してくれているような気がした。


「さて、行くか」

 高村が言った。

「ああ、次はどんな物語を書くんだ?」

「そうだな……星屑たちが再会を祝して、銀河の果てで宴を開く話なんてどうだ? 主人公は、ちょっと変わった宇宙飛行士と、ウィスキー好きの小説家だ」


 二人の男は、星明かりの下を並んで歩き出した。

 その背中は、見えない糸で宇宙の果てまで繋がっているようだった。

 夜風が吹き抜け、都会の喧騒の隙間から、どこからかシャン、と鈴の音が聞こえた気がした。それは、物語がまた新しく始まる合図だった。


(了)


何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。

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