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窯変の守り神(執筆中)

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。

窯変の守り神


一、沈黙の批評家


 瀬戸内海を見下ろす山の中腹、鬱蒼と茂る木々の合間に「赤松窯」はある。

 かつては登り窯から吐き出される黒煙が龍のように空を舞い、麓の町からもその威容が見て取れたという。だが今は、時代の流れと共に静まり返り、時折訪れる陶芸ファンや、先代からの馴染み客を迎えるだけの静寂な場所となっていた。


 工房の土間は、ひんやりとした冷気に包まれていた。冬の終わりを告げるような乾いた風が、隙間だらけの引き戸を時折ガタつかせ、埃っぽい匂いを運んでくる。

 その静寂を、硬質な音が切り裂いた。


 パリーン。


 乾いた音が響き、また一枚、皿がコンクリートの床で砕け散った。

 赤松匠あかまつ たくみ、二十八歳。この由緒ある窯元の跡取り息子は、ろくろの前に座り込んだまま、安酒のワンカップを煽った。アルコールの刺激が喉を焼き、空っぽの胃袋へと落ちていく。


「違う……これじゃない。こんなの、ただの器だ」


 床には無数の破片が散らばっている。どれも端正な形をしていた。歪み一つなく、厚みも均一で、技術的に見れば申し分のない出来栄えだ。陶芸学校で学んだ基礎、父の背中を見て盗んだ技、それらは確実に匠の指先に宿っている。

 だが、それだけだった。

 そこには熱がない。命がない。ただ土を物理的に成形し、焼いただけの抜け殻だ。工業製品と何が違うのかと問われれば、言葉に詰まるような代物だった。


 匠の脳裏には、今日の昼間に交わした会話がこびりついて離れなかった。

 工房を訪れたのは、亡き父・げんの竹馬の友であり、今や日本を代表する執筆家、高村タカシだった。

 父の一周忌を兼ねて線香をあげに来てくれた高村は、作務衣に雪駄といういつもの軽装で、父の遺影の前で長い時間手を合わせていた。その後、匠は意を決して自身の新作を見せたのだ。


 高村は、匠が差し出した抹茶碗を手に取り、長い沈黙を守った。

 窓から差し込む陽光に透かしたり、指の腹で高台こうだいの削りを確認したり、あるいはただてのひらに乗せて重さを測るように目を閉じたりした。

 その時間は永遠にも感じられた。心臓の音がうるさいほど響き、匠は喉の渇きを覚えた。

 やがて、高村は器をテーブルに戻し、静かに口を開いた。


『匠くん。君の器はとても綺麗だ。整っていて、隙がない』


 それは称賛の言葉のように聞こえたが、響きはどこか空虚だった。高村は、まるで言葉の裏側にある物語を探るような、独特の穏やかで、しかし射抜くような眼差しで匠を見つめた。


『でもね、聞こえてこないんだよ。この土がどこから来て、何になりたがっているのか。……君のお父さんの器は、饒舌だった。ただそこに置いているだけで、その土地の風や、炎の匂いが物語となって溢れ出していた』


 ――物語が、聞こえてこない。


 その言葉は、技術を磨くことに躍起になっていた匠の急所を的確に貫いた。

 怒りや反発よりも先に、深い無力感が襲ってきた。図星だったからだ。自分でも薄々気づいていた欠落を、最も尊敬し、恐れている人物に指摘された絶望感。


「親父なら、この土で何を作ったんだよ……高村先生には、何が見えていたんだよ……」


 匠は空になったカップを乱暴に作業台に置き、土埃に塗れた床に突っ伏した。舞い上がった埃が鼻をくすぐる。土の匂い。子供の頃から嗅ぎ慣れた、鉄分と湿気を含んだ匂い。だが今夜は、なぜかいつもより強く、乾いた気配がした。

 父の背中は遠い。偉大すぎる父を持つことの重圧は、常に匠の肩にのしかかっていた。「厳さんの息子さんなら安心だ」「お父さんのような力強い作品を期待しています」。周囲の無邪気な期待が、真綿で首を絞めるように彼を追い詰めていた。


 ふと、視界の端で何かが動いた気がした。

 酔いが回ったのかと思い目をこする。だが、それは確かにそこにいた。

 砕けた皿の破片と、積もった土埃が集まるようにして、工房の隅、蹴ろくろの影にうずくまっている。

 大きさは柴犬ほどだろうか。灰色で、モジャモジャとした毛玉のような塊。目も鼻も見当たらないが、そこには確かに「意志」のようなものが感じられた。まるで、長年掃除されていない部屋の隅に溜まる綿埃が、命を持って凝縮したような姿だ。


「……なんだ、お前は」


 匠は身体を起こし、警戒しながら声をかけた。幻覚か? アルコールと疲労が見せる白昼夢か?

 その塊は、匠の声に反応してゆっくりと身じろぎした。モジャモジャとした表面から、パラパラと乾いた土がこぼれ落ちる。カサカサ、という乾いた音が、静寂な工房に響く。


 塊は何も答えない。ただ、そこに「在る」だけだった。

 恐怖心は不思議となかった。むしろ、その存在から漂う匂いに、匠は奇妙な懐かしさを覚えていた。それは、高村タカシが言っていた「土の物語」の匂いそのものだったからかもしれない。あるいは、幼い頃に父の工房で遊んでいた時に嗅いだ、原体験の記憶か。


 匠はふらつく足取りで立ち上がり、再びろくろの上の粘土に手を伸ばした。

「……見に来たのか? 高村先生に痛いところを突かれて、腐っている俺を」

 灰色の塊に向かって独り言つ。誰かに話しかけることで、自分を保とうとしていたのかもしれない。

「笑いたければ笑えばいい。どうせ俺には、物語を紡ぐ才能なんてないんだ。親父の真似事をして、上っ面だけ綺麗に整えて……中身空っぽの贋作を作ってるだけなんだよ」


 匠は再び土をこね始めた。無心で手を動かす。土の冷たさが指先から伝わり、少しだけ酔いを醒ましてくれる。

 その時だった。灰色の塊が、音もなく匠の足元まで近づいてきたのは。

 気配もなく、まるで影が伸びるように。

 塊の一部が触手のように伸び、匠がこねている粘土に触れた。


 ドクン。


 心臓が跳ねたような衝撃が走り、匠の視界が歪んだ。

「なっ、なんだ!?」

 叫ぼうとした声は音にならず、匠の意識は、途方もない時間の奔流へと放り出された。工房の天井が消え、壁が溶け、世界が反転した。


二、土の記憶


 気がつくと、匠は水の中にいた。

 いや、水底の泥そのものになっていた。


 重い。暗い。冷たい。

 圧力が全身にかかっている。だが、不快ではなかった。むしろ、母の胎内にいるような絶対的な安心感があった。

 上の方から微かに届く青白い光。ゆらゆらと揺れる海藻の森が見える。巨大な魚影が頭上を通り過ぎていく。無数のプランクトンの死骸が、雪のように静かに降り積もってくる。一粒一粒が、かつて生きていた命の欠片だ。それらが堆積し、押し固められ、時間をかけて層を成していく。

 (これは……数万年前の海か?)

 直感的にそう理解した。自分が今触れている粘土。この土はかつて、遥か太古の昔、海底に降り積もった泥だったのだ。自分は今、その泥の記憶を追体験している。


 場面が変わる。

 今度は焼け付くような熱さだ。

 地殻変動。海底が持ち上げられ、山となる。

 空を覆い尽くす黒煙。真っ赤に煮えたぎるマグマが山肌を駆け下りる。大地が裂け、灼熱の息吹が噴き出す。

 自分自身が岩石となり、砕け、火山灰となって空高く舞い上がる。風に乗って遠くへ運ばれていく浮遊感。見下ろせば、見たこともない植生の大地が広がっている。

 (ああ、この土は旅をしてきたんだ)


 雨が降る。激しい雨が、舞い降りた灰を洗い流し、川へと運ぶ。

 川底を転がり、削られ、粒が細かくなっていく。角が取れ、丸くなり、粘りを帯びていく。

 そしてまた、どこかのふちで堆積し、長い眠りにつく。

 恐竜が踏みしめ、マンモスが歩き、やがて人間たちが現れる。

 地層となり、静かに時を待ち、再びシャベルで掘り起こされるまでの悠久の時間。


 匠は思い出した。高村タカシの著書にあった一節を。

 『すべての物質は記憶を持っている。石ころ一つ、枯れ葉一枚にも、宇宙の始まりからの歴史が刻まれている。作家の仕事は、それを言葉という形に翻訳することだ』

 陶芸家も同じなのだ。土が持つ記憶を、器という形に翻訳する仕事なのだ。

 自分は今まで、土を何だと思っていた?

 ホームセンターで買ってくる画用紙と同じ、ただの「材料」だと思っていた。自分のエゴを表現するための、無機質な媒体だと。


 違う。土は生きている。

 数億年の旅をして、今、俺の手の中に辿り着いたのだ。


 匠はハッと我に返った。

 自分の手は、ろくろの上の粘土を握りしめていた。指の間から、ぬるりとした土の感触が伝わってくる。

 工房の風景が戻っていた。

 足元を見ると、あの灰色の塊――モジャモジャが、じっとこちらを見上げているような気がした。顔のないその表情から、安堵のようなものが伝わってくる。


「今のは……お前が見せたのか? これが、お前の『物語』なのか?」


 モジャモジャは小さく震えた。肯定とも、ただの身震いとも取れる動きだったが、匠にはわかった。

「そうか……高村先生が言いたかったのは、こういうことだったのか」


 匠は自分の手を見つめた。泥だらけの手。爪の間に入り込んだ土。

 今まで自分は、形を整えることばかりに気を取られていた。「きれいな円」を作ること、「均一な厚み」にすること。それは土を支配し、矯正する行為だった。

 だが、土には土の意志がある。粒子の一つ一つに、海だった記憶、山だった記憶、風だった記憶が眠っている。

 言葉を持たない土の代わりに、その声を聴き、そのなりたい形を引き出してやるのが、俺の役目だったんだ。


「俺は……なんて傲慢だったんだ」


 匠の目から、自然と涙がこぼれた。頬を伝い、粘土の上に落ちる。塩辛い雫が、土に吸い込まれていく。

「悪かったな。俺、お前たちのことを何も知ろうとしていなかった」

 匠が粘土を優しく撫でると、足元のモジャモジャが動いた。

 ズルズルと、粘土のように形を変えながら匠の膝に乗ってくる。乾いた手触りだが、不思議と温かい。日向ぼっこをした後の布団のような匂いがする。

 モジャモジャは、匠の胸のあたりに顔(らしき部分)を埋めた。

 すると、匠の中に渦巻いていた高村への劣等感や、偉大な父へのコンプレックス、将来への不安といったドロドロとした黒い感情が、掃除機で吸い取られるように薄れていくのを感じた。


「食べて……くれているのか? 俺の迷いを」


 モジャモジャは、まるで粘土を練り込むように、身体をうねらせながら匠の負の感情を吸収してくれていた。

 重くのしかかっていた心のおりが消え、視界がクリアになっていく。

 残ったのは、純粋な創作意欲と、目の前の土への敬意だけだった。


「よし」

 匠は袖をまくり上げた。

「もう一度だ。今度は、お前の声を聞きながら作るよ。お前がなりたい形に、俺が手を貸すだけだ」


 ろくろのペダルを踏む。

 ウィーンというモーター音が響き、台が回り始める。

 今までの匠の手つきとは違っていた。力任せにねじ伏せるのではなく、土の回転に身を委ね、指先で対話するように。

 土が伸びたがっている方向へ。土が膨らみたがっている場所へ。

 そこにはもう、迷いはなかった。ただ、太古の海と語り合う静かな時間だけが流れていた。


三、炎の祝祭


 数日後、窯焚きの日がやってきた。

 赤松窯の心臓部である「登り窯」。山の斜面に沿って階段状に築かれたその窯は、巨大な生き物が伏せているようにも見える。

 今回の窯焚きは、匠にとって特別な意味を持っていた。父が死んで初めて、あるじとして火を入れるのだ。今までは父の指示に従って薪をくべるだけだったが、今回はすべての責任が自分にある。温度管理、酸素の供給、焼き上がりの色。すべてを一人でコントロールしなければならない。


「頼むぞ」

 神棚に祈りを捧げ、焚き口に薪をくべる。パチパチと爆ぜる音と共に、炎が勢いよく立ち昇った。

 その間、あのモジャモジャはずっと匠の傍らにいた。薪の山の影に隠れたり、時折、心配そうに窯の覗き穴を見上げたりしている。


 窯焚きは三日三晩続く。不眠不休の戦いだ。

 初日は「あぶり」と呼ばれる、窯全体を温め水分を飛ばす工程。静かに、ゆっくりと温度を上げていく。

 二日目に入ると、本格的に温度を上げていく。一千度を超え、窯の中は白熱の世界へと変わる。


 そして二日目の夜。最も神経を使う「攻め焚き」の時間帯がやってきた。

 窯の中の温度は1200度を超えようとしている。釉薬が溶け、土が焼き締まる重要な局面だ。

「温度が……上がらない」

 温度計を見つめる匠の額に脂汗が滲む。

 薪をくべても、思ったように温度計の針が動かない。湿気のせいか、気圧のせいか。焦りが生まれそうになる。ここで温度が下がれば、作品はすべて失敗作となる。

 (落ち着け。物語のクライマックスは、いつだって苦しいものだ)

 高村タカシの小説の主人公たちが乗り越えてきた数々の修羅場を思い出し、匠は自分を奮い立たせる。父ならどうする。風を読むんだ。炎の色を見るんだ。


 ふと傍らのモジャモジャを見ると、炎の照り返しを受けて赤く染まり、ゆらゆらと揺らめいていた。その姿は、まるで小さな炎の精霊のようだ。

 その時、窯の中から不思議な音が聞こえてきた。


 シャン、シャン、シャン……。


 それは鈴の音のようでもあり、ガラスが触れ合うような繊細な音色でもあった。

 幻聴ではない。確かに聞こえる。

 音に誘われるように、モジャモジャが窯の空気穴へと近づいていく。

「おい! 何してる!」

 止める間もなかった。モジャモジャは、スルリとその灼熱の穴の中へ入ってしまった。


「おい! 燃えちまうぞ!」

 匠が叫ぶと同時に、空気穴から強烈な光が溢れ出した。

 そして再び、匠の脳裏にイメージが流れ込んでくる。


 今度の映像は「歓喜」そのものだった。

 窯の中で、土の粒子一つ一つが、炎の熱を受けて踊り狂っている。

 お祭りだ。これは祝祭なのだ。

 固体としての形を捨て、ドロドロに溶け合い、隣り合う粒子と融合し、新たな結晶構造へと組み変わっていく。

 それは「死」ではなく「誕生」だった。

 土と炎が恋をして、激しく抱き合い、セラミックへと生まれ変わる。

 モジャモジャは、その炎の渦の中心で踊っていた。シャンシャンという音は、土がガラス質へと変わる瞬間の産声だったのだ。彼が指揮者のように腕を振るうたびに、炎の色が赤から橙、そして白へと変わっていく。


(もっとだ! もっと熱をくれ! 俺たちは変わりたいんだ!)


 声なき声が聞こえた気がした。モジャモジャの声か、それとも土の声か。

 匠は突き動かされるように薪を掴んだ。

「わかった! 行くぞ!」

 躊躇なく薪を放り込む。

 マニュアル通りの手順ではない。炎の色を見極め、土の要求に応えるように、呼吸を合わせて薪をくべる。

 ゴウッ! と窯が唸りを上げる。

 煙道から火柱が立ち昇り、夜空を焦がす。


「燃えろ! 全部焼き尽くして、新しく生まれ変われ!」


 汗が蒸発し、喉が焼け付く。皮膚がジリジリと熱い。それでも手は止まらない。

 自分自身の迷いも、不安も、すべてこの炎にくべてやる。

 シャンシャンシャン……。

 鈴の音は最高潮に達し、夜の山に響き渡った。それは、この世ならざる美しい合奏だった。

 匠は、自分が人間であることを忘れ、ただ炎に仕える下僕となり、同時に炎を操る魔術師となって、朝が来るまで薪をくべ続けた。


四、偶然の贈り物と、物語の結末


 一週間後。窯出しの朝がやってきた。

 数日間の冷却期間を終え、窯の入り口を塞いでいたレンガを崩す。

 まだ熱気の残る窯の中に、匠は慎重に入っていった。

 すすと灰の匂い。戦いの後の静けさ。

 棚板の上に並んだ器たち。成功か、失敗か。この瞬間が、陶芸家にとって最も恐ろしく、そして最も幸福な瞬間だ。


 その一つを手に取った瞬間、匠は息を呑んだ。


「これは……」


 それは、直径三十センチほどの大皿だった。

 深い藍色の中に、夕焼けのような緋色が複雑に混じり合い、星雲のように散りばめられた銀色の結晶が煌めいている。

 窯変ようへん

 炎の当たり具合や灰の掛かり方によって、予期せぬ色や模様が生まれる現象。だが、これはただの偶然を超えていた。

 それはまるで、あの夜に見た「土の記憶」――深海の青と、火山の赤と、宇宙の星々が、一つの器の中に凝縮されたかのようだった。


「すごい……」

 自分の手で作ったものとは思えなかった。ここには、作為がない。ただ自然の力が、あるべき姿で結実している。


「ほう。これはまた、饒舌な器が生まれたもんだ」


 背後から声がした。

 驚いて振り返ると、入り口に高村タカシが立っていた。いつもの作務衣姿で、少し驚いたように目を見開いている。手には手土産の酒瓶がぶら下がっている。


「高村先生……」

「気になってね。様子を見に来たんだが……どうやら心配は無用だったようだ」


 高村はゆっくりと近づき、匠の手にある大皿を受け取った。

 光にかざし、様々な角度から眺める。その目は、優れた物語を読むときの少年のように輝いていた。批評家の目ではなく、一人の感動した読者の目だった。


「聞こえるよ、匠くん。この器からは、途方もない時間が聞こえてくる。深海の静寂も、火山の咆哮も、そして……君が苦悩し、炎と格闘した夜の叫びも」


 高村は満足げに頷き、皿を匠に返した。

「君は、翻訳者になれたんだね。土の言葉を伝える、一流の翻訳者に」


 その言葉は、どんな賞賛よりも匠の胸に響いた。全身の力が抜け、へなへなと座り込みそうになるほどの安堵感が押し寄せた。

「ありがとうございます。……でも、僕一人の力じゃありません。不思議な『先生』がいたんです」


「先生?」

 高村が首を傾げる。

 匠は、あのモジャモジャのことを話そうとして、ふと言葉を止めた。

 工房のどこを見渡しても、あの灰色の塊の姿はなかった。窯出しの前から、一度も見ていない。

 あれは幻だったのか。それとも、役目を終えて土に還ったのか。

「いえ……なんでもありません」


 匠は再び、あの美しい窯変の大皿を手に取った。

 よく見ると、皿の高台(底の部分)の近くに、奇妙な模様が焼き付いているのに気づいた。

 灰が降りかかり、溶けて固まった跡だ。だが、その形状は偶然にしては出来すぎていた。

 丸っこくて、モジャモジャとした輪郭。

 それは、あの不思議な生き物がうずくまっている形に、そっくりだった。


「ふっ……」

 匠は思わず吹き出した。目頭が熱くなる。

「なんだよ。ちゃんとサイン残していきやがって」

 あいつは、ここにいる。この皿の一部となって、永遠に生き続けるのだ。


「おや、面白い模様だね」

 高村が覗き込む。

「まるで、小さな守り神がそこに座っているようだ」


「ええ。きっと、そうなんです。この窯の、守り神です」


 匠は工房の棚から、父と高村がよく酌み交わしていた日本酒の一升瓶と、二つの猪口を取り出そうとした。だが手を止めた。

「先生、せっかくですから」

 焼き上がったばかりのその大皿をテーブルに置き、トクトクと酒を注ぐ。大皿に満たされた酒が、器の宇宙を揺らし、黄金色の海となる。


「高村先生。最初の一杯、付き合っていただけませんか。豪快ですが」

「これはいい。君の物語の完成に、乾杯しよう」


 夕日が差し込む工房で、二人は大皿を挟んで向かい合った。

 匠は器に口をつけ、酒をすすった。

 五臓六腑に染み渡る酒の味は、土と炎、そして少しだけ埃っぽい、懐かしい味がした。あいつの匂いがした。


「それにしても」

 高村タカシは酒を味わった後、懐から手帳を取り出しながらニヤリと笑った。ペン先を走らせる音が心地よく響く。

「『窯変の守り神』……次はそんなタイトルの短編でも書いてみようかな。若き陶芸家と、不思議な精霊の物語だ」


 匠は笑った。憑き物が落ちたような、屈託のない笑顔だった。

「先生には敵わないな。でも、その物語のモデル料、この皿一枚じゃ足りませんよ」

「高くつきそうだな。まあ、出世払いで頼むよ」


 赤松窯の煙突から、今日もまた、見えない煙が立ち昇っていく。それは創造の熱気だ。

 そこにはもう、偉大な父の影に怯える若者の姿はなく、土の声を聞き、炎と共に生きる一人の陶芸家が立っていた。

 足元の影の中で、何かがモジャモジャと動いた気がしたが、匠は気づかないふりをして、次なる粘土へと手を伸ばした。


(了)


何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。

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