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Bar 夢幻の客(執筆中)

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりでしたが、御指摘の内容等を考え、別々に本来考えたものを新たにアップします。

一、金曜日の儀式


 東京の空は、いつも薄い灰色をしている気がする。

 ビルの谷間を縫うように吹く風は、どこか埃っぽく、そして冷たい。


 神保町にある小さな出版社で校閲として働く佐々木栞しおりは、重たい鞄を肩に食い込ませながら、地下鉄の階段を上っていた。時刻は二十一時を回っている。

 金曜日の夜。

 世間では「華金」などと呼ばれ、解放感に満ちたサラリーマンたちが居酒屋へと吸い込まれていく時間帯だ。すれ違う人々の顔には、アルコールによる紅潮と、週末への安堵が浮かんでいる。


 栞は、そんな喧騒から逃れるように、足早に路地裏へと向かった。

 目当ては、いつものコンビニエンスストアだ。

 自動ドアが開くと、冷房の効いた無機質な空気が肌を撫でる。彼女は迷うことなくワインコーナーへ直行した。

 並んでいるボトルを眺める時間は、彼女にとって至福のひとときへのプレリュードだ。今日は奮発しよう。そう決めていた。

 手に取ったのは、二千円ほどのボルドーの赤。普段の倍の値段だ。それから、チーズコーナーでカマンベールを一つ。クラッカーも忘れない。


 レジで会計を済ませ、ビニール袋を提げて店を出る。

 アパートまでの帰り道、古い街灯が点滅しているのを見上げながら、栞は今日の出来事を反芻した。


「佐々木さん、また一人? 寂しい人だねえ。週末くらい誰かと飲みに行けばいいのに」


 帰り際、編集長に投げかけられた言葉だ。悪気がないのは分かっている。彼は昭和の価値観をそのまま引きずっているような人で、「飲みニケーション」こそが正義だと信じているのだ。

 けれど、その言葉は栞の胸に小さな棘となって突き刺さっていた。

「寂しい人」。

 二十八歳、独身。彼氏はいない。友人も少ない。休日は家で本を読んで過ごすことが多い。

 確かに、客観的に見ればそうかもしれない。

 でも、と栞は心の中で反論する。私は寂しいわけじゃない。ただ、静寂を愛しているだけなのだ。


 築三十年を超える木造アパート「月見荘」。

 その二階の角部屋が、栞の城だ。

 鍵を開け、重い鉄の扉を押し開ける。玄関で靴を脱ぎ揃え、部屋の明かりをつける前に、彼女はまず厚手の遮光カーテンをきっちりと閉めた。

 外の世界を遮断する。それが儀式の始まりだ。


 間接照明だけを灯し、Bluetoothスピーカーからビル・エヴァンスのピアノを流す。

 微かな音量。雨音のような旋律が、部屋の空気を満たしていく。

 栞は買ってきたチーズを皿に盛り、ワインのコルクにオープナーを突き刺した。

 きゅっ、きゅっ、という摩擦音。

 そして。


 ――ポン。


 小気味よい音が響いた瞬間、世界が一変した。


 視界の端がぐにゃりと歪む。まるで水彩絵の具を水に落とした時のように、現実の景色が滲み、混ざり合い、再構築されていく。

 六畳一間の安アパートの壁紙は、古びたレンガ造りの重厚な壁へと変わった。

 積み上げられた文庫本の山は、年代物のウイスキーボトルが並ぶバックバーへと姿を変える。

 粗末なローテーブルは、一枚板の豪奢なカウンターへ。


 そして、そのカウンターの内側には、「彼」がいた。


「いらっしゃいませ」


 鼓膜を震わせる音ではない。心に直接響く、深く、渋いバリトンの響き。

 そこに立っていたのは、人間ではなかった。

 身長は二メートルはあるだろうか。真白い燕尾服を着ているように見えるが、よく見ればそれは服ではなく、彼自身の純白の毛並みだった。

 長い手足。そして、顔には目も鼻もない。

 のっぺらぼうのようだが、不思議と恐怖感はない。胸元には蝶ネクタイのような黒い模様があり、それがどこか愛嬌を感じさせた。


 ここはこの世で私だけが知っている『Bar 夢幻むげん』。

 そして彼は、この店の無口なマスターだ。


 栞は慣れた様子で、カウンター席(に見立てた座椅子)に座った。

「こんばんは、マスター。今日は奮発したのよ」

 栞が現実のワインボトルを掲げると、マスターの世界ではそれが年代物のクリスタルデキャンタに見えているらしい。彼は恭しく一礼し、優雅な手つきでそれを受け取る仕草をした。


 彼の手には何もない。けれど、空中で長い指を振ると、カラン、コロンと氷がグラスに当たる音が脳内で再生される。

 シャカシャカシャカ。

 架空のシェイカーを振るリズムは、流れているジャズのテンポと完璧にシンクロしていた。


 彼が虚空からグラスを滑らせるようにして、栞の前に差し出す。

 栞は現実のワイングラスに注がれた赤ワインを口に含んだ。

 芳醇なブドウの香りと渋み。

 しかし、次の瞬間、その味わいは別次元のものへと昇華された。


『今日のカクテルは、”古代魚の見た夕焼け”です』


 マスターの声が響くのと同時に、舌の上で爆発的なイメージが弾けた。

 太古の海の塩気。

 マグマのように熱く、けれどどこか懐かしい温かさ。

 視界に広がるのは、人類がまだ誕生していない時代の、燃えるような赤い空と、それを映し出す原始の海だ。巨大な魚影が悠々と頭上を通り過ぎていく。


 栞は思わず、ほうっと深いため息をついた。

「……美味しい。さすがね、マスター」

 現実のワインの味を超え、五感すべてを刺激する極上の体験。これこそが、彼女がこの店に通い詰める理由だった。


 マスターは顔のない頭をわずかに傾げ、長い指をちょいちょいと動かして催促した。

 栞は苦笑する。

「分かってるわよ。お代、でしょう?」


 そう。この店はお代が変わっている。

 金銭ではない。

 この店の通貨は、「客の悲しみ」だ。


 栞はワインをもう一口含み、今日あった出来事をポツリポツリと語り始めた。

「今日ね、上司に言われたの。『寂しい人だ』って」

 言葉にすると、胸の奥にあった棘が再びうずいた。

「私、一人が好きなの。誰かと無理に話を合わせて、愛想笑いをして、自分の時間を削るのが怖いの。でも……」


 栞はグラスを見つめたまま続ける。

「でも、そうやって壁を作っている自分が、時々ひどく冷たい人間に思えることがある。みんなが当たり前にできることができない。その劣等感が、寂しさに似た何かを連れてくるの」


 彼女が愚痴をこぼすごとに、体から黒い霧のようなものが滲み出していくのが見えた。

 マスターはそれを、目に見えないスプーンですくい取るような仕草をする。そして、口のない顔のあたりへ運び、モグモグと食べる動作をした。

 咀嚼音はない。けれど、彼がそれを飲み込むたびに、栞の心がふわりと軽くなるのを感じた。


 彼が「悲しみ」を平らげると、お返しがやってくる。


『では、お釣りです』


 脳内に流れ込んでくるのは、圧倒的な映像美だった。

 遥か遠く、中央アジアの草原を渡る風の記憶。馬のいななきと、草の匂い。

 誰も知らない地下洞窟で、青白く光る苔の呼吸。静寂の中に響く水滴の音。

 深海で囁き合うクジラたちの、低く重厚な歌声。


 嫌な感情が消え、代わりに壮大で美しい物語が心を満たしていく。

 上司の言葉も、世間の目も、ちっぽけなことに思えてくる。

 世界はこんなにも広く、美しく、謎に満ちているのだから。


 これが私の、完璧な週末の過ごし方。

 誰にも邪魔されない、私だけの聖域。


二、侵入者


 そんな平穏な日々に、変化が訪れたのは三ヶ月後のことだった。


 きっかけは、社内のカフェテリアでの些細な会話だった。

「佐々木さん、その本、僕も好きなんです」

 声をかけてきたのは、営業部の牧田という男性だった。

 栞が読んでいたのは、少しマイナーな海外文学だった。共通の話題を持つ人と出会うのは稀で、栞は珍しく会話を弾ませた。


 牧田は穏やかな人だった。

 営業職とは思えないほど物静かで、言葉を選んで話すタイプだった。彼もまた、週末は一人で映画を観たり、本を読んだりして過ごすのが好きだと言った。

「似てますね、私たち」

 牧田が照れくさそうに笑ったとき、栞の心に小さな灯がともった気がした。


 何度か食事を重ね、自然な流れで交際が始まった。

 週末、彼が栞の部屋に来るようになった。あるいは、栞が彼の部屋へ行くこともあった。


 彼と飲むワインも、美味しかった。

 同じ映画を観て感想を語り合う時間は楽しかった。

 寒い夜、誰かと体温を分け合って眠る安らぎを知った。

「寂しい人」というレッテルが、剥がれ落ちていくような気がした。


 けれど。


 彼が私の部屋にいる時、『Bar 夢幻』は開店しなかった。

 栞がどれだけ心を澄ませても、部屋の風景が歪むことはなかった。

 白い毛並みのマスターは、どこへ行ったのか姿を見せない。


「……ねえ、栞」

 ある夜、二人でワインを飲んでいる時、牧田が不意に言った。

「ん? なに?」

「栞って、本当に何も話さないね」

 彼の声には、非難の色はなく、ただ純粋な寂しさが滲んでいた。

「え……そうかな? 今も話してるじゃない」

「そうなんだけど……なんていうか、核心に触れさせてくれないというか。君が何を考えているのか、たまに分からなくなるよ」


 栞はグラスを握る手に力を入れた。

 図星だった。

 彼女は牧田に、自分の内側の世界を見せていなかった。

 見せられるわけがなかった。

「私にはね、白い毛玉のお化けが見えるの。彼が私の悲しみを食べてくれるの」

 そんなことを言えば、気味悪がられるに決まっている。あるいは、精神的な問題を疑われるかもしれない。


 栞にとって、牧田との関係は「現実世界」での成功の証だった。

 普通に恋をして、普通に幸せになる。

 そのためには、「普通の女性」でいなければならない。

 『Bar 夢幻』の存在は、現実逃避の象徴だ。現実が充実していれば、あんな場所は必要ないはずなのだ。


「……ごめん。私、口下手だから」

 栞は曖昧に微笑んで誤魔化した。

 牧田はそれ以上追及しなかったが、二人の間に微かな溝が生まれた瞬間だった。


 それから数週間、栞は意識的に『Bar 夢幻』のことを忘れようとした。

 マスターが現れないのは、私が幸せだからだ。悲しみがないから、彼はお代をもらえない。だから店を開かないのだ。

 そう言い聞かせた。


 しかし、心の渇きは癒えなかった。

 牧田との時間は穏やかだったが、どこか物足りなかった。

 彼との会話は楽しいけれど、マスターがくれるあの圧倒的な「物語」のような昂揚感はない。

 古代魚の見た夕焼け。草原の風。深海の歌。

 あの鮮烈なイメージが恋しくてたまらなかった。


 私は、何て強欲なのだろう。

 現実の幸せを手に入れたのに、まだ幻影を求めているなんて。


三、別離と再会


 季節は巡り、冬の足音が聞こえ始めた頃。

 終わりは唐突に訪れた。


「別れよう」

 牧田の部屋で、彼が静かに言った。

「……どうして?」

 栞の声は震えていた。予想していなかったわけではない。最近の二人の空気は、どこか冷え切っていたからだ。


「君と一緒にいると、自分が透明人間になったような気がするんだ」

 牧田は悲しげに目を伏せた。

「君は僕を見ているようで、僕の後ろにある何か別のものを見ている気がする。君の世界には、俺が入る隙間がないみたいだ」


 何も言えなかった。

 彼の言葉は残酷なほど正しかった。

 私は彼を通して、自分の孤独を埋めようとしていただけだったのかもしれない。そして、彼と一緒にいながら、心のどこかでマスターのいるあの店を探していたのだ。


「ごめんなさい」

 謝ることしかできなかった。


 アパートへの帰り道、冷たい北風が吹き荒れていた。

 久しぶりに訪れた、完全なる孤独。

 部屋に戻ると、そこはいつもの六畳一間だった。牧田の痕跡は、彼の使っていた歯ブラシとマグカップくらいしか残っていない。


 金曜日の夜だった。

 栞は震える手で、戸棚の奥にしまってあったとっておきのヴィンテージワインを取り出した。いつか二人で飲もうと思って買っておいたものだ。

 栓を抜く。

 コルクが抜ける音が、乾いた音を立てて響く。


 グラスに注ぐと、黒に近い深紅の液体が揺れた。

 一口飲む。

 美味しいはずなのに、味がしない。ただ、苦いだけだ。


 涙が溢れて止まらなくなった。

 寂しい。

 悲しい。

 自分の不器用さが憎い。

 誰かと繋がりたいと願いながら、誰かを拒絶してしまう自分が嫌いだ。

 結局、私は一人なのだ。あの編集長が言った通り、「寂しい人」なのだ。


「うっ……ううっ……」

 声を殺して泣いた。膝を抱え、世界の終わりに取り残されたような絶望感に浸っていた。


 その時だった。


 ――シャンシャンシャン。


 澄んだ鈴の音が、部屋の隅から聞こえた。

 幻聴ではない。はっきりとした、それでいてどこか遠くから響くような音色。


 ハッとして顔を上げる。

 涙で滲んだ視界の中で、世界が歪み始めていた。

 壁がレンガに変わり、テーブルがカウンターに変わる。

 そして。


「……マスター」


 彼がいた。

 いつもの白い燕尾服のような毛並み。顔のないのっぺらぼう。

 彼はカウンターの中で、ずっとそこにいたかのように静かに佇んでいた。


 マスターは何も言わない。

「おかえり」とも、「久しぶり」とも、「どうして今まで来なかった」とも。

 ただ、長い腕をカウンターにつき、静かに栞を見つめている(ような気配をさせている)。


 その沈黙が、今の栞には何よりも優しかった。

 言葉はいらない。理由もいらない。

 ただ、ここに「居てくれる」こと。それだけで十分だった。


「マスター……私、やっぱりダメだったよ」

 栞は涙を流しながら、堰を切ったように話し始めた。

「普通になろうとしたの。現実を生きてみようと思ったの。でも、彼を傷つけただけだった。私の心には穴が開いていて、それを埋めることばかり考えてた」


 慟哭と共に、栞の体から大量の「悲しみ」が溢れ出した。

 それはいつもより濃く、重く、粘り気のある黒いタールのような感情だった。失恋の痛み、自己嫌悪、孤独への恐怖。すべての負の感情が混ざり合った混沌。


 マスターは動じなかった。

 彼はその巨大な悲しみの塊を、丁寧に、慈しむように両手ですくい上げた。

 そして、ゆっくりと口のない顔へ運び、時間をかけて飲み込んでいく。

 彼が飲み込むたびに、栞の胸のつかえが取れていく。呼吸ができるようになる。心臓の痛みが和らいでいく。


 すべてを食べ終えると、マスターはふう、と満足げな息をついた(ように見えた)。

 そして、いつものように指を振る。

 カラン、コロン。

 シャカシャカシャカ。


 彼が差し出したカクテルの名は――


『雨上がりの虹の根元』


 そのイメージが脳内に広がった瞬間、栞は息を飲んだ。


 激しい嵐が過ぎ去った後の世界。

 空は洗われたように澄み渡り、突き抜けるような青が広がっている。

 目の前には巨大な虹がかかっている。七色の橋。

 そして視点は、その虹の「根元」へと降りていく。


 そこには、キラキラと輝く無数の宝石のような雨粒が眠っていた。

 草葉の上で、水溜まりの中で、光を反射して輝く雫たち。

 一つ一つの雫の中に、小さな世界が映り込んでいる。


 悲しみは、嵐のようなものだ。

 過ぎ去った後には、こんなにも美しい景色を残していく。

 涙は無駄ではない。それは心の大地を潤し、新たな物語を育てるための肥料なのだ。


 マスターのカクテルが、言葉以上に雄弁にそう語りかけていた。


 栞は涙を拭い、グラスを傾けた。

 甘く、爽やかで、ほんのりと切ない味。

 それが喉を通ると、体の芯から力が湧いてくるのを感じた。


「……そうね。私は一人じゃない」


 呟いた言葉は、以前とは違う響きを持っていた。

 物理的には一人かもしれない。けれど、私の世界はこんなにも豊かだ。

 時空を超えた記憶、語られざる物語、そしてこの不思議な友人。

 これらと繋がれることは、孤独ではない。むしろ、誰よりも贅沢な時間なのだ。


 牧田との時間は無駄ではなかった。

 彼のおかげで、私は自分が何者なのかを知ることができた。

 私は、物語を愛し、静寂を愛し、この幻想の世界を必要とする人間なのだ。

 それでいい。それが私なのだから。


四、共鳴する魂


 カクテルの余韻に浸りながら、ふと、栞はある記憶を呼び起こしていた。


 それは以前、仕事で校閲をした雑誌のコラムだった。

 少し変わったライターが書いた記事で、タイトルは『都市伝説の正体』といったようなありふれたものだったが、内容は奇妙なほど具体的だった。


『世界には、忘れ去られそうな記憶や、誰かの強い想いを食べて生きる不思議な生き物がいるらしい。彼らは白い毛玉のような姿をしていて、選ばれた人間にだけ、その対価として「物語」を見せるのだという』


 その時は、よくできた創作だと思って読み流していた。

 けれど今なら分かる。あれは創作ではない。実体験だ。

 あのライターにも、見えていたのだ。


 ライターの名前は確か、高村といったか。

 三十代のフリーライター。

 彼もまた、私と同じこの店の「常連客」なのだろうか。それとも、マスターには兄弟がいるのだろうか。


 栞は想像する。

 この東京のどこか、別の部屋で、別の誰かが同じように孤独な夜を過ごしている。

 そして、その傍らには、白い毛玉の怪物が寄り添っているのかもしれない。

 高村というライターも、私と同じように、社会とうまく折り合いをつけられず、物語の世界に救いを求めているのかもしれない。


 会ったことはない。これからも会うことはないだろう。

 けれど、その存在を感じるだけで、不思議な連帯感が生まれた。

 私たちは、秘密を共有する共犯者だ。

 目に見えないネットワークで繋がった、孤独な魂たちの同盟。


 栞は涙で潤んだ目で、目の前の奇妙で愛おしいマスターに微笑みかけた。

 彼は何も言わず、ただ静かにグラスを磨く仕草をしている。

 その白さは、どんな闇夜でも消えることのない道標のように見えた。


「ありがとう、マスター。最高の味よ」


 心からの感謝を込めて言うと、マスターは燕尾服の裾をふわりと揺らし、満足げに深く一礼した。

 その仕草は、どんな一流ホテルのコンシェルジュよりも優雅だった。


 夜は更けていく。

 窓の外には、都会の冷たい風が吹いている。

 しかし、この部屋の中だけは暖かかった。


 東京の夜の片隅で、二つの孤独な魂が――栞と、どこかにいる高村とが――それぞれの心の部屋で極上の物語に酔いしれていた。

 空に浮かぶ月は、静かに二人を照らしている。

 それは、彼らの孤独を祝福するかのように、青白く、美しく輝いていた。


 栞は新しいページをめくるように、明日への希望を胸に抱いた。

 また、ここに来よう。

 悲しみがある限り、物語は終わらないのだから。

何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。

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