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雨宿りの立ち飲み屋と透明な客(執筆中)

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。

一、灰色のゲリラ豪雨と、迷子の羅針盤


東京の空は、いつだって意地悪だ。

田舎から上京して三ヶ月。二十歳の**高村タカシ**は、未だにこの街の気まぐれな天候も、物理的な距離の近さに反比例するような人の心の遠さも、そして何より自分自身のこの街での立ち位置さえも掴めずにいた。


思い返せば、この街への違和感は上京初日から始まっていた。

満員電車でのことだ。巨大なリュックを背負い、不慣れな足取りで乗り込んだタカシの目の前で、杖をついた老婆がよろめいた。

タカシが反射的に席を譲ろうと立ち上がった瞬間、その空いたスペースに、横からスマートフォンを見つめたままのサラリーマンが無言で滑り込んだのだ。

「あ……」

声を上げる間もなかった。サラリーマンは老婆の存在など視界に入っていないかのように、あるいは認識していても無視することを選んだかのように、指先だけで画面を操作し続けた。老婆もまた、それが当然の摂理であるかのように、小さく頭を下げてドア付近へ移動していった。

誰も何も言わない。誰も顔を上げない。

無数に人がいるのに、そこには「個」しかない。他者への無関心が、まるで透明なカプセルのように一人一人を覆っている。それが、タカシが最初に感じた東京の肌触りだった。


そして今、六月の湿った風がビル風となって吹き荒れる夕暮れ時。

大学の講義を終え、渋谷の雑踏を逃げるように歩いていたタカシの頭上で、突然、世界を引き裂くような雷鳴が轟いた。

ドォォン! という腹に響く音と共に、空の底が抜けた。

次の瞬間、バケツをひっくり返したような豪雨が、容赦なくアスファルトを叩きつけ始めた。


「うわっ、マジかよ……!」


天気予報は晴れだったはずだ。傘なんて持っていない。

周囲の歩行者たちは、まるで訓練された兵士のように一斉に折り畳み傘を開いたり、地下鉄の入り口へと滑り込んだりしていく。その手際の良さ、東京という戦場での生存能力の高さに、タカシだけが取り残されたような疎外感を覚える。

ただ呆然と立ち尽くし、瞬く間にずぶ濡れになった。冷たい雨がシャツを肌に張り付かせる。


「すいません、ちょっと通して……」


タカシは軒下へ逃げようと、人波をかき分けようとした。

だが、誰も道を譲らない。

濡れたくない一心で早歩きする人々が、タカシの肩にガンガンとぶつかっていく。

「チッ」

舌打ちが聞こえた。

見ると、ブランド物のバッグを雨から守るように抱えた女性が、濡れたタカシの服が触れたことを露骨に嫌がり、睨みつけていた。彼女の瞳には、タカシという人間ではなく、「自分の服を汚す障害物」しか映っていないようだった。

さらに、傘をさした男性がタカシの横を通り過ぎる際、傘の骨から滴るしずくがタカシの顔にかかった。男性は気づいているはずなのに、謝るどころか視線も合わせず、足早に去っていった。


「最悪だ……」


髪から滴る雨が視界を遮る。逃げ場を探して視線を走らせる。

煌びやかなファッションビルの軒先は、すでに雨宿りの人々で埋め尽くされている。彼らはスマホで「雨ヤバい」と投稿することには熱心だが、少し詰めて濡れている他人を入れてあげる余裕など持ち合わせていない。

おしゃれなカフェは満席で、ガラス越しに見える談笑する人々が、別の世界の住人のように眩しく、そして残酷に見えた。彼らと自分を隔てるガラス一枚が、永遠に超えられない壁のように思える。


「俺の居場所なんて、どこにもないんじゃないか」


そんな弱音を吐きながら、タカシは裏路地へと走った。どこでもいい、屋根のある場所へ。少しでも体温を守れる場所へ。

この冷たい街で、唯一温かさを残していそうな場所を探して。

息を切らして飛び込んだのは、赤提灯が揺れる古びた立ち飲み屋の軒先だった。


「いらっしゃい! 雨すごいねぇ!」


引き戸が少し開いており、中から威勢のいい声と、焼き鳥の煙が漏れ出してきた。

「え、あ、いや……」

タカシは躊躇した。

まだ学生だ。酒はサークルの飲み会で安いのを少し飲む程度で、こういう常連客で賑わっていそうな「大人の聖域」のような店は敷居が高い。自分のような若造が足を踏み入れていい場所ではない気がした。

だが、背後の雨足は強まるばかりだ。雷鳴がすぐ近くで響き、アスファルトを叩く雨音が耳を聾するほどになる。

「濡れちゃったね兄ちゃん、中入りなよ! 風邪引くぞ!」

店の中から、赤ら顔のサラリーマンが手招きしている。

背に腹は代えられない。タカシは意を決して、重たい引き戸に手をかけ、暖簾をくぐった。


店内は、すし詰め状態だった。

カウンターだけの狭い店内に、スーツ姿のサラリーマン、作業着のおじさん、派手な服のお姉さんたちが、肩を寄せ合うようにひしめいている。

湿った服の匂い、タバコの紫煙、アルコールの熱気、そして煮込みの甘辛い香り。

それらが混ざり合って、むっとするような濃密な空気が充満していた。


「すいません、ちょっと詰めてもらえますかー」

店主の掛け声と共に、客たちが少しずつ体を斜めにして、タカシ一人分のスペースを空けてくれた。

「あ、すいません……ありがとうございます」

タカシは小さくなって、そのわずかな隙間に滑り込んだ。

右隣には、疲れた顔をした中年のおじさん。左隣には、スマホをいじりながらハイボールを飲む若い女性。

近い。あまりにも距離が近い。

田舎の実家なら、隣の家まで数百メートル離れているのが当たり前だったのに。この街では、赤の他人の体温が伝わってくるほどの距離で酒を飲むのか。

タカシは、自分の輪郭が他人に侵食されるような居心地の悪さに、身を縮こまらせた。


「飲み物は?」

「あ、えっと……レモンサワーで」

とりあえず、一番無難そうなものを頼んだ。


二、再会はレモンサワーの中で


数秒後、ドン、と目の前にジョッキが置かれた。

氷がたっぷりと入った、キンキンに冷えたレモンサワー。

ジョッキの表面には無数の水滴がつき、店内の蛍光灯を反射してキラキラと輝いている。

タカシは逃げるようにジョッキの取っ手を掴んだ。冷たさが指先を刺す。

その時だった。


カラン。


氷が崩れる音がした。

いや、ただ崩れただけではない。

氷と氷の隙間から、何かが「滲み出して」きたのだ。


それは、透明で、ゼリーのような質感を持った、不定形の何かだった。

液体でもなく、固体でもない。水飴をもっとサラサラにして、意思を持たせたような物体。

ジョッキの縁から溢れ出したそれは、カウンターの上でプルンと震え、ソフトボールほどの大きさの塊になった。

透明だが、店内の照明や赤提灯の光を透過して、七色に揺らめいている。

目も口もない。ただの透明な塊だ。

それなのに、タカシの方を向いて「ようこそ、待っていたよ」と言っているような、不思議な懐かしさが込み上げてきた。


「……え?」


タカシは思わず声を上げそうになったが、喉の奥で飲み込んだ。

鼓動が早くなる。恐怖ではない。この感覚、知っている。


記憶の彼方、幼い日の情景がフラッシュバックする。

五歳の頃、高熱を出して寝込んだ雨の日。

母は仕事で忙しく、家には一人きりだった。

天井の木目を数えながら、孤独と熱にうなされていた時、枕元の水差しの中に、こんな「透明なゆらめき」を見た気がする。

あるいは、野原で一人泣いていた時、草露の中にいたかもしれない。

言葉は交わさなかったけれど、ただそこにいて、幼いタカシの不安を吸い取ってくれた、「見えない友達」。

誰にも言わなかったけれど、確かにタカシを支えてくれていた存在。


「お前……あの時の?」


タカシが小声で呟く。

透明な塊――透明モジャは、肯定するかのようにプルンと弾んだ。

そして、カウンターの上を滑るように移動し、タカシの右腕と、隣のおじさんの左腕の間に潜り込んだ。


「うわっ」


タカシは反射的に身を引こうとしたが、すぐに異変に気づいた。

右隣のおじさんは、焼き鳥を頬張りながらテレビのニュースを見ている。

左隣の女性は、SNSの画面をスクロールすることに夢中だ。

彼らの視線は、明らかに透明モジャを「通過」していた。

女性がスマホを持つ手を動かした時、その指先が透明モジャの体をすり抜けたが、彼女は何の反応もしなかった。温度の変化すら感じていないようだ。


(見えてるのは……俺だけなのか?)


タカシは、そっと指先で透明モジャに触れた。

ひんやりとした冷たさと、微かな弾力。

そして、心の奥底がジンと痺れるような、絶対的な安心感。

間違いない。こいつは、俺にしか見えない。

孤独な人間にだけ見える、雨の日の精霊。


「お前……クッションになってくれてるのか?」


透明モジャは、タカシと他人の間に挟まり、不快な接触を防ぐ断熱材のように振る舞っていた。

タカシの心の強張りが、少しだけ解れた気がした。


三、心のノイズと物語の種


レモンサワーを一口飲む。

強烈な炭酸と酸味が、乾いた喉を刺激し、脳を覚醒させる。

「うまい……」

思わず声が漏れた。

大学の飲み会で飲む薄いサワーとは違う。ガツンとくる、生きた酒の味がした。


すると、右腕の透明モジャが、さらに大きく膨らんだ。

そして、その透明な体を通じて、不思議な「音」がノイズ混じりのラジオのように聞こえてきた。


『あーあ、靴グショグショだよ。最悪。明日乾くかな』

『今日のプレゼン、失敗したなぁ……課長に何言われるか。胃が痛い』

『あいつ、既読スルーかよ。もう潮時かな。寂しいな』

『この煮込み、やっぱり美味いな。これがあるから明日も頑張れるか』


それは、店内にいる人々の「心の声」だった。

言葉として発せられていない、頭の中の独り言。

不満、後悔、不安、そして小さな喜び。

透明モジャは、この店に充満する人々の感情を拾い集め、濾過し、タカシに届けているのだ。


タカシは驚いて周囲を見回した。

みんな、平気な顔をして酒を飲んでいる。笑って談笑している。

強い大人たちに見えていた。東京という厳しい街を、鎧を着て歩いている戦士たちだと。

でも、その内側では、誰もがそれぞれの「雨」に打たれていたのだ。

右隣の疲れたおじさんは、リストラの不安を抱えながら、家族のために笑顔を作ろうとしていた。

左隣の派手な女性は、都会の孤独に押しつぶされそうになりながら、デジタルな繋がりに救いを求めていた。


「俺だけじゃ……ないんだ」


タカシはずっと、自分だけがこの街の異物だと思っていた。

方言を隠し、流行りの服を着て、必死に周りに合わせようとしているのに、どこか浮いている自分。

孤独で、弱くて、情けない自分。

けれど、こうして一枚皮を剥いでみれば、みんな同じように弱くて、寂しくて、雨宿りをする場所を探している人間なのだ。

みんな、必死で「大丈夫なふり」をしているだけなんだ。


透明モジャは、タカシの心に巣食っていた「疎外感」という硬い殻を、炭酸の泡のようにシュワシュワと溶かしていった。


その時、ふとタカシの中に、ある感情が芽生えた。

それは「書きたい」という衝動だった。


タカシは文学部に所属していたが、最近は何を書いていいかわからず、筆が止まっていた。

高尚なテーマや、社会派の物語を書かなければならないと思い込んでいた。

だが、違う。

本当に必要なのは、こういう「見えない癒し」なんじゃないか。


幼い頃、熱にうなされた自分を救ってくれた、透明な存在。

今、この狭い店で、見知らぬ人々の隙間を埋めてくれている、この柔らかいクッション。

厳しい現実の中で、誰にも言えない痛みを抱えている人々に必要なのは、解決策や正論ではない。

「ここにいていいんだよ」と肯定してくれる、形のない温もりだ。


(俺が書きたいのは……これだ)


タカシは強く思った。

今の世の中は厳しすぎる。誰もが正しさを求められ、失敗は許されず、常に何かに追われている。

そんな世界で、人々がふと息をつけるような「雨宿りの場所」を作りたい。

文字というツールを使って、この透明モジャのような存在を、読者の心に届けたい。

漠然とした安心感。理由のない肯定。

それがエンターテインメントの、物語の持つ本来の力なんじゃないか。


『兄ちゃん、ここ空いてるから肘つきな』


不意に、右隣のおじさんの声が聞こえた。今度は心の声ではない、肉声だ。

「え?」

見ると、おじさんは体を少し斜めにして、カウンターのスペースを譲ってくれていた。

透明モジャが間に入ってくれたおかげで、おじさんの心の壁も少し低くなったのかもしれない。あるいは、タカシの纏う空気が柔らかくなったのを感じ取ったのか。


「あ、ありがとうございます」

「雨、すごいねぇ。学生さん?」

「はい、地方から出てきたばかりで……」

「そうかそうか。俺も昔は新潟から出てきてさ、最初はビビりまくりだったよ。スクランブル交差点で足が震えたもんさ」

「え、そうなんですか?」


会話が生まれた。

たわいない世間話。天気の話、故郷の話、酒の味の話。

左隣の女性も、ふとスマホを置いて会話に混ざってきた。

「私も地方出身だよ。最初は電車の乗り換えすらわかんなかったもん」

「わかります! 山手線と京浜東北線の違いとか、謎ですよね」

「そうそう! 快速とか急行とか、罠だよねー」


笑いが起きた。

狭い店内に、温かい空気が循環し始める。

透明モジャは、タカシたちの会話の間を行き来しながら、楽しそうにプルプルと震えていた。

その体は、最初は無色透明だったのが、次第にレモンサワーのような淡い黄色や、提灯の赤色、そして人々の温かさを反射して、美しい黄金色のグラデーションを描き始めていた。


それは「空気」そのものだった。

店という空間に漂う、目に見えないけれど確かに存在する「居心地の良さ」。

他人同士が、袖振り合うも多生の縁とばかりに、一時的な連帯感を持つ瞬間。

この透明モジャは、そんな「場の空気」が凝縮して生まれた精霊なのかもしれない。


タカシは二杯目のレモンサワーを注文した。

もう、縮こまっている必要はなかった。

ここは、俺の場所だ。

そして、これから俺が紡ぐ物語も、誰かにとってのこういう場所になるんだ。


四、雨上がりの匂いと、内なる赦し


一時間ほど経っただろうか。

店の外の轟音が、少しずつ静かになってきた。

雷鳴は遠ざかり、激しかった雨音が、シトシトという優しいリズムに変わっていく。


「お、小降りになってきたかな」

店主が入り口の引き戸を開けて、空を見上げた。

湿った夜風が店内に吹き込み、熱気を少しだけ冷ます。


「よし、今のうちだ!」

誰かが言った。

それを合図に、店内の客たちが一斉に動き出した。

グラスに残った酒を飲み干し、小銭をカウンターに置く。

「ごちそうさん!」

「また来るよ!」


それは、まるで示し合わせたような一体感だった。

雨宿りという共通の目的で集まった見知らぬ同志たちが、それぞれの戦場へと戻っていく儀式。


タカシも残りのサワーを喉に流し込んだ。

氷がカランと鳴る。

その時、カウンターの上で透明モジャが大きく跳ねた。


シャン、シャン、シャン……。


店内のあちこちから、涼やかな音が響き渡った。

それは炭酸が弾ける音のようでもあり、たくさんの風鈴が一斉に鳴ったような音でもあった。

タカシにしか聞こえない音。

だが、その音を聞いた客たちの背筋が、不思議とスッと伸びたように見えた。彼らの顔から、少しだけ疲れが取れている気がした。


透明モジャが分裂し、無数の小さな泡となって店内に拡散していく。

それぞれの客の肩や背中に、ポンポンと軽く触れていく。

『行け。大丈夫だ』

『雨は上がった。また歩き出せる』

『君は一人じゃない』

そんなエールを送っているようだった。


タカシの肩にも、小さな泡が留まった。

ひんやりとして、でも芯から勇気が湧いてくるような感触。

それは幼い日に感じた、あの「大丈夫」という感覚そのものだった。


「小説、書けそうだな」


タカシは、口の中でそう呟いた。

今まで、自分が小説を書けないのは、才能がないからだと思っていた。

あるいは、書くべき高尚なテーマが見つからないからだと。

だが、本当は違ったのだ。

タカシはずっと、自分自身を許していなかった。

東京という街で、誰にも馴染めず、弱音を吐き、孤独に怯えている「弱い自分」を、恥ずかしい存在として切り捨てようとしていた。

そんな自分が書く言葉に、価値などないと思い込んでいた。


けれど、この透明モジャは教えてくれた。

弱いままでいいのだと。

濡れた服の冷たさに震え、他人の心の声に怯え、それでも小さな温もりを求めて赤提灯の暖簾をくぐる。

そんな情けない、等身大の自分の中にこそ、本当に書くべき物語の種があるのだと。


あの時、満員電車で老婆に席を譲れなかった自分。

雨の中、舌打ちされて俯いた自分。

それら全てを「なかったこと」にして、格好いい主人公を描こうとしていたから、筆は動かなかったのだ。


(書こう。この弱さを)

(そして、弱いままでも生きていける世界を)


透明モジャが、タカシの心の奥底に沈んでいたヘドロのような自己否定を、炭酸の泡で優しく包み込み、水面へと浮かび上がらせていく。

それは過去の過ちを消し去るのではなく、光に透かして「これも君の一部だよ」と認めてくれるような、静かな儀式だった。

自分を責めるのをやめた時、初めて人は他者に優しくなれる。

そして、その優しさこそが、物語のインクになるのだ。


「ありがとうな」

タカシは心の中で呟いた。

この不思議な透明な客のおかげで、タカシは東京という街の冷たさだけでなく、その奥にある温かさを知ることができた。そして何より、自分が自分であることを許された気がした。


「ごちそうさまでした」


タカシは大きな声で言って、店を出た。

外はまだ霧雨が舞っていたが、傘がなくても歩ける程度だ。

濡れたアスファルトが街灯の光を反射して、黒く輝いている。

空気中に漂う、埃と雨の混ざった匂い。

以前なら「臭い」としか思わなかったその匂いが、今はなぜか「生きている街の匂い」として、愛おしく感じられた。

それは、泥にまみれながらも懸命に呼吸をする、この街の生命の匂いだった。


「兄ちゃん、気をつけてな」


背後から声がした。

さっきまで隣で飲んでいた、新潟出身のおじさんだ。

彼はビニール傘を開きながら、タカシに片手を上げて合図した。

「あ、はい! おじさんも、お仕事頑張ってください」

「おうよ。またどっかで会ったら飲もうな」

「はい!」


おじさんは駅の方へと歩いていった。

名前も知らない。連絡先も交換していない。

二度と会うことはないかもしれない。

でも、この一瞬の繋がりが、タカシの心を確かに温めてくれた。


「……ふふっ」


タカシは自然と笑みがこぼれた。

なんだ、東京も悪くないじゃないか。

みんな、必死で生きてるだけなんだ。

雨に濡れて、震えて、それでもまた歩き出す。

俺も、その中の一人だ。


タカシは空を見上げた。

雲の切れ間から、月が顔を出している。

その光を受けて、水たまりがキラリと光った。

その輝きの中に、一瞬だけ、あの透明モジャが手を振っているのが見えた気がした。


タカシはカバンを背負い直した。

カバンの中には、まだ何も書かれていない真っ白なノートが入っている。

今夜、家に帰ったら、最初の一行を書こう。

格好いい言葉はいらない。

ただ、雨の日のレモンサワーのような、冷たくて、少し苦くて、でも最後にフワッと心が軽くなるような物語を。


タカシは歩き出した。

その足取りは軽く、水たまりを避けるのではなく、あえて跳ねるように踏み越えていった。

シャン、と水飛沫が上がり、それはあの鈴の音のように夜の街に響いた。


それから数年後。

作家となった高村タカシは、インタビューでこう語ることになる。

「僕の物語の原点は、あの雨の日の立ち飲み屋にあります。そこで出会った透明な友人が、僕に『自分の弱さを抱きしめる』ことの意味を教えてくれたんです。物語とは、過酷な世界で生きる僕たちが、自分自身を許すための、見えないシェルターなんですよ」


その言葉の真意を知る者はいないが、タカシの書く小説には、いつもどこか湿った雨の匂いと、その後に訪れる晴れやかな光、そして炭酸のように弾ける希望の音が流れているのだった。


(了)

何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。

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