禁酒明けの琥珀(執筆中)
CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00
「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。
ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。
ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。
御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりなのが始まりです。
一、渇望のカウントダウン
壁掛け時計の秒針が、カチ、カチ、と乾いた音を立てて進んでいく。
その音は、まるで処刑台へと向かう囚人の足音のようでもあり、あるいは救世主の到来を告げるファンファーレへの序曲のようでもあった。
**石川 健三**、五十二歳。
中堅商社の営業部長を務める彼は今、人生で最も長く、過酷な時間の流れを感じていた。
リビングのソファに深く腰掛け、テーブルの上に置かれた一本のボトルを、獲物を狙う猛禽類のような鋭い眼差しで見つめている。
「あと……三分」
掠れた声が漏れた。喉が鳴る。
テーブルに鎮座しているのは、『ザ・マッカラン 18年』。シェリー樽で熟成された、シングルモルトのロールスロイスとも称される逸品だ。
その深みのある琥珀色の液体は、ボトルのガラス越しに妖艶な輝きを放ち、健三を誘惑し続けている。
事の発端は、一ヶ月前の健康診断だった。
『石川さん、肝数値がちょっと……いや、かなり危険水域ですね』
担当医は眉をひそめ、無慈悲な宣告を下した。
『最低でも一ヶ月、完全な断酒が必要です。このままだと、取り返しのつかないことになりますよ』
酒を愛し、酒に愛された男、石川健三にとって、それは死刑宣告に等しかった。
接待の席ではウーロン茶でその場を凌ぎ、部下との飲み会は仮病を使って欠席した。
毎晩の晩酌の代わりに炭酸水をあおり、ノンアルコールビールの虚しい味に涙した夜もあった。
禁断症状に近いイライラ、手の震え(気のせいかもしれないが)、そして何より、心にぽっかりと空いた穴。
だが、健三は耐え抜いた。
愛する妻・**由美子**の「あなた、死にたいの?」という冷徹な一言と、このマッカランを開ける瞬間のためだけに。
「五、四、三、二、一……」
時計の針が重なり、日付が変わった。
十月一日、午前零時。
解禁の時だ。
「よぉぉぉし……!」
健三は立ち上がり、震える手でボトルのネックを掴んだ。
封印のシールを剥がす音が、静寂なリビングに響く。
コルク栓を捻る。キュッ、という抵抗感の後、ポンッという軽快な音がした。
その瞬間、解き放たれた芳醇な香りが鼻腔を直撃した。
ドライフルーツのような甘み、ジンジャーのスパイシーさ、そして樽由来のウッディな香り。
それは一ヶ月間、砂漠を彷徨っていた旅人が、オアシスの水を目にした時の歓喜に似ていた。
「グラス、グラス……」
お気に入りのバカラのロックグラスを取り出し、丸く削った氷を入れる。
トクトクトク……。
琥珀色の液体が氷に当たり、美しい音色を奏でながらグラスを満たしていく。
「いただきます」
誰に対してともなく呟き、グラスを口元へ運ぼうとしたその時だった。
グラスの向こう側、ボトルの影から、何かがヌッと現れた。
「……ん?」
健三は目をぱちくりさせた。
それは、琥珀色の毛並みを持つ、丸々とした毛玉のような生き物だった。
大きさはバスケットボールほどだろうか。毛の色はマッカランの液体とそっくりで、艶やかで美しい。
目も口も見当たらないが、全身から「待ってました!」という強烈なオーラを発している。
「お前……誰だ?」
酔っ払って幻覚を見ているわけではない。まだ一滴も飲んでいないのだから。
毛玉――琥珀モジャは、健三の声など聞こえていないかのように、テーブルの上でポヨンと弾んだ。
その動きは鈍重だった。
以前、どこかで見たことがあるような気がする。そうだ、あれは健三がまだ若かった頃、ひどい二日酔いの朝に枕元で見た毛玉だ。あの時はもっと小さく、痩せていたはずだが。
「まさか、お前……太ったのか?」
琥珀モジャは、プルプルと体を震わせた。
どうやら図星らしい。
こいつもまた、健三の「飲みたい欲求」を一ヶ月間、すぐそばで吸い続けていたのだ。
我慢すればするほど膨れ上がる欲望。それをエネルギーにして、こいつはここまで丸々と成長してしまったらしい。
いわば、健三の我慢の結晶、欲望の化身だ。
「まあいい。お前も飲みたかったんだな?」
健三は苦笑し、グラスを掲げた。
琥珀モジャも、体の一部を突き出して(おそらく手のつもりだろう)、エア乾杯の仕草をした。
二、至福の共犯者
カラン。
氷とグラスが触れ合う音と共に、健三は琥珀色の液体を口に含んだ。
瞬間、時が止まった。
舌の上で転がる液体。体温で温められ、揮発する香り。
喉を通る時の熱さ。食道を滑り落ち、胃の腑に落ちた時の温もり。
そして、鼻から抜ける余韻。
脳内で快楽物質が爆発し、全身の細胞が歓喜の声を上げる。
「ああ……うまい……!」
言葉にならなかった。
ただ「うまい」という言葉だけが、頭の中を埋め尽くす。
五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。一ヶ月間枯渇していた魂が、潤っていくのを感じる。
すると、テーブルの上の琥珀モジャもまた、劇的な反応を見せた。
全身の毛を逆立て、プルプルプルプルと小刻みに震え出したのだ。
それは喜びの舞だった。
健三が感じる至福を、このモンスターが増幅器のように跳ね返してくる。
美味しい。幸せだ。生きててよかった。
そんなポジティブな感情の波動が、琥珀モジャから放射されている。
『最高だろ? なあ、最高だろ?』
声なき声が聞こえるようだ。
「ああ、最高だよ。お前のおかげで、美味さが倍増してる気がするよ」
健三は二口目を飲んだ。
今度はゆっくりと味わう。
すると、琥珀モジャの体がぼんやりと発光し始めた。
その光は、健三の脳裏に不思議な映像を映し出した。
それは、スコットランドのハイランド地方の風景だった。
冷たく澄んだスペイ川の流れ。風にそよぐ大麦畑。
蒸留所のポットスチル(蒸留釜)が並ぶ、神聖な空間。
樽職人がカンカンと槌を振るう音。
そして、薄暗い熟成庫の中で、樽が静かに眠っている光景。
一年、二年、十年、十八年……。
季節が巡り、外の世界がどれほど変わろうとも、樽の中の原酒はただ静かに呼吸し、木と対話し、琥珀色へと変わっていく。
その気の遠くなるような長い時間。
「待つ」という行為の尊さ。
(そうか……)
健三はハッとした。
自分の一ヶ月の禁酒なんて、この酒が経てきた時間に比べれば、瞬きするほどの一瞬に過ぎない。
この一杯は、ただのアルコールではない。時間の結晶なのだ。
それを味わうためには、自分自身もまた、待つ時間が必要だったのかもしれない。
「教えてくれたのか。待つことの意味を」
健三が問いかけると、琥珀モジャは満足げに体を揺らし、テーブルの上を転がった。
その姿は、満腹になった猫のようで、なんとも愛らしい。
その時、ふと健三の頭の片隅に、ある人物の顔が浮かんだ。
大学時代の友人であり、今は人気作家として活躍している**高村タカシ**だ。
先日、久しぶりに会って飲んだ時(健三はノンアルコールだったが)、高村は妙なことを言っていた。
『健三、人間が本当に何かを欲している時、そこには必ず「形」が生まれるんだよ』
高村はグラスを傾けながら、遠くを見るような目で語った。
『作家が物語を渇望する時、インクの匂いのする黒猫が現れるようにね。お前ほどの酒好きが禁酒なんて荒行をしたら、きっと面白い「相棒」が現れるはずだ』
あの時は「作家特有の妄想癖か」と笑って聞き流したが、今ならわかる。
こいつだ。この琥珀モジャこそが、高村の言っていた「相棒」なのだ。
「高村の奴、これを見越していたのか……」
健三は苦笑した。今度会ったら、この不思議な体験を話してやろう。きっと彼は目を輝かせて、「それだ!」と叫ぶに違いない。
そして、この琥珀モジャをモデルにした小説を書くかもしれない。『禁酒明けの琥珀』なんてタイトルで。
三、酔いどれのワルツ
三杯目を飲み干す頃には、健三は完全に出来上がっていた。
一ヶ月ぶりのアルコールは、予想以上に回りが早かった。
世界が心地よく歪み、輪郭が曖昧になっていく。
リビングの照明が、ミラーボールのように滲んで見える。
「うい〜……いい気分だなぁ」
健三はソファに背を預け、天井を見上げた。
琥珀モジャは、いつの間にか健三の腹の上に乗っていた。
重い。バスケットボール大の質量が、ずっしりと腹にのしかかる。
だが、不快ではなかった。むしろ、その重みと温かさが心地よい。
琥珀モジャは、健三の呼吸に合わせて上下し、喉の奥でゴロゴロと音を立てていた。
いや、それは猫のゴロゴロ音ではなかった。
シャン、シャン、シャン……。
微かだが、確かに聞こえる。
鈴の音だ。
どこか遠くの神社で鳴らされているような、あるいは夜空の星が擦れ合うような、清らかで優しい音色。
それが、琥珀モジャの体内から響いてくる。
「なんだ、お前……楽器も弾けるのか」
健三は酩酊の中で呟いた。
その音色は、子守唄のように健三の意識を深い眠りへと誘っていく。
一ヶ月間の緊張、仕事のストレス、健康への不安。
それら全てが、この鈴の音によって浄化されていくようだ。
琥珀モジャの前足(のような部分)が、健三の胸元をふみふみとマッサージする。
『よく頑張ったな』
『えらいぞ、健三』
『もう我慢しなくていいんだ』
そんな労いの言葉が、直接心に染み込んでくる。
妻には言えない弱音も、部下に見せられない疲れも、こいつは全部知っている。
禁酒中のイライラを全部吸い取って、こんなに太るまでそばにいてくれたのだから。
「ありがとな……相棒」
健三の手が、琥珀モジャの毛並みを撫でた。
柔らかくて、少しオイリーで、最高級の毛皮のような手触り。
マッカランの香りがする毛玉。
「ムニャ……もう、飲めないよ……」
健三の意識は、琥珀色の海へと沈んでいった。
夢の中で、彼は高村タカシと一緒にスコットランドの蒸留所を訪れていた。
そこには琥珀モジャが無数にいて、樽の上で楽しそうに跳ね回っていた。
高村は言った。
『見ろよ健三。世界中の酒飲みたちの我慢が、あんなに集まっているぞ』
二人は笑い合い、最高のウイスキーで乾杯した。
四、花丸の朝
チュン、チュン……。
小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む朝日で、健三は目を覚ました。
「ん……」
重い瞼を持ち上げる。
リビングのソファで寝てしまったらしい。首が少し痛い。
「やってしまった……」
健三は青ざめた。
解禁初日から、リビングで寝落ち。
由美子に見つかったら、何を言われるか分からない。また禁酒令が出されるかもしれない。
恐る恐る体を起こす。
しかし、予想していた事態は起きなかった。
「あれ?」
頭痛がない。吐き気もない。
それどころか、目覚めが異常にスッキリしている。
普段なら、これだけ飲んでそのまま寝れば、翌朝は酷い二日酔いに見舞われるはずだ。
だが今は、一ヶ月の禁酒生活で浄化された体のように、内側からエネルギーが満ち溢れている。
肝臓のあたりが、ポカポカと温かい。
「不思議だ……」
健三はテーブルの上を見た。
そこには、半分ほど減ったマッカランのボトルと、空のグラスが置かれていた。
昨夜の記憶が蘇る。
琥珀色の毛玉。不思議な映像。そして、鈴の音。
「夢、だったのかな」
あんなファンタジーな生き物がいるはずがない。
久しぶりの酒で、脳が見せた都合の良い幻覚だったのだろう。
そう結論付けようとした時、健三の視線がある一点に釘付けになった。
グラスの下に敷かれたコースター。
その裏側に、マジックで何かが描かれている。
健三はコースターを裏返した。
そこには、子供が描いたような、歪で、でも力強い「花丸」が描かれていた。
赤色のマジックではない。琥珀色の、何かの染みのようなインクで。
「……!」
自分で描いた覚えはない。由美子だとしたら、もっと達筆だし、そもそも怒って起こすはずだ。
じゃあ、誰が?
健三の脳裏に、あの琥珀モジャの満足げな姿が浮かんだ。
あいつだ。あいつが、禁酒を達成した自分にくれた、ご褒美の印だ。
「ふっ……ははは!」
健三は思わず声を出して笑った。
幻覚じゃなかった。あるいは、幻覚だったとしても、最高に素敵な幻覚だ。
高村の言う通りだ。渇望は形になる。そして、それは時として粋な計らいをしてくれる。
「あなた、何ひとりで笑ってるの?」
由美子が起きてきた。呆れた顔でリビングに入ってくる。
「あーあ、飲んじゃって。また数値悪くなるわよ」
「いや、大丈夫だよ由美子。俺には強力なサポーターがついているからな」
「はあ? 何言ってんの、まだ酔ってるの?」
健三は立ち上がり、大きく伸びをした。
「さあ、朝飯にしよう! 今日は俺が作るよ。最高の鮭定食だ!」
「え、珍しい。雪でも降るんじゃない?」
健三は鼻歌交じりにキッチンへ向かった。
その背中は、昨日までの悲壮感漂う姿とは別人のように、頼もしく、晴れやかだった。
ふと振り返り、テーブルの上のボトルを見る。
朝の光を受けて輝く液体の奥に、一瞬だけ、あの愛らしい毛玉がウインクしたのが見えた気がした。
「次はいつ会えるかな」
「また、とびきりの我慢をした時にな」
どこからか、シャン、と小さな鈴の音が聞こえた。
それは、新しい日常の始まりを告げる、祝福の音色だった。
後日、健三はこの話を高村タカシに語った。
高村は、やはり目を輝かせて言った。
『やっぱりな! 俺の読み通りだ。その話、いただきだ』
そして数ヵ月後、文芸誌に『琥珀色の同居人』という短編が掲載された。
そこに描かれた主人公は、健三そのものだったが、ラストシーンだけは少し違っていた。
小説の中の主人公は、再び禁酒を誓うのだ。
なぜなら、もう一度あの可愛い相棒に会いたいから。
健三は、マッカランのグラスを傾けながら、その結末に苦笑した。
「俺はもう御免だね。……でもまあ、たまには休肝日を作ってやるか」
テーブルの向こうで、見えない琥珀モジャが「それがいい」と尻尾を振った気がした。
(了)
何らかの縁でこの作品に出会っていただき、後書きまで辿り着いていただいた。
御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。
前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。
これからも活動していく励みになりました。心から感謝申し上げます。




