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星し降る夜の乾杯

CWAVE の2026.2/15(日) 21:30-22:00

「みちこの寄り道くまもと話」投稿テーマが「おつまみ」と言うことで、投稿原稿書いてるつもりがこんなストーリになりました。

ラジオで読んでいただくことが目的でもなく、自身の不思議な感覚といただいた「おつまみ」を組み合わせてみました。

ご丁寧にみちこさんが意見までいただいた。

御指摘いただくとは思ってもいませんでした。3遍のストーリを一つにまとめ、記念にアップしておくつもりでしたが、御指摘の内容等を考え、別々に本来考えたものを新たにアップします。

一、渇きと影


 深夜二時。東京の片隅にある、築三十年を超えた古びたアパートの一室。

 六畳一間のその空間は、青白いモニターの光と、卓上ライトの頼りない明かりだけに支配されていた。窓の外からは、遠くを走る車の走行音が、まるで深海の底で聞く波音のように鈍く響いてくる。


 三十路を超えたフリーライターの俺、高村タカシは、点滅するカーソルを睨みつけていた。

 画面には、真っ白なキャンバスが広がっている。いや、それはキャンバスというより、遭難した雪山のような虚無だった。

 締め切りは明日。発注元のWebメディア編集者からは、すでに三度の催促メールが届いている。「感動的なエピソードを」「読者の共感を呼ぶ日常の機微を」。そんな注文が、呪詛のように頭の中でリフレインしていた。


 かつては、世界のすべてを言葉に変えてやろうという傲慢なまでの自負があった。「日本一の文筆家になる」なんて大口を叩いて上京し、路地裏の猫から政治家の失言まで、あらゆるものを描写しようと息巻いていたのだ。

 だが今はどうだ。PV数稼ぎのコタツ記事、誰かの受け売りを継ぎ接ぎしたような薄っぺらい文章。言葉の一つ一つが、重い鉛のように指先に絡みついて離れない。

 書きたいことが、見つからない。いや、自分が何を書きたかったのかさえ、もう思い出せなくなっていた。


「……飲むか」


 それは逃避だと分かっていた。アルコールの力を借りたところで、良い文章が書けるわけではない。そんなことは、これまでの二日酔いの数々が証明している。それでも、乾いたスポンジが水を求めるように、俺の手は自然と伸びていた。


 冷蔵庫から四合瓶を取り出す。宮城県産の純米酒だ。ラベルには筆文字で力強く銘柄が書かれているが、今の俺の目には判読することすら億劫に映る。

 お気に入りの信楽焼のぐい呑に、透明な液体を注ぐ。

 とくとくとく。

 その音が、思いのほか大きく静寂に響いた。まるで、俺の空っぽな心をノックする音のようだった。


 一口、喉に流し込む。

 ツンとした刺激のあとに、米のふくよかな甘みが広がる。辛口の酒が食道を滑り落ち、胃の腑を熱く焦がしていく。身体の内側からじわりと熱が広がり、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。


 ふと、部屋の隅にある本棚の影が、ゆらりと揺らいだ気がした。

 酔いが回るには早すぎる。俺は目を細め、その「揺らぎ」を見つめた。


「よお。今日も来たのか、相棒」


 俺が声をかけると、影の奥から、そいつは音もなく滲み出てきた。

 サッカーボールほどの大きさの、白い毛玉のような光る塊。目も口も見当たらないが、モジャモジャとした長い毛並みが、タンポポの綿毛のように柔らかく揺れている。

 どこか間抜けで、愛嬌のあるフォルム。こいつは俺が子供の頃から見える、奇妙な「モンスター」だ。


 名前はない。俺以外の人間には見えないらしいし、触れようとすると霧のようにすり抜けてしまう。ただそこに「居る」だけの存在。

 だが、こいつが現れるときは決まって、俺が酒を飲んでいる時だった。酒が入って、心の鎧が少し緩んだ時だけ、俺はこの不思議な隣人を認識できるらしかった。


 相棒は返事をしない。その代わり、全身の毛を微かに震わせた。それは犬が飼い主を見つけて尻尾を振る動作に似ていた。

 俺は苦笑しながら、二杯目の盃を口に運んだ。

 クイッ、と飲み干す。

 その瞬間だった。


 キーン、という高い耳鳴りとともに、俺の意識が肉体を離れる感覚に襲われた。

 アパートの壁が消え、モニターの光が遠ざかる。

 頭の中に、鮮烈な映像が流れ込んできた。


二、星の旅路


 視界が、圧倒的な「白」に染まる。

 

 そこは、何億光年も彼方の宇宙だった。

 音はない。だが、空間そのものが悲鳴を上げているのがわかる。

 目の前にあるのは、一つの巨大な恒星だ。その大きさは太陽など比較にならないほどで、赤く脈打ち、最後の力を振り絞って燃え盛っていた。

 

『スーパーノヴァだ』

 

 俺は理屈ではなく、直感でそう理解した。

 次の瞬間、星の核が限界を迎え、内側へと崩壊を始める。そして、反動で外側へと弾け飛んだ。

 壮絶な爆発。

 まばゆい光が宇宙の闇を切り裂く。それは破壊であると同時に、新たな物質の誕生の瞬間でもあった。鉄、金、ウラン……。星の体内で錬成された元素たちが、産声とともに宇宙空間へと撒き散らされる。


 俺の視点は、その中の一つの小さな欠片に同調した。

 灼熱の塊となったその欠片は、暗黒の宇宙を猛スピードで駆け抜ける。

 周りには何もない。ただ無限の闇と、遠くに瞬く星々の光だけ。

 時間は意味をなさなかった。一秒が一億年のようであり、一億年が一瞬のようでもあった。

 

 何万年、何億年。

 孤独な旅路の果てに、欠片の前方に青く輝く球体が現れた。

 地球だ。

 欠片は引力に導かれ、青い惑星の大気圏に突入する。

 ゴオオオオオオッ!

 ここで初めて音が生まれた。大気との摩擦で、欠片は赤く燃え上がる。その身を削り、削り、削りながら、夜空に一筋の光の線を描く。

 誰かが地上で見上げて、「流れ星だ」と叫んだかもしれない。


 やがて、燃え尽きる寸前まで小さくなった欠片は、熱を失い、ただの砂粒となって、とある海岸にぽとりと落ちた。

 ザザァ……ザザァ……。

 波が寄せては返す砂浜。無数にある砂粒の一つとして、かつて恒星だったその欠片は、静かに眠りについた。


 ――ハッとして、俺は現実に戻った。


 手には空になったぐい呑。モニターの画面は相変わらず白く光っている。

 だが、俺の心臓は早鐘を打っていた。まるで本当に何億光年の旅をしてきたかのような疲労感と、それ以上の高揚感があった。


「……今の、今日のおつまみ話か? スケールがでかすぎるよ」


 俺が呆れたように言うと、相棒は満足そうに、その場で小さく跳ねた。毛玉がプルンと震える。

「古い星の最期が、地球の砂粒になる話……か」


 こいつはいつもそうだ。

 俺が弱っている時、言葉に詰まっている時、こうして極上の物語を「視せて」くる。言葉ではなく、五感すべてに訴えかけるような純粋なイメージとして。


 思い出した。あれは俺が六歳の時だ。

 高熱を出してうなされていた夜。天井の木目が恐ろしい怪物の顔に見えて、泣き叫びそうになっていた。

 その時、枕元で「シャンシャンシャン」という鈴の音がしたのだ。

 目を開けると、そこに白い毛玉がいた。今よりもずっと小さく、テニスボールくらいの大きさだった。

 あの時もこいつは、俺の額に触れるか触れないかの距離で震え、悪夢を追い払うかのように映像を見せてくれた。

 『勇気ある石ころが、火を吹く竜に立ち向かう話』。

 取るに足らない路傍の石が、仲間のために自ら投石器に飛び乗り、竜の眉間に命中する物語。その勇敢さに、幼い俺は熱を忘れて見入ったものだ。


 こいつは一体何者なのか。

 幻覚なのか、妖怪の類なのか、それとも俺の脳が生み出した防衛本能なのか。

 答えが出ないまま、俺たちは奇妙な共生関係を続けてきた。


 しかし、今日の映像はいつもと違った。ただ面白いだけじゃない、どこか深い哀しみと、それを超えた先の静寂が含まれていた。

 その違和感の正体を知るのは、翌日のことだった。


三、還る場所


 季節は巡り、秋の気配が色濃くなり始めた頃。

 一本の電話が、俺の生活を一時停止させた。


「もしもし、タカシ? お母さんだけど」

 受話器の向こうの声は、努めて平静を装っていたが、隠しきれない震えがあった。

「……おばあちゃんが、昨日の夜……息を引き取ったの」


 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 大好きだった祖母。俺に物語の面白さを教えてくれた最初の人。

 最近は施設に入っていて、足腰も弱っていたと聞いていた。覚悟はしていたつもりだったが、いざその時が来ると、心にぽっかりと穴が空いたような喪失感に襲われた。


 俺は慌ただしく仕事を片付け、喪服を鞄に詰め込んで、新幹線に飛び乗った。

 北関東の山間にある実家。車窓の風景が、ビル群から田園風景へ、そして紅葉し始めた山々へと変わっていく。

 その間、俺はずっと祖母のことを考えていた。縁側で日向ぼっこをしながら、昔話を聞かせてくれた祖母。俺が書いた作文を、誰よりも嬉しそうに読んでくれた祖母。

 そういえば、祖母もよく俺に言っていた。「タカシの作文を読むと、目の前に景色が浮かぶようだねぇ」と。それが、どれほど俺の支えになっていたことか。


 実家に着くと、通夜と葬儀の準備で家の中はてんてこ舞いだった。

 俺も親戚への挨拶や、受付の手伝いなどに追われ、悲しみに浸る時間はほとんどなかった。

 ただ、白い布を顔にかけられて眠る祖母に対面した時だけ、涙が溢れて止まらなかった。その顔はとても小さく、枯れ木のようだったが、苦しみのない安らかな表情だったのが救いだった。


 すべての儀式を終えた夜。

 親戚たちもそれぞれの宿や家に帰り、実家には静寂が戻ってきた。

 両親は疲れ果てて早々に寝室へ下がった。

 俺は一人、子供の頃に使っていた二階の自分の部屋で、酒を飲んでいた。


 窓を開けると、ひんやりとした夜風が入ってくる。虫の声が、東京よりもずっと大きく、近くに聞こえる。

 俺は、葬式の余りものの日本酒を一升瓶からコップに注いだ。

 安酒特有のツンとした匂い。けれど、今の俺にはそれが必要だった。

 悲しみで酒が進む。祖母との思い出が走馬灯のように駆け巡り、胸を締め付ける。


「……ばあちゃん」


 コップを傾けた時、部屋の空気が変わった。

 本棚と机の隙間。埃っぽい暗がりから、白い毛玉が現れた。


「よお。お前、ここまでついてきたのか」


 相棒だった。

 東京のアパートから、新幹線に乗ってついてきたのだろうか。それとも、俺がいる場所ならどこにでも現れるのだろうか。

 だが、いつもと様子が違う。


 普段なら、内側から発光しているかのように白く輝いているその毛並みが、今日は薄汚れた灰色に見えた。

 輪郭もぼんやりとしていて、向こう側の壁紙が透けて見えるほどだ。

 大きさも、いつもよりひと回り小さい気がする。

 いつもなら元気に跳ねたり震えたりするのに、今日は床にへばりつくようにして動かない。


「おい、どうしたんだ? お前も、婆ちゃんが死んで悲しいのか?」


 酔った頭でそう問いかけるが、相棒は答えない。ただ、弱々しく明滅を繰り返しているだけだ。

 その姿は、まるでエネルギー切れの電球のようだった。

 俺は心配になって手を伸ばしかけたが、いつものようにすり抜けるだけだと分かっていたので、途中で手を止めた。

 昨夜見た星の最期の物語。あれを見せるために、こいつは無理をしたんじゃないか? そんな予感がした。


「……飲もうぜ。今日は、俺とお前と、ばあちゃんの三人で」


 俺はコップを掲げた。

 その夜、相棒が物語を見せてくれることはなかった。


四、石の記憶と約束


 翌朝。

 二日酔いの頭痛とともに目が覚めた。カーテンの隙間から、眩しい朝日が差し込んでいる。

 相棒の姿はなかった。


 俺は顔を洗い、散歩に出ることにした。家の中にいると、線香の匂いとともに悲しみがぶり返してきそうだったからだ。

 田舎の空気は澄んでいて、肺の奥まで染み渡るようだった。冷たい空気を吸い込むと、アルコールで鈍った頭が少しずつクリアになっていく。


 あてもなく歩いていると、砂利道の感触が懐かしく思えた。

 しばらく歩くと、集落の外れにある三叉路に出た。

 そこには、古いお地蔵様が鎮座している。

 高さは俺の腰ほどもない、小さな石仏だ。雨風にさらされて目鼻立ちは摩滅し、ただ丸い石の塊のようにも見える。赤い前掛けだけが、誰かに世話をされている証拠のように鮮やかだった。


 俺の足が、自然とそこで止まった。

 記憶の蓋が開く。

 そうだ。子供の頃、俺はこのお地蔵様が怖かった。

 小学校低学年の頃だったか。夕暮れ時に一人でここを通った時、お地蔵様が「にたり」と笑って動いたような気がしたのだ。俺は悲鳴を上げて、泣きながら走って家に帰った。

 祖母にその話をすると、「お地蔵様は子供を守ってくれるんだよ。怖がることないさ」と優しく頭を撫でてくれたっけ。


「……懐かしいな」


 苦笑しながら近づこうとした時、俺は「あっ」と声を上げた。


「……あれ?」


 苔むしたお地蔵さんの上に、何かが乗っている。

 白い、透けかけた毛玉。

 相棒だ。

 相棒はお地蔵さんに覆いかぶさるようにして、うずくまっていた。昨晩よりもさらに色が薄くなり、今にも朝霧に溶けて消えてしまいそうだった。


「おい、相棒! 大丈夫か!」


 俺が駆け寄ると、相棒はゆっくりとこちらに「顔」を向けた気がした。

 目はないはずなのに、じっと見つめられている感覚。

 そして、相棒は最後の力を振り絞るように、震えた。

 ビビビッ、という微弱な電流のようなものが、俺の脳天を貫いた。


 ――視界が揺らぐ。

 田舎道の風景が、セピア色に変色していく。


 そこにいたのは、若き日の祖母だった。

 遺影で見た顔よりもずっと若く、十七か十八くらいだろうか。もんぺ姿で、背負子を背負っている。肌は日に焼けて健康的で、髪を手ぬぐいで無造作に束ねていた。

 祖母がいるのは、まさにこの場所、このお地蔵様の前だった。

 ただし、周りの風景は今とは違う。舗装された道路はなく、一面の麦畑が風に揺れていた。


 祖母の隣には、一人の青年がいた。

 丸刈りの頭に、国民服のようなものを着ている。日焼けした顔に、白い歯を見せて笑う、朴訥そうな青年だ。

 蝉の声がうるさいほどに響いている。


「必ず帰ってくる。待っていてくれ」


 青年はそう言って、祖母の手を握った。

 祖母は涙をこらえながら、何度も頷いた。

 二人はこのお地蔵様の前で、将来を誓い合ったのだ。青年は赤紙を受け取り、戦地へと向かう直前だった。

 

 映像が早回しのように切り替わる。

 祖母は毎日、畑仕事の行き帰りにここでお地蔵様に手を合わせ、彼の無事を祈っていた。

 時には歌を歌っていた。

『丘を越えて行こうよ 口笛吹きつつ……』

 それは流行歌だった。だが、その明るいメロディとは裏腹に、込められた想いは切実だった。

 風に乗って、雲に乗って、どうかこの声が届きますように。

 

 しかし、願いは届かなかった。

 

 再び映像が色を変える。

 雨の日。祖母は泥だらけになって、お地蔵様の前で泣き崩れていた。手には、白い箱に入った紙切れが一枚。

 青年の戦死の知らせだった。

 南の島で、散ったという。


 祖母の目は虚ろだった。

 生きる希望を失った彼女は、懐から小さな鎌を取り出した。

 「あなたのもとへ行きます」

 彼女は、死んで彼岸(あの世)へ行き、そこで彼と結ばれること(極楽往生)を望んだのだ。

 刃が喉元に向けられる。


 その時だった。

 お地蔵様が、カッと光ったように見えた。

 祖母の動きが止まる。彼女の瞳孔が開く。彼女もまた、何かを「視て」いた。


 夢、あるいは幻。

 そこに立っていたのは、あの青年だった。

 しかし、軍服姿ではない。穏やかな着物姿で、悲しそうな顔で祖母を見ていた。


『死んでここへ来てはいけない』


 青年の声が、祖母の心に直接響いた。

『私が死んだからといって、死後の安らぎや楽園に逃げ込もうとしてはいけない。それは本当の救いではない』

 青年は諭した。

『救いは遠い世界にあるのではない。今、生きているその場所で、自分の心を深く見つめ、悔い改め、正しい知恵と慈しみを持って行動することの中にしかないんだ』


 祖母は呆然と立ち尽くす。

『魂がどこかへ生まれ変わることや、死後の世界で幸せになることを願うだけでは、人は救われない。自らの行いを正し、自分自身を変えることだけが、本当の意味で世界を変える力になる。君には、生きてそれを成してほしい』


 その言葉は、まるで雷のように祖母の心を打った。

 死んで楽になることへの甘え。彼岸への逃避。

 仏教の教えとされる極楽往生や輪廻転生の救いすら、ここでは否定された。もっと根源的な、人間としての在り方を問われたのだ。


 ハッとして祖母は鎌を落とした。

 雨に打たれながら、彼女はお地蔵様に手をついて泣いた。今度の涙は、絶望の涙ではなかった。

 懺悔の涙だった。

 命を粗末にしようとしたことへの、そして、残された生を全うする覚悟への。


 死んで遠くへ行くことが「成仏」ではない。生きたまま迷いを断ち切り、人として完成されることこそが、本当の安らぎなのだ。

 

 雨上がり。

 空には大きな入道雲が出ていた。

 祖母は立ち上がり、泥を払った。その顔には、もう迷いはなかった。

 彼女は歩き出した。未来へと続く道を。


五、物語の継承者


 映像がフェードアウトし、現実の風景が戻ってくる。

 俺の頬には、涙が伝っていた。

 目の前には、お地蔵様にへばりつく相棒の姿。


 相棒の毛並みが、脈動するように光り始めた。

 お地蔵様の石肌から、淡い金色の粒子のようなものが滲み出し、それを相棒が吸い込んでいるのが見えた。


 ――ああ、そうか。


 俺は全てを理解した。

 こいつは、ただの幻覚じゃない。

 世界中の忘れ去られそうな記憶、消え入りそうな誰かの想い、物質に残された微かな物語。

 そういった「残留思念」のようなものを食べて生きているんだ。


 祖母がお地蔵様に込めた、数十年分の祈りと懺悔。そして、あの日の青年の言葉。

 あまりにも強烈で、純粋なそのエネルギーが、この石にはずっと残っていたのだ。

 子供の頃、俺が見た「動くお地蔵様」も、きっとその思念が俺の感性に干渉したせいだった。

 そして相棒は、その強力すぎるエネルギーを少しずつ食べて、浄化していたのだ。


 昨日、相棒が弱っていたのは、俺のそばにいてエネルギーを使い果たしていたからだ。

 そして今、祖母が亡くなり、この世から消えかけようとしていた「最後の想い」を、お地蔵様という媒体を通じて回収し、自分の命を繋ぐ糧にすると同時に、俺に託そうとしたのだ。


 祖母は、知っていたのだ。

 生きることの尊さを。物語が持つ、人を救う力を。

 だから俺に、たくさんの物語を聞かせてくれた。

 俺がライターを目指したのは、偶然じゃなかった。祖母が蒔いた種が、俺の中で芽吹いただけだったんだ。


「……そうだったのか」


 俺は震える手で、お地蔵様の頭を撫でた。相棒の身体に触れる。

 いつもならすり抜ける指先に、今日はほんの少しだけ、温かい温もりを感じた。


「ばあちゃんの想い、確かに受け取ったよ」


 俺が呟くと、相棒は祖母の記憶をすべて吸い尽くし、伝えきったのか、ふっと輪郭を濃くした。

 金色の粒子をまとったその身体は、以前よりも一層白く、美しく輝いていた。

 相棒は満足げに身体を揺らし、プルンと跳ねた。

 

「ありがとうな。相棒」


 相棒は、まるでウィンクするかのように一度だけ強く明滅すると、朝霧の中に溶けるようにして、すうっと消えていった。

 後には、ただ静かなお地蔵様だけが残された。

 その表情は、以前よりも少しだけ穏やかに見えた。


六、始まりの夜


 東京に戻った俺は、荷解きもそこそこにパソコンに向かった。

 部屋の空気は淀んでいたが、俺の中の空気はこれ以上ないほど澄み切っていた。


 椅子に座り、スリープ状態のパソコンを起動する。

 青白い光が部屋を照らす。

 白い画面が、もう怖くない。

 あの雪山のような虚無は、今は無限の可能性を秘めた雪原に見える。


 指が震える。恐怖ではない。武者震いだ。

 書きたいことが、溢れて止まらない。

 編集者の言う「感動的なエピソード」なんて安っぽい言葉じゃ足りない。

 俺が書くべきなのは、もっと泥臭くて、痛々しくて、それでも美しい、人間の「生」そのものだ。


 祖母のあの歌を。

 入道雲の下の祈りを。

 戦地へ散った名もなき青年の高潔さを。

 そして、何億年も旅をして砂粒になった星の欠片のことを。


 言葉という形にして残さなければならない。

 それが、記憶を託された俺の、そして「物語」を糧とする相棒への恩返しなのだから。

 相棒が集めてきた「世界の欠片」を、俺が編み上げ、誰かの心に届ける。それが、俺たちの共生関係の正体だったのだ。


 タタタッ、タターン!

 キーボードを叩く音が、部屋に軽快なリズムを刻み始めた。

 言葉が次々と湧き出してくる。地下水脈を掘り当てたかのように、尽きることのないイメージの奔流が指先から画面へと流れていく。


『その夏、彼女が見上げた空は、どこまでも青く、残酷なほどに美しかった――』


 冒頭の一文を書いたところで、俺はふと手を止めた。

 部屋の隅、いつもの本棚の影を見る。


 そこには、また白い毛玉が現れていた。

 相変わらずモジャモジャとしていて、どこを見ているのかわからない。

 だが、その毛並みは柔らかい光を帯びて、リズミカルに揺れている。まるで俺のタイピング音に合わせてダンスをしているようだ。


 俺はデスクの脇に置いてあった、コンビニで買ってきたカップ酒を開けた。

 安っぽい酒だが、今の俺にはどんなヴィンテージワインよりも輝いて見える。

 コップを軽く持ち上げ、部屋の隅の相棒に向かって掲げる。


「これは、僕だけの最高のおつまみ話だ。……乾杯」


 相棒が嬉しそうに震え、一際強く輝いた気がした。

 その光は、モニターの光と混ざり合い、部屋全体を優しく包み込んでいく。


 俺は一口だけ酒を舐めると、再びキーボードに指を走らせた。

 もう迷いはない。

 世界には、まだ語られていない物語が無数に眠っている。石ころに、街路樹に、古いベンチに、誰かの記憶が宿っている。

 相棒が見つけてくる「世界の欠片」を、俺が言葉で紡いでいく。

 俺の、いや、俺たちのライター人生は、ここから始まるのだ。


 窓の外では、東京の夜空にもうっすらと星が見えていた。

 夜はまだ長い。

 俺たちの祝宴は、始まったばかりだった。


(完)

何らかの縁でこの作品に出会い。

ずいぶん多い文字数となってしまったエピソードにお付き合いくださり、後書きまで辿り着いていただいた。

御既得なあなたへ心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

エピソードにどう心を託すかと言う行為そのものが、自分にとって深い学びとなっていましたが、

前作がたまたまランキングの末端に載ったを見て、本当に読んでいただいている方の存在を感じました。

読み手を意識して、楽しいとか興味深いとか暇つぶしの中で感じていただければ最高の喜びです。

コメントでのご意見やご感想お待ちしております。

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