泥と鎌と会津温泉と、そして全部夢だった件
「名簿に、お名前がありませんね」
それがすべての始まりだった。
駅の構内はひどく汚れていた。線路には泥が堆積し、壁にはひび割れ、風が吹けば鼻を突く臭いが舞った。
俺はそのとき、どこかでおかしいと気づいていたはずだ。けれど、それでも「列車に乗れる」という言葉を信じてしまった。
「次の方、どうぞ」
前の男がはじき飛ばされるように退き、俺の番が来た。
列は長く、うなだれた者たちが泥にまみれた足でただ静かに順番を待っていた。
誰も文句を言わない。怒鳴りもしない。ただ――信じていたのだ。
ここに来れば、救いがあると。
「乗れないのか?」
俺が聞くと、駅員は淡々と首を振った。表情はない。まるで機械だ。
「名簿に名前がない方は、ご案内できません」
「なんでだ。知り合いがここに来ればいいって言ったんだ!」
「名簿がすべてです。……次の方」
肩を押され、俺は列から外された。背中に誰かの視線が刺さる。
足元はぬかるんでいた。数日前の雨で泥が水を含み、所々には茶色い染み。嫌な臭いが立ち上る。
そのとき気づいた。俺だけじゃなかった。
ここにいる者たち――みんな、同じ目に遭っていたのだ。
「ダメだったのか?」
声をかけてきたのは、土で顔を汚した男だった。年は五十近いだろう。
腰に手ぬぐいを巻き、手にはボロボロの竹籠を持っている。
「名簿にないと、乗れないらしい」
俺が言うと、男は薄く笑った。
「名簿なんて見たこともねえよ」
遠くで怒鳴り声が上がった。別の番線で若者が駅員に食ってかかっている。
だが、係員たちは無反応だ。何かが、壊れている。制度なのか、人なのか、それともこの場所そのものか。
「もう無理じゃねえか……」
うつむいた若者が、泥の上に膝をついた。周囲にいた者も同じように座り込む。
中には泣き出す者もいた。誰かが吐いた。
俺も、その場に立ち尽くした。
――終わった。
そう思った。
この駅に希望なんてなかった。
列車なんか最初から来るつもりがなかったんだ。
けれど、言葉が口をついて出た。
「歩こう」
静かに、それでも確かに、俺は言った。
「ここから、会津まで歩こう。温泉があるんだろ? 全部流そう、あの湯で。泥も、臭いも、悔しさも」
誰かが笑った。「……何言ってんだ、お前」
でもその笑いに、わずかに力が宿っていた。
「歩くって……どれだけかかると思ってんだよ」
別の男が口を開く。
「何も持ってねえぞ。食い物も、金も、靴だって穴が開いてる」
「それでもいい。俺たちに残ってるのは、自分の足だけだろ」
言葉に力が入っていた。
俺は、自分がどこかで怒っていたことに気づいた。悔しくて、惨めで、情けなくて、それでも――もう誰にも振り回されたくなかった。
「……行こうぜ」
誰かが立ち上がった。あの手ぬぐいの男だった。
次いで、後ろの若者も腰を上げる。
泥の上からゆっくりと立ち上がる者たち。まだ、目は死んでいなかった。
「会津まで……本当に歩くのか?」
「歩けるさ」
俺は笑った。根拠なんか、どこにもなかった。
でも、不思議と確信だけはあった。
次の瞬間、誰かがカバンから干し飯を取り出した。誰かが水筒を分け合った。
そうして、俺たちは――本当に歩き始めた。
列車に乗れなかった、騙された者たちの行進が始まった。
目指すは、会津温泉。
その湯で、すべてを流すために。
俺たちは歩いていた。
列車に乗れなかった十五人の村人たちが、無言のまま足を進めていた。
足元はぬかるみ、道は細く、時折風が吹き抜ける。
空には雲が重く垂れ込め、晴れる気配はなかった。
それでも誰一人、立ち止まろうとはしなかった。
昨日までは、それぞれ畑に出ていた。
鍬を持ち、薪を割り、水を汲んでいた。
普通の暮らしをしていた――はずだった。
けれど今日、列車に乗れなかった。
駅では名簿に名前がないと突き放され、泥にまみれ、肩を落として帰るしかなかった。
それでも、誰かが言った。
「歩こう。会津まで。温泉に入って、全部流そう」
その“誰か”が俺だった。
最初は誰も信じていなかった。
けれど時間が経つにつれて、ぽつぽつと賛同の声が上がった。
もう何も信じられないからこそ、自分の足で行くしかない――そう思えた。
***
「……こんなに静かだったっけな、この道」
中年の男――村の鍛冶屋だった男が言った。
彼は片手に自作の火かき棒のような鉄の棒を杖代わりにしている。
「道が静かなんじゃねえ。俺たちが喋らないからだ」
「……ああ、そうかもな」
誰も無駄口を叩かない。
言葉は体力を削る。
今は一歩でも多く進むほうが大事だった。
一人の老婆が、落ちていた栗の実を拾った。
別の年寄りが道端のツル草を引きちぎり、袋に入れた。
何かに使えるかもしれない。食えるかもしれない。
その程度の希望でも、捨てるわけにはいかなかった。
誰かがぽつりとつぶやいた。
「駅で列車に乗れた奴らは、今ごろ何をしてるだろうな」
返事はなかった。
その話題には誰も触れたくなかったのだ。
乗れなかった俺たちが、乗れた誰かを想像することほど、虚しいことはない。
***
途中、小さな沢を見つけた。
皆、口をつけ、顔を洗った。
泥で固まっていた足袋や袴を手でこすり、水を飲んだ。
「火があれば、湯にでもできるのにな……」
誰かがつぶやいた。
けれど、火打ち石も火薬も、ここにはなかった。
「火がなくても、歩ける」
俺がそう言うと、誰かが笑った。
「そりゃそうだ。歩けなきゃ、もう死んでる」
笑った声はかすれていた。
けれど、少しだけ皆の表情がやわらいだ気がした。
***
山道にさしかかる頃には、空気が冷え始めていた。
道は細く、木の根がむき出しになっていて、足場は悪い。
それでも誰も弱音を吐かない。
「頂上を越えれば、会津は近いはずだ」
それだけを信じて、歩いた。
火はなかった。食い物も乏しかった。
でも、全員が前を向いていた。
誰も指示を出していないのに、自然と隊列ができていた。
背の高い男が後ろにつき、足の遅い者の荷を代わりに背負っていた。
老婆は真ん中に置かれ、左右に若者が並んでいた。
誰が教えたわけでもない。
でも、村人たちは知っていた。
生き延びるには、そうするしかないと。
火も食も、贅沢もなかった。
でも、俺たちにはまだ足がある。
会津まで――歩ききるだけだ。
風が変わった。
山に入ってから、肌に触れる空気が冷たくなった。
木々は密度を増し、空は葉の間からわずかにしか見えない。陽はもう、とっくに高くない。
俺たちは静かに進んでいた。
言葉は出ない。というより、出せなかった。
足場は悪い。
濡れた土に滑り、根に足を取られ、枝が顔を打つ。
誰かが転べば、周囲が支え合う。
それだけのことすら、もはや儀式のようだった。
歩く音だけが、道の中で響いていた。
ガサ、ガサ――
ザク、ザク――
同じリズムで刻まれる、命の音。
それがずれてしまえば、誰かが倒れる。
俺たちは、その事実を本能で理解していた。
***
「……一人、遅れてる」
小声でそう告げたのは、後ろを歩いていた若者だった。
見ると、老婆――阿久津ばあちゃんの足取りが明らかに鈍っていた。
「俺が背負う」
誰かが言った。
それを止める者はいなかった。
若い男が彼女を背負い、列に戻る。
それだけで、誰も言葉を交わさないまま、再び歩き始める。
まるで、ずっとそうしてきたかのように。
***
峠の途中、岩が露出した斜面に出た。
土がむき出しで、滑る。
「気をつけろ……一列で行け」
声をかけながら、俺は先に足をかけた。
ぐっ、と滑りそうになるのを踏みとどめて、手をついて這うように登る。
後ろからも、ぎこちない呼吸と擦れる音が続く。
誰もが限界に近かった。
息は上がり、足は鉛のように重い。
水も底をつきかけていた。
言葉にすれば崩れてしまいそうな、張り詰めた空気の中。
誰かが、ふらりと斜面を外しかけた。
「おい!」
俺が叫んだ瞬間、男は足を取られ、転がりかけた。
だが、すぐに誰かが腕をつかんで引き戻す。
「っ、あぶねぇ……」
「……悪い」
それだけを残し、再び列が進み出す。
助けた方も、助けられた方も、顔を見ない。
見れば、弱さが伝染する。
それを避けるために、皆が黙っていた。
***
ようやく平らな道に出たとき、全員が無言のまま息を吐いた。
「ここで、少し休もう」
俺が言うと、誰もがその場に腰を下ろした。
土の上、冷たい岩の上、落ち葉の間。
どこでもよかった。ただ、座れれば。
食い物はほとんど残っていなかった。
水は、舐めるほどしかない。
それでも、誰かが荷から干し芋を取り出し、小さくちぎって配った。
黙って受け取る。
誰も「ありがとう」とは言わない。
だがその沈黙には、確かに感謝があった。
「……しゃべらねえな、俺たち」
と、ぽつりと誰かが言った。
最初に声を上げたのは、若者の伊助だった。
「こんなに口を閉じてるの、村での葬式以来かもな」
誰かがくすっと笑った。
それが、今日初めて聞いた笑い声だった。
「しゃべると、腹が減る」
「力が抜ける」
「でも、笑えるのはいいことだ」
また一つ、声が増える。
誰が言ったかもわからない、温い音。
言葉が、少しずつ戻ってきた。
***
「……なあ、もし俺たちがこのまま会津にたどり着けなかったら、どうする?」
火を持たないせいか、気温が落ちるほどに思考が澄んでいく。
伊助の問いに、誰もすぐに答えなかった。
だが、ゆっくりと俺は言った。
「歩くのをやめなければ、どこかには着くさ」
「……達者だな、あんたは」
「達者じゃない。信じたいだけだ。止まったら終わるって、知ってるからな」
それは誰の心にも届いたようだった。
村で信じてきたことが壊され、列車にも見放され、それでも足だけが残った。
なら、それを使うしかない。
信じるしかない。
火はなくとも、誰かの声があれば、歩ける。
そう思えた。
***
夜の入り口は、音もなくやってきた。
風が強くなり、木々の間に冷気が流れる。
火も灯もない。
それでも、俺たちは身を寄せて、眠った。
目を閉じれば、風の音の向こうに、湯の音が聞こえる気がした。
まだ見ぬ会津。
その温泉の蒸気が、夜の闇の奥に立ちのぼっている――
そんな幻想にすがりながら。
峠を越えたその先に、答えがあると誰もが信じていた。
冷たい風、硬い道、泥まみれの足。それらを越えた先には、湯の煙が待っている。
そう信じて、俺たちは歩いた。
空はまだ灰色。陽の高いうちは少しばかり暖かさもあったが、陽が傾けばすぐに冷える。
枯れ木の隙間から、川の音がかすかに聞こえた。
川沿いに道があり、会津はその向こうにある――はずだった。
「……会津まで、あと少しかな」
誰かが息を吐くように言った。
俺は答えなかった。もう何度「あと少し」と思ったか覚えていない。
だが、もう一歩で終わるかもしれない、という予感は、あった。
そのときだった。
「止まれ」
低い、地を這うような声が森の中から響いた。
空気が凍った。
誰かが小さく呻いたような音を立て、立ち止まった。
木々の間から、人の影が現れた。ひとり、ふたり、三人――いや、もっと。
左右から、前方の岩陰から、ぞろぞろと男たちが現れる。
槍、鉈、鍬、朽ちた刀。ぼろぼろの鎧、毛皮、裂けた布。
二十人をゆうに超えていた。
「野盗……か?」
誰かが呟いた。
だが、声に出すまでもない。目に宿った光でわかる。
言葉も、理屈も通じない、“奪うために生きている奴ら”だった。
「その荷を置いてけ。女も置いてけ。着てるもんもな」
先頭の男が、笑って言った。
歯が抜け、唇が裂けていた。
「……どうする」
仲間のひとりが、俺に聞いた。
俺は黙って腰の鎌を握り直した。
「やるしかない」
俺の言葉に、誰も反論しなかった。
全員が、泥にまみれた農具を手に前を向いた。
鎌、クワ、スコップ、薪割り斧。
武器ではない。ただの道具だ。
けれど、この場で使う意味はひとつ。
「生き延びるためだ」
俺は、地を蹴った。
***
怒号と叫びが、森に響き渡った。
鎌の刃が喉元を裂いた。
クワが腹に突き刺さり、敵の目が見開かれたまま沈んだ。
叫びながら振り下ろしたスコップが、野盗の頭を叩き潰す。
泥、血、唾。
全てが混ざり合い、地面はすぐにぬかるんだ赤に染まった。
敵は数で勝っていた。
だが、俺たちは退かなかった。
退いたら、全部奪われる。命も、女も、村の記憶も。
「下がるな! 前を見ろ!」
俺は叫びながら斬った。
刃が滑っても、柄で殴りつけた。
仲間がひとり倒れた。
敵の刃が背中を裂き、呻き声が上がった。
だが、別の者が前に出て、倒れた男の代わりに敵を突いた。
「立て!」
「まだ終わってねえ!」
声が飛ぶたびに、誰かが応えた。
言葉ではなく、足と腕と怒りで。
そして――
戦は終わった。
全ての敵が、地に伏した。
息のある者は、いない。
***
倒れた仲間を背負い、泥を拭う者がいる。
血にまみれたクワを手放せず、立ち尽くす者もいた。
勝った。
だが、誰も喜んではいなかった。
そのときだった。
「……人だ」
背後の林から、声がした。
俺が振り返ると、女たちが現れた。
ひとり、ふたり、十、二十――
止まらなかった。
やがて広場に並び立った女は、数十人にもなっていた。
年若い娘。
腰の曲がった老婆。
顔に傷を持つ者、泣いている者、虚ろな目で空を見つめる者。
三十人、いや、四十か。
敵の家族か、略奪された者か、それすらもわからない。
ただ、残された――それだけだった。
俺たちは動けなかった。
戦いの後、別の“場”が始まろうとしていた。
仲間たちの視線が集まる。
沈黙。
熱。
重さ。
俺は、一歩前に出た。
そして、告げた。
「抵抗するなら殺せ。そうでないなら――好きにしろ」
声は静かだった。
けれど、刃よりも重く響いた。
それは命令ではなかった。
裁きでもなかった。
ただ、線を引いただけだった。
ここから先は、誰も守らない。
守るつもりも、なかった。
それを選んだのは、俺だった。
女たちは反応しなかった。
ただ、黙っていた。
一人が地に膝をついた。
また一人がそれに続く。
睨みつけている者もいれば、動かない者もいる。
泣き出した者もいた。
仲間たちは、動かなかった。
見つめる者、目を背ける者、何かを考えている者。
全員が沈黙していた。
俺は、その場に背を向けた。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
その声だけが、やけに澄んでいた。
戦いが終わったあとの世界は、無音だった。
血の匂いと、泥の温もりだけが残っていた。
敵の死体を一か所にまとめ、仲間の亡骸を、枯れ枝と葉で覆う。
そのとき誰も泣かなかった。
叫びもなかった。
命を守るための戦いだった。
だが、俺たちはその代償を言葉にできずにいた。
日が沈み、暗闇が山を飲み込んでいった。
火はない。
石はあったが、火種も油も布も足りなかった。
気温は下がり、肌が震える。
俺たちは崩れかけの廃屋に身を寄せた。壁が三面あるだけの空間に、全員がうずくまるようにして身を寄せた。
女たちは、そこには来なかった。
数十人の女たちは、森の陰、少し離れた倒木の奥で丸くなっていた。
言葉はなかった。声も上げなかった。
彼女たちは、俺たちの命令に従ったのだ。
「抵抗するなら殺せ。そうでないなら、好きにしろ」
その命令の意味を、仲間たちも、女たちも、誰より俺自身がよく分かっていた。
夜の半ば、気配が動いた。
何人かの男たちが立ち上がり、女たちの方へ向かった。
誰も声をかけない。
誰も引き止めない。
ただ、動いた影が数歩の先で女たちと交わり、また戻ってくる。
足音は静かだった。
音を立てる者はいなかった。
だが、それが何よりも残酷だった。
戻ってきた男たちは、誰とも目を合わせなかった。
焚き火もないその場で、無言のまま壁にもたれ、目を閉じた。
誰も「許された」とは思っていない。
誰も「強制だった」とも言わない。
ただ、黙って“起きた”だけだった。
朝が来た。
霧が立ちこめ、地面は露で湿っていた。
女たちは全員起きていた。
彼女たちは、何も言わず、静かに列の後ろへと歩いた。
泣いている者も、怒っている者もいなかった。
ただ、沈黙の中にいた。
「……行こう」
俺が言った。
「会津までは、まだある。今日も歩くぞ」
誰も返事はしなかった。
けれど、一人また一人と立ち上がり、荷を背負い、列ができた。
あの夜、何が“正しかった”のか。
誰も知らない。
ただ、もう戻る道はなかった。
俺は黙って、先頭に立った。
そして歩き出した。
会津の湯が、どんな温もりを持っていたとしても、
この夜の冷たさを流せるかどうかは、分からなかった。
朝、霧が立っていた。
昨日の戦と、その後の夜の静けさは、すべて夢だったのかと思うほど、空気は静かだった。
けれど、背中に残る違和感、そして視線――
それらが、夢ではなかったことを教えていた。
女たちは列の後ろにいた。
昨夜の命令のあと、逃げる者は一人もいなかった。
数十人の女たちは、無言で男たちの後についてきていた。
それを見て、誰も疑問に思っていなかった。
彼女たちは、“こちら側”に来たのだと。
戦で奪い、生き延びるために抱いた。
もう彼女たちは、俺たちのものだ――
そう思っている空気が、列全体に広がっていた。
「あの女、俺が最初だったよな」
誰かがぽつりと呟いた。
笑いにもならないような声で。
「俺は三人目だった」
「顔はきれいだが、動きは鈍かったな」
「次は誰が行く?」
その会話に、誰も咎める声はなかった。
もはや、女たちは「物」だった。
血を流し、死線を越え、勝ち取った“報酬”だと、本気で信じている者がいた。
俺は前を歩きながら、何も言わなかった。
否定もしなかった。
言えば、崩れる。
今の俺たちは、倫理より秩序が優先されていた。
仲間同士で争えば、次に奪われるのは、誰かの命になる。
それが分かっていた。
昼、沢で水を飲んだ。
女たちは少し離れたところで、数人ずつ固まっていた。
俺たちを見ていた。
怒りでも、憎しみでもない。
諦めに近い、冷たい目だった。
だが、逃げはしない。
それが、男たちに“所有”の確信を与えていた。
「黙ってついてくるなら、それでいい」
誰かが言った。
「抵抗しないなら、あいつらは俺たちのもんだ」
焚き火のない夜。
寝息と虫の音だけが聞こえる空間の中、
女たちはまた列の中にいた。
触れる者もいれば、触れない者もいる。
だが、誰も止めない。
誰も“もうやめよう”とは言わない。
俺も言わなかった。
この旅に“正しさ”はとっくに捨ててきた。
今あるのは、寒さと疲れと、汚れきった現実だけだ。
その中で手に入れた“もの”を、
誰も手放すつもりはなかった。
朝、女のひとりが倒れた。
だが、男の一人がすぐに肩を貸した。
その女は拒まず、されるがままに立ち上がった。
誰かが言った。
「もう、俺たちの女だ。逃げる理由がねぇんだよ」
その言葉に、誰も笑わなかった。
誰も否定もしなかった。
歩く。
自分のものを背に従えて。
それが、今の俺たちだった。
「……見えた」
誰かがそう呟いた。
丘を越えた先、もやのかかった谷の向こう――
白い煙が、ゆらりと立ちのぼっていた。
山肌のあたりにいくつも揺れるその煙は、間違いなく――湯の気配だった。
「会津だ……温泉だぞ」
「ほんとうに……あったんだな」
「やっと……流せるんだ……」
誰の声も、涙混じりだった。
泥、血、戦、性、命――
それらすべてを“湯に流す”ことだけを信じて、ここまで来た。
その信仰が、ついに形になった。
男たちの足取りが軽くなる。
顔には疲労と同時に、笑いすら浮かび始めていた。
「このまま真っすぐ行こう。まずは湯に浸かって、それから食って……それから、な」
誰かが後ろをちらりと振り返る。
視線の先には、女たち。
列の後ろ、いつものように無言で従ってくる数十人の影。
「湯に入ったら、もっと素直になるだろうな」
「……肌も柔らかくなってる」
「抱くのはそれからにしよう」
卑笑。興奮。所有欲。
口に出さなくても、列の中にそういう“空気”が流れていた。
俺は何も言わなかった。
言わなくても、それが今の“俺たち”の現実だったからだ。
昼過ぎ、谷に向かう斜面の中腹で、一団と出会った。
十五人ほどの群れ。
子どもを抱いた女、片腕の男、痩せた少年、妊婦。
疲弊していたが、どこかまだ“汚れていない顔”だった。
男の一人が俺たちに向かって、ぺこりと頭を下げる。
「会津に……向かっているのか?」
「ああ」
「温泉が……あると聞いて……俺たちも……」
声が弱々しかった。
けれどその中には、確かに希望があった。
仲間の一人が、肩をすくめてつぶやいた。
「よく、あんな状態で歩けてるな」
「女も……子どもも、守ってるつもりなんだろ」
「まだそんな幻想持ってるってことは、戦ってねえんだな」
「そうだな……抱いてもいねえ」
笑いが、起きなかった。
それは冷笑でも優越感でもなく――
何かに触れてしまった者が、触れていない者を見たときの、どうしようもない“壁”だった。
そして、俺たちはその“壁のこちら側”にいた。
希望を抱いて歩く彼らと、
希望を信じた末に何かを捨てた俺たち。
見つめ合って、何も起きなかった。
それだけだった。
でも、俺は知ってしまった。
俺たちは、もう彼らには戻れない。
その夜、湯の近くで野営をした。
白い煙はすぐ近くに見えていた。
明日には、湯に浸かれる。
流せる。洗える。全てを。
そう信じていた。
だが、焚き火の明かりの中で、誰も笑っていなかった。
火はある。
食べ物も少しある。
命もある。女も、後ろにいる。
それでも――何も満たされていなかった。
「あの若い妊婦……綺麗だったな」
と、誰かが言った。
「お前、もう女の顔しか見えなくなってんじゃねえか」
「見えるだけマシだろ」
そう言って誰かが笑った。
だがその笑いに、誰も乗らなかった。
明日は湯だ。
すべて流せるはずの、その前夜。
俺は、妙に冷たい風の中で、手元の鎌を見ていた。
刃の根元には、かつてついた赤黒い痕がうっすらと残っている。
どれだけ湯に浸かっても、この痕は落ちない気がした。
そして、
落としたくないとすら、思っている自分がいることに気づいた。
俺たちは、ここまで来た。
もうすぐ、湯だ。
もうすぐ、報われる――はずだった。
けれど、温泉の蒸気の向こうで待っているのが
「癒し」ではなく、ただの現実だったら――
俺は、その先で、何を見るのだろうか。
湯は、確かにあった。
谷を下った先、岩の間から白い湯気が立ち上る。
男たちはそれを見て、声を上げた。
「着いた……やっと……」
「本当にあったんだ……」
列の後ろには、いつものように女たち。
誰も逃げなかった。
誰も、背を向けなかった。
彼女たちは、もはや男たちの生活の中に自然と組み込まれていた。
奪ったのではない。
支配でもない。
生き延びる中で、互いの居場所になった――それだけだった。
湯は熱く、静かに湧き続けていた。
一人、また一人と衣を脱ぎ、泥と血を洗い落とし、湯に体を沈める。
湯は、すべてを受け入れた。
叫びも、傷も、無言のまま。
そして、その湯のそばに女たちも並び、共に身を清める。
誰も命令などしなかった。
ただ、一緒にここまで来たから、共にいた。
男と女。
奪った者と奪われた者――そんな言葉は、もうどこにもなかった。
夜。
小屋の中では男たちと女たちが並び、当たり前のように寄り添っていた。
誰も命じない。
誰も強いられない。
ただ、生きて、隣にいた。
――そこで目が覚めた。
天井。カーテン。朝の光。
スマホの通知がひとつ鳴って、俺は布団の中でぼんやり呟いた。
「……なんだこの戦国バトル」
全部、夢だった。
駅に行ったら列車に乗れなくて、泥にまみれて、
でも俺たちは「歩こう」と言って、会津を目指して歩いた。
途中で野盗に襲われて、クワや鎌で本気の集団戦をして――
敵の女たちが残っていて、「抵抗するなら殺せ」って命じて――
そして、湯にたどり着いて、癒された。
なんだこれ、映画か?
笑っちゃうような話なのに、なぜか忘れられない。
……きっとどこかで俺は、
「奪われっぱなしで終わりたくない」と思ってたんだろう。
生きるってなんだ、ってどこかで叫びたかったのかもしれない。
令和の現実は甘くない。
列車も泥棒もちゃんといる。
ニュースも物価も現実的だし、湯に浸かっても悩みは消えない。
けれど――
夢の中の俺は、歩いた。
戦った。命じた。隣に人がいた。
そして、誰にも奪われず、自分の足で会津までたどり着いた。
それが、なんだか羨ましくもあった。
よし、今日も歩くか。
現実は夢みたいに都合よくはいかないけど――
俺も少しだけ、夢の続きみたいに生きてやる。
――完。
はい、これ――夢なんですよ。全部マジで自分が見た夢です。
朝起きて、「なんだこの戦国バトル!?」って、思わず笑いました。
駅に行ったら乗車拒否されて、しかもなぜか全員クソまみれ。
でも「会津まで歩こうぜ!」って誰かが言い出して、全員で泥の中をズンズン歩いて。
途中で野盗が出てきて、クワとか鎌でガチの集団戦。
血まみれの泥まみれで敵を斬りまくって、勝った後に女たちが出てきて――
「抵抗するなら殺せ」って俺が命じたとこで、目が覚めました。
いや、なんだこれ。完全に映画か何かかよってレベルで展開が濃い。
でも、すごく印象に残ったんです。
多分どこかで、
「奪われっぱなしで終わるのはイヤだな」
って思ってたのかもしれません。
現実じゃ、戦うこともないし、誰かを守るような場面もなかなかない。
でも夢の中の俺は、ちゃんと命かけてたんですよ。
背中合わせで仲間と立って、刃を振るって、生き延びた。
目が覚めて、ちょっと笑って、それでもなんか胸の奥に残ってた。
そんな夢を、どうにか言葉にして残しておきたくて書きました。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました!
「夢ってすげぇな」って思ってもらえたら嬉しいです。
……そして、会津温泉には一度行ってみたい。マジで。