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父について。あとインターステラーが嫌いだ。

作者: よしお

昔河合隼雄さんと村上龍さんの対談を読んでいたところ村上さんが父親というものは人類という種にとって必要なものなのでしょうかというようなことを河合さんに訊いていてそれに対して河合さんがどのように答えたのかは忘れたんだけど、そのことをふと思い出したんで「父」についてちょっと思ったことを書きます。まず、昔は一家の「稼ぎ手」として基本的に「父」しかいなかった。そして「父」というものはかつて(戦前から戦後少しの間)はとりあえず四の五の抜きで「えらい」ということが社会通念として行きわたっていた。そして要するに国を挙げて「父」は一家の大黒柱として敬うべき存在であるということにされていてそんなふうな「権威」が付与されていたわけです。「父はえらい」は「先生はえらい」と同じで戦前はとりあえず常識だった。権威が与えられ世間で常識になっていたらとりあえずたいしたことのないおやじでも子どもや妻はある程度の敬意を持つわけです。なんやしらんとりあえずえらいのだろうということで。しかし戦後その父に対する「保護」はなくなったので「父」は生身で勝負しなければならなくなった。するともう子どもたちにとって「母」との差は歴然というかどんどん存在感はなくなっていったわけです。そして女性が書く文学にも登場しなくなった(らしい)。というのも「父」と「母」の最大の違いは「父」には「肝心な時に逃げる」という習性があることでしょう。もちろん全員とは言いませんが「母」と比較したとき彼らが「肝心なところで逃げている」割合は非常に高いというのは誰もが認めるところではないでしょうか。もちろん彼らも説教をしたり正論を言ったりはするわけですがじつは話を聞いてはいないし向き合ってもいません。こういうのはもしかしたら健全に育った人より思春期とかになんらかのややこしい問題を抱えてしまった人の方が敏感に感じ取っているかもしれない。たとえば「推し燃ゆ」という小説の主人公の少女は精神的にちょっと問題を抱えた女の子でなかなか人とと同じように物事をこなしてゆくことができずらい人です。そして読んでいて感じるのは「父」に対する強い軽蔑と無関心です。「母」に対してはもっと単純でない色々複雑な思いがある感じなのですが「父」に対してはほんとにもっとなんかドライな無関心、軽蔑、基本的にそんなものしか読んでいて感じられないわけです。ではその「父」はどんな人かというとはた目にはべつにそんなふうな扱いを受けなきゃならないようなろくでもない人という感じではなく、もちろんちゃんと働いていてますし社会的地位もけっこう高そうだし態度や物腰もスマートな感じみたいですしそんなわけで女にもそれなりにモテたりするかもしれないような感じの人です。しかし彼女は心の中でこうつぶやいているかもしれません。「たしかにあんたは正しい。あんたの言うことはもっともだ。まちがっているのはわたしだ。だけどあんたははっきり言って【はなしにならない】」要するに、説教はする、正論は言う、しかし話は聞かない(聞けない)しちゃんと向き合ってもいない、そしてすっと、逃げる、要するに、これが「父」です。そして戦後これまでの国を挙げての「父」に対する保護がなくなりみんな生身で勝負しなくてはならなくなった結果、父は文学からも姿を消すことになります。もちろん全員が全員そうではありませんが「母」と比較した場合その親としての弱さ存在感の薄さは明白でしょう。たしかに「父」という存在はこんな核家族の二人の親の一人というような明確な形では本来必要のない存在なのかもしれない。というのもそもそも「父」というか「男」は本来そういうのが苦手にできているわけです。では彼らの得意分野が何かというと、それはものすごく簡略化して言うと「右にあるものを左にやったり上にやったり下にやったり遠くに投げたり蹴っ飛ばしたりすること」です。科学やら技術やらの「進歩」というのもこの「右にあるものを左にやる」ことというこの基本的な根本的な活動の積み重ね、相互作用やらのそういった集積により、してゆくものなんでしょうが、まあ「右にあるものを左にやる」こと自体はある意味生きることそのものとも言えると思うしそれ自体はべつに悪くないと思うんのですがしかしこの「進歩」というやつは僕は基本嫌いというか「進歩」、とくに科学やら技術やらのとどまることのない節操のない「進歩」に対してなんの違和感も感じていないむしろそれを称賛するだけの連中に対して違和感を感じているわけです。連中は「進歩」の先になにか「真実」みたいなもの、なにか「絶対的にすばらしいもの」が待ち構えているように思っている人が多いのではないでしょうか。しかしもし「真実」なんてものがあるとすればそれは今ここ今立ってるその足元にあるか、あるいはあらゆる場所に遍在しているかでしょう。それを進歩主義者どもはまるで「進歩」の先にしか「真実」は存在しないかのような観念を人々の間に植え付けます。進歩の先に「それ」があるという観念は「今ここにはそれはない」という観念とセットなので結局常に欲求不満で落ち着きなく心にどことなく空虚さを感じながら生きなくてはならない。進歩するにしてももっとクールにというか進歩なんて釈迦の手のひらの上の孫悟空みたいなものでべつにどこに向かっているわけでもどこに辿り着くわけでもないでもまあ一旦動き出したら止まらんししゃあないからやるかぐらいの気持ちで「進歩」なんかもやればいいのではないかと思う。

ところで僕の嫌いな映画にインターステラーという映画があるのですがこの映画の主人公のオヤジ(そして監督)が典型的な進歩主義者なんですけどまあいわゆる「アメリカのおっさん」の価値観を、アメリカのおっさんのこうありたいという願望を体現したようなおっさんです。このおっさんはいわゆる昨今のアメリカの映画によくある幼い娘を溺愛しそしてその娘にとても慕われているあのおっさんです(笑)好きですね彼らはこういうの(笑)それでこのオヤジは農業をやっているのですが子供たちを乗せて車を運転しているとき、空になにか「おもしろいもの」を見つけてそれを追うために何らためらうことなくハンドルを豪快にきり、視界の効かないトウモロコシ畑の中に突っ込んでゆくわけです。好きですね、こういうの(笑)そのときのオヤジのきらきらした「少年のような」目つき!(笑) そして「おもしろいもの」のために危険を顧みず、突っ込んでゆくワイルドさ! そしてもちろん彼は的確で冷静な判断力と勇敢な精神で見事にハンドルをさばいてゆき目的のものに辿り着きます(いや、もちろんそれはいいんだけど)。そしてそんな父に子供たちは憧れと尊敬の念を抱き、慕うわけです(あきれられるバージョンもあるね)。しかしまあアメリカのおっさんたちはいつまでたっても「主役」でいようとしますね。そして「わき役」の子供たちのそんな「主役(主演のことじゃない)」のお父さんに対する様々な気持ちが描かれる。慕っていようがそうでなかろうがかっこいい「主役」です。そしてなんですけどこの話はSFなんですけどその要素を除くと話の中心にあるのは「父と娘の絆」なのかなと思いました。実際話の中でもとにかくこの二人の互いに対する色々な「思い」みたいなものが頻繁に出てきますし、クライマックスのところでもやはりこの二人が中心なわけです。そしてちょっとネタバレになりますが終盤に娘からすると幼き日に分かれた父と七十年以上ぶりぐらいの再会を果たすわけです。父は若いままですが娘は老衰で臨終の床にあります。この場面で僕はこれこそこの映画の最大の見せ場、最も重要なシーンなのだろうと思いました。しかし、その再開のシーンはあっさりと、なんやオヤジはそれなりにとりあえずやっぱり泣いて、娘も泣いて、そしてなんや、都合よく、娘が、お父さん、あなたには会いに行かなきゃいけない人がいるんじゃないの? さあ行って、だかなんだかたしかそんなことを言います(監督が言わせます)。というのもアメリカのおっさんからすれば老衰で死にかけてるばあさんとの時間なんてのはたとえ娘であろうが退屈で辛気臭くてやりきれないからです。なんたって彼は「ヒーロー」であり、フロンティアスピリットにあふれた進歩主義者なわけですから。てなわけで都合よく娘はお父さんには会いに行かなくてはならない人がいるんじゃないの? 私には私の家族(子や孫)がいるからあなたはあなたが行くべきところに行ってくれないと困るみたいなようわからんことを言うて「まあそない言うんやったら」みたいな感じで(あくまで娘にそう言わせる。しかし実際は彼はいわゆるアメリカのおっさんの理想とするおっさんだからもうアメリカ人の大好きな「娘を溺愛する親父」は十分にやったわけだからもう老衰で死んでゆく娘のことなんてなんて知らんがな興味ないそれは俺の領分じゃないということでその臨終を長い時間かけて看取りその後地球に留まるなどという退屈で辛気臭いことに従事するなどという選択肢はないのである)部屋を出てゆく。振り返ると、そこには穏やかな笑顔で幸せそうに子や孫と向き合う娘の姿。この描写は自分があっけなく去ってゆくことに対するアメリカのおっさんのちょっとした罪悪感を拭い去る効果を生むのである(だってあんなに幸せそうなんだから俺は必要ないじゃないか、みたいな)。結果、(娘がそう言うので)かっこいい宇宙船に乗り込み、都合よく恋人が死んでいた美女アンハサウェイが待つ星に向けて、少年のように目を輝かせなが同時にワイルドで男らしい危険な男の魅力も漂わせながらら新たなフロンティアに向けて(このアメリカのおっさんのフロンティアスピリットがアメリカ大陸の森林の大部分を破壊し多くの虐殺を生みその後それは西の果てに行っても止まらず太平洋を越えまたそこに広がる島々においての略奪虐殺地元の文化信仰の破壊を生んだことは言うまでもない)そして無限の「進歩」(なんや未来人は第五次元世界だかに住んでるらしい)に向けて、アメリカのおっさんらしくクールに豪快に旅立ってゆくのであった。これほんま、最後べつに例えば宇宙になんか行かず老衰した娘との場面をもっと濃密に描いてもよかったはずなんです。しかしあれだけアメリカのおっさんらしく娘との絆をしつこく描きながらなぜそこを端折って(そこは人任せにして)美女の元へ突入させたのか。まあ監督が「アメリカのおっさん」だからなんでしょうけど。あとほんま宇宙なんかに行かず息子と娘の墓を守りながら地球で畑でも耕すというような終わりでもよかったと思うんです。しかしこの監督は死にかけたばあさん(やたらとその溺愛ぶりときずなをしつこく描いていた当の娘)のケアは他人に任せ(だって娘自身がそうしろと言うもんだから)とにかく美女とフロンティアと進歩に向けて突入させた。まさにその姿男根の如し。それもこれもこの監督がアメリカのおっさんだからなのでしょう。要するに若いんでしょうね。アメリカは。若者の発想なんです。だから25歳くらいの若者ならそれもよしかと思うけどこのおっさん四十回ってんだろ。いつまで「主役(主演じゃないよ)」やねん。要するにトランプとイーロンマスクの国ですから。落ち着きがないんですよ。進歩大好きなんですよ。退屈大っ嫌いなんです。しかしまあ話を戻すと「右にあるものを左にやる」ということもほんとに不屈の気概を持って命がけぐらいの気持ちでやるというのはすごいことだよなあとは思います。いや皮肉でもなんでもなく。ほんまに。「父」というのは大昔の生き残ること自体が困難な時代ならもしかするとその役割というかありがたさはもっと子供たちも感じられたかもしれない。外敵から守ってくれたり食料を運んできたりして(まあ詳しくは知りませんが)そういうふうに直接的にその存在の意味みたいなものを肌で感じられることが多かったかもしれない。しかし現代では「母」とちがって「父」はなんのためにいるのかわからない。母のように細やかなケアだとか共感だとか身近でなんだかんだで寄り添ってくれる心理的な近さみたいなものはなく、家になんかいる、そしてたまに正論を偉そうにぶちかます、そして大事な時にはいない、逃げる、というふうに、はっきりいってたしかに現代では「父」はちょっとどうしようもないよなと思う。昔のような雄々しさみたいなものを持った人も少ないだろうし(オスとしての力強さがあればそれはそれで子供たちもある程度尊敬するだろう)かといって「母」のようにはできないしもしかすると誰かが言っていたけれど男というものはある程度の年齢になったらおばさんになった方がよいというのは現代社会では正解なのかもしれない。










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