【四】アフリカ人、水戸黄門に出会う(後編)
商館長が投宿する場所は地域によって決まっている。
江戸においては長崎屋、京都は海老屋、大阪長崎屋、小倉では大坂屋、といった具合だ。これらは総称して「阿蘭陀宿」と呼ばれた。
江戸の阿蘭陀宿、長崎屋は現在の中央区日本橋室町、新日本橋駅近辺に存在した。
本業は幕府御用達の薬種問屋であり、薬用人参の専売許可を受けていた。それと同時に阿蘭陀宿としても機能していたものであり、江戸参府の際は大勢が投宿することから、その規模は巨大なものであった。
商館長に随行する商館員、侍医、非公式にではあるが家族や姻戚などが同行する場合もあり、これが五人から十人弱。
長崎奉行配下の役人が、警護役検使、大小通詞、書記、料理人その他もろもろで最低でも五十人を下らないことがままあり、江戸へと向かうその道中は盛大なものであったという。
光圀は例年この長崎屋を訪れ、結構な額の買い物をすることから、その存在は歴代商館長に連綿と伝えられており、一種のお得意様と看做されていた。
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「これはこれは光圀公――じゃなかった、光右衛門さま。遠路はるばるようこそお越しくださいました」
鬢にそろそろ白いものが目立ち始めた、恰幅のいい初老の男が光圀一行を玄関まで出迎え、床に膝を着いた。
長崎屋の当主、二代目源右衛門である。
藍色の着物に正絹の羽織。目立たない装いだが、懐の豊かさをさりげなく感じさせる着こなしだった。
光圀はいつもの道中の出で立ちだ。いたずらに目立つことを嫌う光圀である。今回の道中、表立っては「越後の隠居、光右衛門」として動いていた。
元来老け顔の光圀はそれなりの格好をしておれば、それで通用するのである。
無論のこと、奉行所などの役所には上屋敷を通じて根回しは済ませてあった。
篠竹の杖を格之進に預け、よっこらしょ、と黒光りする無垢材の上り框に腰を下ろす。
「おや、これは源右衛門さん。お元気そうで何よりじゃ。――ご当主みずからわざわざお出迎えとは恐縮至極。はて、江戸表の者にしか今日の件伝えてはいなかったのじゃが……」
ほっほっほ、と源右衛門が愛想よく笑う。
「や、このご時世、あちこちで聞き耳を立てておりませんと、なかなか商売もはかどりませんで」
と目尻の垂れた丸顔をにんまりと緩ませた。
食えない狸だ、と助三郎は思った。
先代の初代源右衛門は長崎で薬の行商人から身を起こし、江戸に出て一代で財を築いた立身出世伝中の人物だが、その跡を継いだ二代目である当の主人は、先代に劣らぬ抜きんでた商才を示し、初代が築いた店をさらに拡大しようと目論んでいると聞いていた。
光圀に限らず、商館長が投宿している間の阿蘭陀宿には、江戸はもとより近隣諸藩からも、珍品や海外の情報を求めて連日客が訪れる。
学者、医者は言うに及ばず、各藩の大名屋敷の関係者や大手中小の商人や役人などもこぞって長崎屋に集った。
源右衛門は窓口としての業務を通じてそうした面々と人脈を作っており、それを利用して販路を広げようと考えるのは商人として当然の考え方であったと言えよう。
蕃書(洋書)や薬品類、銃器など表立っては取り扱えない品物も、場合によっては融通するらしい、とも助三郎は聞いていた。
もしもそうした後ろ暗いものを入手すれば、それは依頼した者の弱みとして長崎屋に握られることとなり、いつ使用されるかわからない手札を与えることになるのだ。
無論、そうそう弱みを握られるような行動をする光圀ではなかったが、油断できる相手ではない。助三郎は気を引き締めた。
「商館長がお待ちかねでございます。――どうぞこちらへ」
源右衛門は幅四尺もある広い廊下を先に立って歩き出した。一行が後に続いた。
「オー、友よ。ミツクニコウ」
足が沈むようなふかふかの絨毯が敷かれた十二帖ほどの広間に光圀が姿を見せると、銀髪で鷲鼻の大柄な白人が洋卓から立ち上がって両手を広げた。
第五十五代商館長、コンスタンティン・ランスト・デ・ヨングである。
「これはどうも、カピタン・ヨング。お久しぶりですの」
光圀が微笑みながら差し出した手を商館長のヨングが握り、片手で光圀の肩口をぽんぽんと叩いた。光圀の身長はヨングの肩まで程しかなく、まるで大人と子供のようだ。
格之進がむっとしてわずかに顔をしかめたのを助三郎は見逃さなかった。
まあ、気分はわからんでもないか、と思った。南蛮人の挨拶と言うものにどうも馴染めないのだった。
ちらりと室内を見渡した。
大きな紅い卓に六つの椅子。ヨングに勧められて黒漆塗りの椅子に座った光圀の傍らに通詞の南方が立ち、ヨングと長崎屋の脇にも長崎奉行所の通詞がいる。
ヨングの脇には小太りの白人の男が一人座り、部屋の隅には奉行所配下の者と思われる立ち合いの同心が二人、さらに警護役の検使が二人控え、といった具合で部屋とその周囲は結構混み合っていた。
隣の八帖間には、紙に包まれた反物、大小の桐箱や行李が所狭しと積み上げられている。
毎度のことながらどうもこの雰囲気は馴染めんな、と助三郎は思った。
無節の格天井は水戸の屋敷程も高く、壁には異国模様の壁紙が貼られ、障子の下半分は透かし模様の入ったぎやまんの板。
床の間には金色のやぐらの上でこちこちと時を刻む置時計があり、その背後には巨大な虎の毛皮が飾ってあった。
商品の展示場を兼ねているつもりなのだろうが、まるで見世物小屋だ。助三郎は小さく息をついた。
通詞の二人を介しながら光圀とヨングが世間話をしている。
「――ほお、『宝石』ねえ」光圀が顎に手を当てた。
『そうです。例えば』と言いながらヨングが縁飾りのついた上着の腰あたりにある膨らみから白い紙包みを取り出した。
卓の上に広げて、中から一寸ほどの大きさの虹色に光る石をつまみ上げた。
『これはオパール、と言います。今オランダではとても高い値段で取引されています。新大陸の南で採れるものなので、数が少ないのです』
もう一つ、と言って腰に手を入れた。取り出して広げた紙の上には美しい紫色をした透き通った石があった。
光圀が手元を覗き込んでほほう、と言った。
『これは紫水晶です。これも西欧諸国では装飾品として重宝されています。これは今回初めてお見せするものですが、もう一つ格が上のものがあります』
もったいをつけるように指を一本立てて、にんまりと笑うと、傍らの白人になにやら囁いた。
小太りの白人が両手をぱんぱん、と打ち鳴らすと、襖が静かに開き、二人の男がそれぞれ一抱えもありそうな石の塊を運んできた。
源右衛門と通詞の二人がおお、と声を上げる。
男たちが石を洋卓の上にごとり、と置いた。
それは切断面がつるつるに磨かれ、半分が空洞になった内部に結晶化した多数の紫水晶が覗いている岩だった。
『いかがです。見事なものでしょう。これほどの大きさのものは現地でもなかなか手に入りませんよ』
ヨングが自慢気に胸を反らせ、光圀を見た。
だが、光圀はヨングも石も見ていなかった。
光圀の眼は、石を運び込んだ二人の男をじっと見ていたのだ。
助三郎も格之進も同じように二人の男を見ていた。
枯草色をした中間の服装の袖から伸びた手足は、墨を塗ったような漆黒の肌だ。
蔓草を炙ったようにちりちりに縮んだ短い頭髪。
長い手足に引き締まった筋肉。
彫りの深い眼窩と低い鼻の下に分厚い唇がある。
石像のように無表情な顔はぴくりとも動かない。
光圀がほう、と声を上げた。
これが、二人のアフリカ人と光圀との最初の出会いだった。