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6 泥中の蓮

 じきに陽が沈む。馬車が通る道の両脇に無造作に生い茂る雑草は、誰の手も加えられないままあちこちに伸びていた。平坦な道が続き、近くに人の営みの気配もない。恐らく、少し歩けば町が見えてくるという場所でもないのだろう。


 盗賊たちに馬車を降ろされた時よりも辺りが薄暗くなってきた。もう、太陽も地上を照らすことに疲れてしまったのだ。きっとそうだ。行くべき道を見失ったヘザーは、毎日決まった動きを繰り返す太陽がちょっと憎らしくなった。太陽はただ同じことをしているだけなのに、あの煌々とした光を皆は飽きずに望む。


 自分とはまるで違う。

 ハドリーのためだと言い訳をし、善い行いをしているつもりになって大勢の人間に迷惑をかけた。完全に独りよがり。こんな自分は、誰にも望まれることはない。

 項垂れるヘザーの身体は脱力し、辛うじて地面を這うのを止めている状態だった。


 このままここに崩れたままでいれば、いずれ別の馬車が来て、存在に気づかれずに轢いて行ってくれるかもしれない。もしそうなれば、これ以上何も考えることも、苦しむことも、惨めになることもなくすべてから解放される。ならば動く必要もない。ずっと、泥と同化していればいいだけなのだ。


 太陽が完全に沈むまであと三十分もかからないだろう。真っ暗な夜が目を覚ませば、自分の姿は完全に隠される。そうだ。迷うことなどない。

 こんな姿を誰かに見られる恐れにも、二度と怯えなくていいのだから。


 立ち上がるという選択肢を放棄しかけたヘザーの脳裏には両親の姿が浮かぶ。せめて二人には感謝の言葉を伝えたかった。結末は凄惨だとしても、それまでの日々は確かに楽しいものだったのだと。

 どうか、愛する人たちが幸福に恵まれますように。

 ヘザーは胸の中で静かに祈る。

 愛する人。彼らのおかげで、自分は幸せに包まれた。


「ハドリー……」


 両親の次に頭に浮かんだのは太陽の下で見た彼の微笑みだった。いつもいつも、ヘザーのことを一番に考えてくれた。彼女を悲しませることがないようにと、慣れない甘い言葉まで囁く努力をしてくれた。偽装婚約とはいえ、彼はヘザーの想いを尊重してくれたのだ。


 それに引き換え、自分はどうだったのか。

 彼の本心を誰かに語ったことはない。とはいえ、二人の関係が不自然に見えてしまう雰囲気を自分が醸し出していたのかもしれない。

 誰かに疑念を抱かせる隙を与えてしまっては、彼との約束を破ったのと同じこと。無意識のうちに寂しい顔でもしていたのだろうか。ならば、彼がヒューバートに捕えられてしまったのも自分の失態だ。


 振り返れば、彼を愛した理由はたくさんある。ハドリーは学ぶことも好きだった。勤勉なところも彼の魅力の一つだ。

 このところはとりわけ医学の本を読むことが好きだったようで、彼を訪ねればほとんどその手には分厚い本が携えられていた。


 随分と没頭しているけれど、医学はそんなに楽しい?


 彼にそう訊けば、はにかみながら答えてくれた。


 楽しいか、楽しくないかじゃないんだ。知識があれば誰かを救うことができるかもしれない。そうやって、少しでも自分に期待していたいんだ。ほら、例えばヘザーが怪我をした時にも、医者を待つ必要がなく僕が処置をできるだろう?


 彼の言葉は嬉しかった。が、医学に興味を示す彼が常に命の過酷さに向き合っているようにも見えて、ヘザーはたまに不安にもなった。

 するとそんなヘザーの心を読んだかのように、彼はこんなことを言ったのだ。


 例え、僕が先に死んでしまったとしても、君にはずっと健やかで、穏やかな日々を過ごして欲しいと思っている。君の笑顔は皆に元気を与えてくれるから。だから、そのためにも、僕は医学を学んで、君のことを守りたいんだ。


 それでは寂しいわ。


 ヘザーが悲しげな顔をすれば、ハドリーはクスリと笑って本を閉じた。


 君には不可能なんてないはずだ。最大……いや、限界の限りまで、君には長生きしてほしい。たくさんの夢を、追って欲しいから。


 とんだ期待を、背負ってしまったものね。


 二人で笑い合った、柔らかな記憶が肌に触れたような気がした。

 泥を掴むヘザーの手に少しずつ力が宿る。

 命の脆さを人一倍知っていたハドリーも、こんな脅威は想定していなかったはずだ。


 最悪で死刑。最も楽観的に見積もっても、ハドリーは今頃どこかに幽閉されているはず。真実が世間に洩れ出ることを恐れたヒューバートがまずすることは、息子の姿を皆の前から消すことだからだ。

 婚約者に裏切られ、傷心だと告げておけば彼の姿が見えなくともそこまで不自然に思われることもない。ヒューバートも愛息子を即刻刑に処すことは避けたいと考えるだろう。彼はそこまで短絡的ではない。


 ヘザーの頭がゆっくりと持ち上がっていく。夜の帳はすぐそこに迫っていた。

 彼が囚われているのだとして、その原因は自分にある。自分のせいで、彼は誰よりも傷つき、苦しんでいるに違いない。

 だとすれば。

 彼の願いを、諦めることなどしたくない。


「……だめ」


 こんなところでくたばっている場合ではない。悲劇に浸り、自分を責めることに満足してはいけない。

 彼は望んだのだ。一番の親友が生きていくことを。


「立って……立って」


 ヘザーは自分の脚に懸命に囁きかける。身体が重くて言うことを聞いてくれない。

 口内を噛みしめ、ヘザーは泥を力の限り握りしめる。


「立ちなさい!」


 気づけば叫んでいた。自分の声に驚いた脚は、ようやく膝を立てて上を向こうとする。震える腕で身体を支え、足元がまだおぼつかないままにヘザーは徐々に身体を起こしていく。泥から手を離し、自分の脚で地面を捉える。

 まだ終わらせるわけにはいかない。誰かに決められた終わりを受け入れるのはご免だ。


 恋心も偽装婚約も何もかも、すべては自分が始めたこと。結末まで、自分が責任を負わなければ。

 自分は追放者。今すぐには難しくとも、もし生き抜くことができたのならば、彼を救う結末に辿り着けるかもしれない。


 勝手に諦めるのはあまりにも横暴だ。

 最大限界まで、生き抜いてみせる。

 それが、ハドリーの想いなのだから。


 盗賊が去って行った方角と自分が辿って来たであろう道を交互に見やり、ヘザーはどちらに行くべきかを思案する。そもそも、どこへ向かえばいいのだろう。

 王国の馬車は真っ直ぐに道を来たわけではない。今、この二つの行き先のどちらかを選んでも、これから幾度となく分かれ道に遭遇する。


 どの道を行くか。星の輝きが見えてきた地上では、頼れるのは自分の勘だけだった。もっと、空の地図を学んでいればよかったとヘザーは反省する。

 ひとまずは王国の馬車が来た道を行こう。そう決めた時、盗賊が去った方面から軽やかな蹄の音が聞こえてきた。もしや彼らが戻ったのか。本能的に身構えたヘザーの瞳に映ってきたのは、一頭の馬が率いる幌馬車だった。


 灯りをともしているためか、すぐにそれが何だか分かった。先ほど見た盗賊のそれとはまた違う。王国でも見たことのある、商人が使うものに似ている。

 ヘザーの瞼が開いていく。この道で、王国の衛兵や盗賊以外の誰かに出会えたことが奇跡に思えたのだ。

 咄嗟に道の中央に躍り出たヘザーは、両手を広げて可能な限り喉を開いた。


「と、止まってください‼」


 声は少ししゃがれていた。思えば喉はカラカラだった。が、ヘザーは気にすることなく更に続ける。


「どうか、力を貸してください‼」


 近づいてくる馬の速度が緩んでいく。馬の後ろに見える御者が、指示を与えて馬を止めようとしているのが分かった。ヘザーは両手を広げたまま唇をきゅっと結ぶ。黒の外套を着た彼が悪人か善人か。盗賊に出くわした彼女にとっては一大の賭けだった。


「どうどうどうどう。おやまぁ、お嬢さん。こんなところでどうしたのさ」


 ヘザーの目の前で馬を止めた御者は、高いところから彼女のことを見やって目を丸くした。被っていた帽子の鍔を持ち上げて視界を広げ、彼女が一体何者かをしっかり認識しようとしている。

 白髪の目立つグレーの髪をした彼は、整えた口髭が印象的だった。帽子を持ち上げたことで覗いた目元は垂れ、優しそうな表情をしている。マント型の外套の下に見えるのはシャツにベストといったとりわけ特徴のない服装だ。

 ヘザーの父親と同じくらいか少し年上に見えるその男は、馬をひと撫でした後で馬車を降り、彼女の前に立つ。


「おいおい、泥だらけじゃないか。というか、そんな格好で寒くはないのかい」


 彼は自分が羽織っていた外套を脱ぐと、急いでヘザーの肩にかける。流れるような自然な仕草に、ヘザーは思わず目を瞬かせる。


「もしかして人攫いにでもあったのか?」


 思いがけず暖を分けてもらったことにぽかんとするヘザーに対し、彼は目の色を変えて深刻な声を出す。ヘザーが慌てて首を横に振ろうとすると、幌馬車からまた別の声が聞こえてきた。


「なぁー、親父。なんかあったのかよ? さっさと帰ろうぜ。もう夜だし」


 今度の声は若かった。これも男の声だ。口髭の男を親父と呼んだ彼は、荷台から顔を出して御者の席に手をついた。

 輪郭まで伸びた長い前髪を額の真ん中で分けて少量だけ垂らし、残りの髪は後ろにまとめている。短い一つ結びだ。髪の色は口髭の男とは違い、薄茶色だった。癖なのか、髪には全体的にゆるいウェーブがかかっていた。口髭の男に似た目をしている。この青年は彼の息子なのだろう。


「あれ?」


 顔を出したことで、青年はようやくヘザーの存在に気づいた。父と話す若い女の姿を見た彼は、時間が止まったかのようにぴたりと動きを止める。


「ジェイデン。悪いな、ちょっと待ってくれ」


 口髭の男は若い男を振り返って人差し指を立てる。彼なりの、待て、の合図らしい。


「どうしたのその人。随分、震えてるみたいだけど」


 驚いたのか、ジェイデンは目を丸く見開いてぽんやりとした声で訊ねる。どうやらヘザーの様子に呆気に取られているようだ。


「分からないが、困っているのは間違いないだろう」


 口髭の男はジェイデンにそう答えると、改めてヘザーに向き直る。


「それで、君は大丈夫なのかい。さっき、力を貸してくれと言っていたように聞こえたのだけれど」


 穏やかな彼の語調に、ヘザーは指先にほんのりと体温が戻ってきた気がした。何よりも、彼らの言葉が理解できることがありがたかった。盗賊が話していた言葉とは違い、彼らの言語は昔、学んだことがある。自国の言語と親戚のように似ているため、覚えやすかった記憶だ。確か、ラタアウルム国のものだ。ヘザーの故郷よりも大きな国で、さまざまな産業技術が発達し、豊かな国だと聞いている。


 外交的にもヘザーの母国と繋がりがあるからか、この国の言葉は先にハドリーが学んでいた。彼とともに時間を過ごしたくて、後にヘザーも一緒に勉強を始めたのだ。


「あの、わ、私……」


 ヘザーの言葉を待つ彼の眼差しが、彼女の錆びついた心に滑らかに浸透してくるようだった。彼らに悪意がないことは既に分かっている。けれどヘザーはうまく言葉を発せなかった。

 怖いからではない。怖くはないのに、どうしても声が震えてしまう。

 襤褸布はとっくに頭からずり落ち、彼らには醜い姿が見えているはずなのに。まだ自分で直視する勇気もないその形姿を、彼らは逃げることなく受け止めてくれている。


「わたし……」


 どんなにみっともないだろう。自覚はあれど、止められなかった。

 ぼろぼろと、勝手に涙が瞳から溢れてくるのだ。


「助けて、ください」


 勇気を振り絞り、ヘザーはようやく言葉を話す。

 何故、涙が出てくるのかヘザーには分からなかった。もう枯れたはずだと思っていたのに。

 彼らの言葉が知っているものだったからだろうか。言葉の意味が分かることに久しぶりに安堵を覚えたせいだろうか。ほっとして、気が抜けたせいなのだろうか。


 両手で涙を拭おうとするヘザーの肩を口髭の男が優しく撫でる。すると、ヘザーは堰を切ったように声を上げて泣きだした。膝をついて泣き崩れそうになる彼女のことを、口髭の男はそっと抱き寄せて支える。

 二人の様子を見ていたジェイデンも荷台を降り、荷物の中から持ってきた綿織物を外套の上からヘザーに被せた。外套を着せたとはいえ、彼女が身に纏う麻布はボロボロであまりにも薄く、貧相だった。


「行く場所が、分からないの」

「分かった。いいから少し休め。顔色が悪いぞ。荷台に食べ物もあるから、まずは何か食べよう。あ、お茶とか飲む? ちょうどいい茶葉を手に入れて、試してるところなんだ」


 織物でヘザーをくるんだジェイデンは矢継ぎ早に声をかけ続けた。


「ジェイデン、少し落ち着きなさい。彼女も困ってしまうだろう」


 口髭の男に窘められ、ジェイデンは軽く肩をすくめる。未だ涙が止まらないヘザーの背を撫で、彼は口髭の男に代わってヘザーを支えながらゆっくり荷台へ歩き始めた。口髭の男は馬を愛おしそうに撫でてから席に戻る。


「何があったかは知らないが、もう大丈夫だ」


 そう言ってヘザーに寄り添うジェイデンの声は、東の方角に密かに姿を現した月光の如く淡く、温かいものだった。


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