56 「…………わかった」
恐慌状態のオルタンシアを庇うかのように、義兄ジェラールはヴィクトル王子の前に立ちはだかっている。
ヴィクトルは突然現れたジェラールの存在に気圧されたかのように息を飲んだが、すぐに果敢に言い返した。
「君は……ヴェリテ公爵家の? 悪いけど、そこをどいてくれないかな」
「……王子殿下、お控えください。怯える人間を更に追い詰めるようなのが王家のやり方ですか」
「僕とシアは友達なんだ! 邪魔をしないでくれ!!」
さすがは皆に愛されて育った王子というべきだろうか。
こんなに冷たい空気を纏うジェラール相手に食って掛かるとは、命知らずとしか言いようがない。
だが、もちろんジェラールとて王子が相手でも怯むような人間ではない。
「……そうですか。それが王家のやり方ですか」
「っ……!」
ジェラールが纏う空気がいっそう冷たくなり、ヴィクトルが気圧されたように息を飲んだのがわかった。
……ジェラールは本気で怒っている。
そう感じ取ったオルタンシアは焦った。
(まずい、なんとかお兄様を止めないと……!)
いくら相手が王子だとはいえ、ここでジェラールが暴走しないとは限らない。
そうなったら、ヴェリテ公爵家が大変なことになってしまう……!
(私のせいで……そんなの駄目……!)
オルタンシアはとっさに、引き止めるようにぎゅっと彼の背中にしがみついた。
一触即発の緊張感に満ちた空気が漂う、そんな中――。
「おやおや、これはこれは……」
この場の空気にそぐわない、おおらかな声が響く。
まさに天の助けとばかりに、オルタンシアはぱっと顔をあげた。
(お父様……!)
現れたのは、オルタンシアとジェラールの父だった。
彼はヴィクトルと睨み合うジェラール、それにジェラールの背後に隠れたオルタンシアに視線をやり、一瞬で状況を把握したようだった。
「大丈夫かい、オルタンシア。緊張して気分が悪くなってしまったのかな。気が付かなくて済まなかったね」
父はゆっくりオルタンシアたちの元へ歩いてくると、すぐにジェラールに声をかけた。
「ジェラール、この後のことは私に任せてオルタンシアを連れて屋敷へ戻りなさい」
とりあえずジェラールとヴィクトルを引き離すべきだと考えたのだろう。
父は手早くそう指示し、ジェラールも頷いた。
「行くぞ」
ジェラールはオルタンシアを抱き上げ、オルタンシアもぎゅっと義兄にしがみついた。
「待ってよシア! 僕のこと覚えてるよね!? シア!!」
足早にその場から立ち去るジェラールの背後から、必死なヴィクトルの声が聞こえてくる。
だがオルタンシアは返事をしなかった。
ただ父がなんとか場を収めてくれることを祈りながら、小さな体を震わすことしかできなかったのだ。
必死にオルタンシアを呼ぶヴィクトルの声と、彼を宥める父の声が段々と小さくなっていく。
オルタンシアを抱えたまま王宮を出たジェラールは、すぐさま公爵家の馬車に乗り屋敷へ戻るように指示をする。
馬車の扉が閉められ、オルタンシアはやっと呼吸を落ち着けることができた。
馬車が走り出し、オルタンシアが落ち着きを取り戻したのを見て……ジェラールはぽつりと問いかけてきた。
「……いつ、ヴィクトル王子と知り合ったんだ」
「チロルと契約して、精霊界から帰って来る途中で……間違って王宮の敷地内に出ちゃったことがあったの……」
そこでヴィクトルと言葉を交わしたことがあると説明すると、ジェラールは形のよい眉をひそめた。
「それにしては、ずいぶんと怯えていたな」
「……王家の人は怖いから、関わりたくないんです」
オルタンシアの脳裏に、前世で体験した数々の悲惨な記憶が蘇る。
ヴィクトルが悪いわけではない。
そうわかっていても、やはり怖いものは怖いのだ。
彼と関わってしまったら……また同じ末路を歩んでしまうかもしれない。
自らを抱きしめるようにしてガタガタと体を震わせるオルタンシアに、ジェラールはぬっと腕を伸ばす。
そして……。
「わっ!?」
彼の膝の上に抱えあげられ、オルタンシアは素っ頓狂な声をあげてしまった。
「お兄様……?」
おそるおそる顔をあげたオルタンシアを、ジェラールは感情の読めない瞳で見つめている。
もしやヴィクトルとの出会いを黙っていたのを怒られるのでは……とオルタンシアはびくりと身を竦ませたが――。
「……お前は、あの王子と関わりたくないんだな」
降ってきたのは、存外優しい響きの言葉だった。
「は、はい……」
オルタンシアがおずおずと頷くと、ジェラールは若干ぎこちない手つきでオルタンシアの背を撫でた。
「…………わかった」
またいつもの、何が「わかった」なのかよくわからない「わかった」だった。
だが、オルタンシアは安心したように義兄の胸元に身を預けた。
(……不思議、前はあんなに怖かったのに……お兄様がそう言ってくれると安心できる……)
彼が「わかった」と言ったのだ。きっと、何らかの対処をしてくれるのだろう。
「あっ、でも……王家と公爵家の関係にヒビが入りそうなことはやめてくださいね」
念のためそう言うと、ジェラールは少し気まずそうに視線を逸らした。
「……善処する」
「絶対ですよ! お兄様!!」
(いったい何をする気だったのー!?)
ジェラールの内なる計画に少し怯えつつ、オルタンシアは何度も何度も義兄に釘を刺すのだった。