39 魔性の男
「あぁ、オルタンシアは初対面だったね。彼は新しくうちで働くことになった使用人だ」
父の言葉を受けて、件の使用人が優雅に礼をする。
「お初にお目にかかります、オルタンシアお嬢様。新しく公爵家にお仕えすることになりました、リュシアンと申します」
彼が頭を下げると、首の後ろで結わえた髪がさらりと肩を滑り落ちた。
艶のある黒髪に、思わず目を奪われてしまうような整った顔立ち。金色の上品な片眼鏡に、その奥で揺れる藍色の理知的な瞳。
(すごい、魔性の男って感じ……!)
オルタンシアが彼に抱いた第一印象はそんなものだった。
部屋の隅に控えるメイドたちも、どこか熱っぽい視線を彼に注いでいる。
(うわぁ、トラブルにならないといいけど……)
そんな心配を胸の内に押し殺し、オルタンシアは彼に微笑みかけた。
「よろしくね、リュシアン」
「リュシアンは主にジェラールの補佐をしてもらうことになっている。といっても、何か困ったことがあったら彼を頼ってもらって構わないよ」
そんな父の言葉に呼応するように、リュシアンはオルタンシアに甘い笑顔を向けた。
「何かございましたらいつでもお申し付けください、お嬢様」
「う、うん……ありがとう」
「愛らしいお嬢様の望みとあらば、いつでも馳せ参じましょう」
どこか悪戯めいた表情でそんなことをのたまうリュシアンに、オルタンシアは呆れてしまった。
(これ絶対、知り合う女の子全員に同じこと言ってる奴だ……!)
一瞬にして、リュシアンはオルタンシアの「信用できない者リスト」のトップに躍り出た。
呆れたように笑うオルタンシアに、なおもリュシアンは続ける。
「それにしても、オルタンシアお嬢様はまさにヴェリテ家の至宝とも呼ぶべき愛らしい御方ですね。数年もすればさぞや多くの殿方が求婚を――」
「控えろ、リュシアン」
いつまでも続くかと思われたリュシアンのお世辞は、冷たい空気を纏うジェラールの一言で断ち切られた。
ジェラールはいつもの絶対零度の瞳で、リュシアンを睨みつけている。
だがリュシアンは怯えることもなく、おどけたように礼をしてみせた。
「おっとこれは失礼いたしました。妹思いのジェラール様には、お嬢様のご結婚の話は不愉快なようで」
(……よくお兄様に殺されないな、この人)
どこまでもマイペースなリュシアンに、オルタンシアは呆れるべきか感心するべきか迷うほどだった。
まぁでも、あのジェラールの下につく人物ならこのくらいの肝の太さは必要なのかもしれない。
不機嫌そうなオーラを纏うジェラールから目を落とし、オルタンシアはぱくりと食事を口に運ぶ。
(はぁ、相変わらず美味しい……。さすがは国内有数の公爵家……あっ)
その時、オルタンシアははっと大変なことを思い出した。
(そういえば、ヴィクトルの所から落ちる直前に、「王子」って聞こえたような……)
そう気づいた瞬間、オルタンシアは真っ青になった。
(そうだ。どうして気づかなかったんだろう……!)
一度は婚約者候補として王城に上がった経験すらあるのに、なんとオルタンシアは自国の王太子の名前をすっかり忘れていたのだ!
一度目の人生で出会った青年期の落ち着いた「王太子ヴィクトル」と、やんちゃな子どものような「ヴィクトル」があまりにかけ離れていたせいかもしれない。
だが考えれば考えるほど、名前、外見の特徴……何もかもが一致する。
(そうなると、私が出会ったあのヴィクトルは……まさかヴィクトル王太子の子ども時代!?)
思わずごほごほとむせてしまい、父から心配そうに声をかけられ……オルタンシアは「大丈夫」とでもいうようにふるふると首を横に振った。
(いやいやいやそんな馬鹿な……なんでよりにもよって王城に出ちゃったの私!)
ヴィクトル本人に恨みがあるわけではないのだが、もとはと言えばオルタンシアが処刑される原因となったのが彼の妃選びの儀式なのである。
オルタンシアと言えば、トップクラスに近づきたくない人物であるのは間違いない。
(よし、もう絶対近づかないようにしよう……)
スプーンを手にしたまま百面相を繰り返すオルタンシアに、周囲の者は不思議そうに首をひねるのだった。