172 それでも構わない
「私の、私のせいで……ごめんなさい……」
ひたすらに謝罪を繰り返すオルタンシアの頬に、そっとジェラールの指先が触れる。
「……泣くな」
驚いて顔を上げると、まっすぐにこちらを見つめるジェラールと視線が合う。
その瞳の奥に確かな熱を感じ取り、オルタンシアは思わず息をのむ。
「お前に泣かれると、どうしていいのかわからない」
奇しくも、それは以前元の世界のジェラールに言われたのと同じ言葉だった。
「お前が泣いている姿を見るたびに、心が搔き乱される。……お前だけだ。俺を、こんな風にするのは」
ジェラールの手が頬から肩、そして背中へとまわり、ゆっくりと抱き寄せられる。
感じる温かな体温に、抱き寄せる腕の力強さに、オルタンシアの鼓動は高鳴る。
……これは、いけない。
そう頭のどこかで警鐘が鳴っているのに、離れられない。離れたくない。
目の前にいるのはジェラールだ。元の世界では、オルタンシアの義兄のジェラールだ。
……だから、あえて彼のことをそういう意味では意識しないようにしていた。
たとえ血がつながっていなかったとしても、仲の良い兄妹であろうとした。
オルタンシアは生き残るために、ジェラールは欠けた心の隙間を埋めるために。
そうやって、身を寄せ合って来たのだ。
いつか彼がオルタンシア以外の女性の手を取る可能性を感じるたびに、心のどこかがきしむ音がしていた。
けれども、ずっと見ないふりをしてきたのだ。
だって家族じゃなければ、兄妹じゃなければオルタンシアなどとても彼の傍にいることはできないのだから。
気づいてはいけない。一線を踏み越えてはいけない。
きっと無意識に、そう律していたのだ。
ずっと元の世界で穏やかに暮らすことができたのなら、それでよかっただろう。
だが、オルタンシアは自らの手で運命を変えてしまった。
今ここにいるのは、オルタンシアとは血のつながりも、兄妹として育った記憶もないジェラールだ。
それでも彼は、一人で泣いているオルタンシアを見つけてくれた。手を差し伸べてくれた。
弱っていたところにそんな風に優しくされてしまえば……もう、自分の心に嘘がつけなくなってしまう。
(私は、この人のことが……)
オルタンシアがそう思うのと同時に、ジェラールはゆっくりと囁いた。
「俺は、お前に惹かれている」
包み込むように優しく、それでいて確かな熱情を感じさせる声で彼はそう言った。
「お前が近くにいれば目で追わずにはいられない。お前が遠くにいるときはまた泣いていないか、傷ついていないかとそんなことばかりが気になってしまう。……こんな思いをするのは初めてだ」
ジェラールの言葉に胸が熱くなる。
不思議と、嫌悪感や戸惑いは感じなかった。
「今まで他の誰にも、こんな感情を抱いたことはなかった。だが、すぐにわかった。これが……愛という名の感情なのだと」
その言葉が耳に届いた途端、オルタンシアはたまらなくなって自らのジェラールの背に両腕を回していた。
本当は、オルタンシアだって、ずっと――。
愛し、愛されることがこんなにも深い幸福感をもたらすなんて、今まで知らなかった。
ジェラールは一瞬驚いたように息をのんだが、すぐに強くオルタンシアを抱きしめ返してくれた。
「……オルタンシア」
彼の声で名前を呼ばれるたびに、胸に灯がともる。
抑えきれない感情が溢れそうになって、ますます強くしがみついてしまう。
「貴族とか使用人とか、そんなものは関係ない。俺はお前がいい」
彼は一度オルタンシアの体を離すと、至近距離で見つめあいながら告げた。
「これから先、何があっても俺が必ずお前のことを守る。だから……俺の妻になってくれ、オルタンシア」
「!?」
熱に浮かされたようだった心が、急に現実へと引き戻される。
妻になってくれとジェラールはいった。つまりは結婚しようということで、これは紛れもなくプロポーズの言葉であって……。
(ど、どうしよう……!)
ただ大好きな人に愛の言葉を告げられて、舞い上がっている場合ではない。
ジェラールは誠実な人間だ。
だからこそ、オルタンシアを心配させまいと将来のことを約束してくれたのだ。
だがオルタンシアはただ彼が愛を告げてくれた時とは違い、素直にその申し出を受け入れることはできなかった。
(今の私はただの使用人。ヴェリテ公爵家の跡取りであるジェラール様の妻になんて……)
そんなの、許されるわけがない。
マルグリットはもちろん、公爵夫妻だって受け入れられるわけがない。
……また、オルタンシアのせいでヴェリテ公爵家の平穏が幸せが壊れてしまう。
「オルタンシア」
急に青褪めたオルタンシアの顔を、ジェラールが心配そうにのぞき込む。
オルタンシアもおずおずと目の前の青年を見つめ返した。
こちらを見つめる美しい瞳が。
優しく頭を撫でたり、抱きしめてくれるその温かな手が。
何よりも、冷たいようで優しいその心が……好きだと気づいてしまった。
それでも、彼と見つめあっているともう一人の「ジェラール」のことを思い出さずにはいられない。
(お兄様……)
目の前の彼が、別の運命を辿ったオルタンシアの義兄その人なのか。
それとも呼び声が聞こえたように、義兄であるジェラールは今の別のどこかにいるのか。
……果たして自分が惹かれているのは、どちらの「ジェラール」なのか。
オルタンシアは急に、わからなくなってしまった。
戸惑いがちに視線を伏せたオルタンシアに、ジェラールは少し切なげに呟く。
「……やはりお前は、俺を通して別の誰かを見ているんだな」
「ジェラール様っ! それは――」
「だが、俺はそれでも構わない」
ジェラールははっきりとそう告げ、オルタンシアは思わず息をのむ。
「お前が俺を通して誰を見ているのかは知らないが、必ず……そいつ以上の存在になってやる」
確かな決意をにじませた声で、ジェラールはそう告げた。
彼はオルタンシアの肩に手を触れ、至近距離で囁く。
「だから……俺を選べ、オルタンシア」
その声に、視線の強さに捕らわれてしまいそうになる。
オルタンシアが何を言おうかわからないまま、口を開こうとしたその時――。
――バァン、と勢いよく、部屋の扉が開かれた。
「……!」
反射的にそちらへ視線をやり、オルタンシアはひっと息をのむ。
扉の向こうにいたのは、怒りに満ちた表情のマルグリットだったのだ。




