171 こんなの、いけないのに
「はぁ……」
気を付けていても、重いため息が漏れてしまう。
現在のオルタンシアは、またもやマルグリットに洗濯を命じられて孤軍奮闘中だ。
「っぅ……」
腕を動かすたびに、鞭で打たれた箇所がずきずきと痛む。
これでは作業効率も落ちてしまう。オルタンシアの仕事が遅れれば、マルグリットはまだ罰だと言ってオルタンシアを痛めつけるだろう。
……嫌な堂々巡りに入ってしまった。
(私は、どうすればよかったんだろう……)
今までマルグリットの居場所を、ジェラールの穏やかな幸せを奪っていた分、彼らに尽くそうと思っていた。
だがオルタンシアがここに居続けても、事態が好転するとは到底思えないのだ。
むしろオルタンシアの存在が、平和だったヴェリテ公爵家を搔き乱しているのかもしれない。
(私は、この世界にいらなかった)
思考が、どんどん下へ下へと沈んでいく。
(最初から、私なんていない方がよかったんだ……)
その方が、みな幸せに生きられるのかもしれない。
そう考えた途端、押し殺していた悲しみが、寂しさが胸の奥からこみ上げてくる。
気が付けば、ぽろりと涙が頬に零れ落ちていた。
その時だった。
「おい」
背後から声が聞こえ、オルタンシアは反射的に振り返ってしまう。
いつの間にやって来たのだろうか。そこに立っていたのは、ジェラールだった。
「こんなところでまた……っ!」
何か言おうとしたジェラールが、オルタンシアの顔を見て驚いたように目を見開く。
そこでやっと、オルタンシアは自分が泣いていることに気づいた。
「あの、これは……」
慌てて涙を拭おうとする前に、ジェラールに手首を掴まれ阻止されてしまう。
その途端腕に鋭い痛みが走り、オルタンシアは小さく悲鳴を上げてしまう。
「痛っ……」
「っ……お前、どこか怪我を――」
オルタンシアは慌てて隠そうとした。
傷跡を見られてしまっては、もう誤魔化しようがない。
だが、ジェラールの方が速かった。
「やめっ……」
オルタンシアが止める間もなく、彼はオルタンシアの服の袖をまくってしまったのだ。
「なっ……」
そこに現れた幾筋もの傷跡を見て、ジェラールは絶句する。
オルタンシアはもう、情けなくて消えたくて涙が止まらなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
自分でもどうしていいのかわからずに、ただしゃくりあげながら謝り続けることしかできない。
ジェラールは何かを堪えるような表情で、オルタンシアを見つめている。
「……来い」
「駄目です、まだ仕事が――」
「いいから来い!」
いつになく乱暴な口調でそう言うと、ジェラールは踏みとどまろうとするオルタンシアの体を軽々と抱き上げた。
「ひゃっ!?」
反射的に、オルタンシアは落ちないようにジェラールにしがみついてしまう。
ジェラールはオルタンシアを横抱きに抱えたまま、颯爽と歩き始めた。
すれ違う使用人たちが、驚いたように二人を見て立ち止まる。
……こんなの、いけないのに。
ジェラールは公爵家の跡取りで、オルタンシアはただの使用人。
いらぬ誤解を招くような真似は、絶対に避けなければいけないのに……。
(温かい……。お兄様と、同じ……)
元の世界でも、ジェラールは何度となくこうしてオルタンシアを抱き上げてくれた。
それこそ運命が変わる少し前まで、「お前は病み上がりなので無理はさせられない」と過保護にオルタンシアを抱き上げてくれたことを思い出す。
(お兄様……)
目の前のジェラールはオルタンシアの義兄のジェラールではない。
そう、頭ではわかっているのに。
抱き上げてくれる腕のたくましさが、触れ合った部分から伝わってくる彼の体温が。
否応なく、懐かしさを呼び起こす。
極限状態まで追い詰められていたオルタンシアに、離れるという選択肢がとれるはずがなかったのだ。
やがてたどり着いたのは、ジェラールの私室だった。
ジェラールはオルタンシアを抱き上げたまま、戸惑うことなく部屋の中へと足を踏み入れる。
そしてそのまま、そっとオルタンシアをソファへと降ろした。
「傷跡を見せろ」
そう言った彼は、オルタンシアの承諾を得ることなく再び袖をまくり上げる。
白い肌についた、幾筋もの赤い傷跡。
それを目の当たりにしたジェラールは、悔しげに唇を噛みしめた。
彼は何か言おうと口を開き……まるで言葉を飲み込むように一度口を閉じた。
「……応急手当をする。いいな」
「はい……」
オルタンシアが小さく頷くと、彼は近くの棚から包帯や消毒液を取り出した。
騎士として危険な任務に赴くことも少なくない彼のことだ。
負った傷を自分で手当てすることもあるのだろう。
オルタンシアとて傷が悪化しないように最低限の応急処置はしていたが、今日はマルグリットに傷をつけられてすぐに仕事を命じられていた。
負ったばかりの傷跡からは、今も血が滲んでいる。
「少し染みるが我慢しろ」
「っ……」
消毒液が傷跡に染み、鋭い痛みが走る。
生理的にこみ上げてくる涙と、雇い主であるジェラールにこんなことをさせている情けなさが相まって、ぽろぽろと頬を伝い落ちる雫は止まらない。
「……そんなに泣くなら、なぜ今まで黙っていた」
手当てを終えたジェラールは、静かにそう問いかけてくる。
……彼の言うとおりだ。
ジェラールは何度もオルタンシアの異変に気付き、手を差し伸べようとしてくれていたのに。
それを突っぱねたのはオルタンシアなのだから。
あの時はそれが正しい判断だと思っていた。
だが、今は……もう、わからなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝れとは言ってない」
言葉は冷たくとも、その声色にはどこか優しさを感じずにはいられなかった。
そんなジェラールの気遣いにつられるように、オルタンシアは胸の内を吐露してしまう。
「ヴェリテ公爵家の……幸せを壊したくなかったんです……」
やっと見つけた、ジェラールの幸せ。
心を凍らせることなく、彼がまっとうに育ち家族と仲睦まじく暮らしているこの世界。
そんな幸せを、オルタンシアの手で壊すような真似はしたくなかったのだ。




