170 誰を見ている
「またマルグリットが何かしたんだろう」
ジェラールの口から出た確信めいた言葉に、心臓が大きな音を立てた。
だがまさかジェラールも、実の妹が使用人を鞭で打っているなどとは思いもしないはずだ。
それだけは、隠し通さなければ。
「……問題ありません。お嬢様にお仕えすることが、私の仕事ですから」
無理に笑顔を作ってそう言うと、ジェラールは痛ましいものでも見るような顔をした。
「……過去にもマルグリットの横暴に耐えかねて屋敷を去った使用人は多い。お前もどうしてもというのなら配置換えを――」
「大丈夫ですよ。……それに、私を拾ってくださったのはお嬢様ですので、直接お嬢様にご恩をお返ししたいのです」
今オルタンシアが別の担当へ移動すれば、マルグリットはすぐにジェラールが関与していることに気づくだろう。
たとえ彼女のお付きから外れたとしても、マルグリットの折檻が終わるとは思えない。
それどころか、新しくマルグリットの下に配置された者に当たり散らす可能性もあるのだ。
(……マルグリットの罰を受けるのは、私一人で十分だ)
元の世界で、ずっとマルグリットの居場所を奪っていた罰。
ヴェリテ公爵家の、ジェラールの幸せを壊し続けていた罰。
自分は、罰を受けるのが当然の存在なのだ。
いつの間にかオルタンシアは、そう思い込むようになっていた。
そんなオルタンシアを見て、ジェラールは苦々しく呟く。
「……俺は、そんなに頼りないか」
その言葉に、オルタンシアははっと顔を上げた。
「違います! 決してそんなことは――」
「だがお前は何度言っても俺に頼ろうとはしない」
「本当に、大丈夫なんです……」
自分でもなんて説得力がないのだろうと呆れるほど、弱弱しい声しか出なかった。
「オルタンシア」
ジェラールがゆっくりと、オルタンシアの名を呼ぶ。
いつの間にか、彼の瞳の中に自分の姿が映っているのがわかるほど、二人は近づいていた。
「ジェラール様……」
こちらを見つめるジェラールから、目が離せなくなる。
……どうしても、探してしまう。
彼の中に、彼ではない「ジェラール」を。
「……お前は」
不意に、ジェラールがぽつりと呟いた。
「俺を通して誰を見ている」
「ぇ……」
彼にそう問いかけられた途端、オルタンシアの鼓動が跳ねた。
……気づかれていたのだ。
オルタンシアがこの世界のジェラールを通して、元の世界のジェラールの面影を探していたことに。
まさか彼に悟られているとは思わず、オルタンシアは一気に血の気が引いた。
とっさに言葉が出てこず、きゅっと唇を引き結んでしまう。
そんなオルタンシアに、ジェラールが更に何か言おうとしたとき――。
「オルタンシアー! いるー!?」
廊下の向こうからパメラの声が聞こえてきて、オルタンシアははっと我に返る。
慌ててジェラールから距離を取り、オルタンシアは返事をした。
「パメラ、どうしたの?」
「ここにいたんだ! オルタンシアがお嬢様を探していて――」
言葉の途中で、ジェラールの存在に気づいたパメラはぎくりと体を強張らせた。
「……もういい。用は済んだ」
ジェラールもさすがにパメラの前で続ける気にはならなかったのか、それだけ言うとさっと踵を返して去っていく。
「……ジェラール様と一緒だったの?」
「少しお嬢様のことをお話ししただけで……何でもないよ!」
オルタンシアは慌ててそう言い繕った。
「それより、お嬢様が私をお探しだって――」
「そうそう! ちょっと機嫌悪いみたいだから急げるかな?」
「……うん、すぐに行く」
ただでさえマルグリットはオルタンシアへのあたりがきついのに、機嫌が悪いとなると何か理由をつけて折檻を加えられるのは間違いないだろう。
憂鬱な気分で、だがそれをパメラには悟られないように笑顔を浮かべて、オルタンシアはマルグリットの下へと急ぐのだった。




