169 本当に、これでよかったのかな
オルタンシアがマルグリットに連れてこられたのは、薄暗い地下の一室だった。
壁にかけられていた物を見て、オルタンシアは思わず息をのむ。
それは、人を罰する際に使用する鞭だった。
(ここは、もしかして懲罰室……?)
今は人道的な観点からほとんど廃止されているが、昔は貴族が使用人を罰するのに鞭を使うというのは珍しくなかったと、歴史の授業で習ったことがある。
ヴェリテ公爵家ほどの規模の屋敷であれば、専用の懲罰室があってもおかしくはない。
元の世界で、オルタンシアが懲罰室の存在を知ることはなかった。
(私には、必要がなかったから)
オルタンシアは使用人を鞭で罰したいなどと思ったことはない。
だが、マルグリットは違う。
(そこまで、私は不興を買ってしまったんだ……)
彼女は人道的観点に反してまで、オルタンシアを肉体的に痛めつけるという方法で罰しようとしている。
(私のせいで……)
オルタンシアはジェラールとマルグリットの、ヴェリテ公爵家の幸せを願っていただけなのに。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
「さぁ、腕を出しなさい」
鞭をしならせるマルグリットが、高圧的にそう命じる。
オルタンシアはおずおずと袖をまくり、机の上に腕を乗せた。
「綺麗な手ね……。ろくに仕事をしていないんじゃないかしら」
オルタンシアの白くてつややかな手を見たマルグリットが、忌々し気にそう呟く。
情けなさがこみ上げてきて、オルタンシアはきゅっと唇を噛みしめた。
「いい? オルタンシア、これは躾けよ。職務怠慢の上に、私のドレスを汚したあなたへの躾なの」
「……承知いたしました」
「悪いのはすべてあなたよ。だから……このことは誰にも言うんじゃないわよ。いいわね?」
「……誰にも言いません」
「ふん、口だけは達者ね。そうやってお兄様を……いえ、なんでもないわ」
マルグリットは苛立ったように鞭をしならせ、オルタンシアを睨みつける。
「舌を噛むんじゃないわよ」
そう言って、彼女は無防備なオルタンシアの腕に勢いよく鞭を振り下ろした。
「っう……!」
焼けつくような痛みが走り、堪えていた悲鳴が漏れ出てしまう。
おそるおそる目を開けると、オルタンシアの腕にははっきりと赤い線が浮かび上がっていた。
「これはあなたの職務怠慢の証よ。恥ずかしいわよねぇ。誰かに見られたら、あなたが使えない人間だと示すようなものよ。だから……絶対に、誰にも見せるんじゃないわよ」
「……心得ております」
元より、マルグリットに折檻を加えられたなどとオルタンシアが誰かに言えるわけがない。
(……大丈夫。私が我慢すればきっとうまくいくはず)
生理的な涙をぬぐいながら、オルタンシアは自分自身にそう言い聞かせた。
……そうしないと、心が折れてしまいそうだったのだ。
それからも、マルグリットの横暴は続いた。
彼女はことあるごとにオルタンシアに無理難題を押し付けたり、仕事を妨害するようになったのだ。
もちろんオルタンシアがうまくこなすことができなければ、地下での鞭打ちが待っている。
オルタンシアの白い肌には幾筋もの赤い線が刻まれ、着替えの際などにパメラに気づかれないか気を遣うほどだった。
(本当に、本当にこれでよかったのかな……)
日を追うごとに、オルタンシアは自分自身にそう問いかけずにはいられなかった。
オルタンシアの傷がいくら増えようとも、ジェラールとマルグリットの仲が深まったようには見えない。
むしろオルタンシアの存在が、皆に愛される公爵令嬢マルグリットを歪めているように思えてならないのだ。
(私が願ったヴェリテ公爵家の、お兄様の幸せはこれでいいの……?)
マルグリットの態度は異常だ。
オルタンシアもこのままではいけないことはわかっている。
だが……どうすればいいのだろう。
「お嬢様に折檻を受けました」などとオルタンシアが口にすれば、それこそヴェリテ公爵家の平穏は壊れてしまうだろう。
まるで暗闇に迷い込んだように、どうすればいいのかわからない。
そんなオルタンシアに真っ先に気づいたのは……やはりジェラールだった。
「いつになく暗い顔をしているな」
偶然廊下ですれ違ったジェラールにそう声を掛けられ、オルタンシアはどきりとしてしまう。
足を止めると、ジェラールは探るような目をこちらへ向けた。
「……申し訳ございません」
小さな声でオルタンシアは謝罪する。
すると、ジェラールは心外だとでも言うように眉根を寄せた。
「別に、謝れと言っているわけじゃない。……いったいなぜ、そんな顔をしている」
……取り繕えているつもりだった。
共に行動することが多いパメラにさえも、隠し通していたのだ。
なのにどうして……ジェラールにはわかってしまうのだろう。




