166 もう一度会えるのなら、なんだってするのに
「ジェラール、様……」
弱弱しく名を呼ぶと、彼は何かを耐えるように表情を歪めた。
「……困ったことがあったら俺に言えと言っただろう」
どうやらオルタンシアは、地面に倒れる直前にジェラールに抱き留められたようだ。
ジェラールはそのまま、オルタンシアを自らの膝の上に乗せるようにして抱き起こす。
「どうしてこんなところに……」
「マルグリット付きのもう一人のメイドが、しきりにお前の様子を見に行くべきだとマルグリットに訴えていたからな。来てみれば案の定だ」
ジェラールは汗で額に張り付いたオルタンシアの前髪をかきわけながら、深いため息をつく。
「マルグリットが、お前に無茶なことを命じたのか」
「……違います。私が一人でできると自分の能力を過信してしまっただけです」
オルタンシアは嘘をついた。
こんなことで、ジェラールとマルグリットの……本当のヴェリテ公爵家の兄妹の不和を招きたくなかった。
「マルグリットお嬢様は何も悪くありません。すべて私が――」
「もういい」
ジェラールの手が遠慮がちに頬に触れ、オルタンシアは息をのむ。
……そんな風に、優しくされてしまったら。
重ねずにはいられない。大好きなあの人と。
(お兄様……)
涙で視界が滲む。
それでも、オルタンシアは必死に堪えた。
だって、ここで情けなく泣いてしまったら。
……きっと目の前のジェラールはオルタンシアを放ってはおかない。
またオルタンシアの存在が、公爵家の平穏を壊してしまう。
(そんなのは、絶対に嫌……)
だからオルタンシアは、精一杯の笑みを浮かべてみせた。
「今日の工程は終わりましたので、大丈夫です。私、一人でやり遂げたんですよ」
「お前はまたそうやって無理を……」
「ジェラール様、私ここで働けて嬉しいんです。だから……見守ってはいただけませんか?」
大好きなヴェリテ公爵家を。この幸せな光景を守りたいから。
だから……このままがいい。
きっとマルグリットもいつかわかってくれる。
そう願って、オルタンシアはおそるおそるジェラールの服の端を握り締めた。
「お願いします、ジェラール様……」
無意識に、元の世界のジェラールに甘えるときのような言い方になってしまった。
ジェラールは何も言わない。ただじっと、オルタンシアのことを見つめている。
不意に、オルタンシアの頬に添えられていた彼の指先が動いた。
まるで輪郭を確かめるように、彼の指先が頬から顎へとなぞっていく。
まるで慈しむようなその優しい手つきに、オルタンシアは状況も忘れてうっとりしてしまう。
「本当に、お前は……」
少しだけ熱のこもった声で、ジェラールが囁く。
だが彼が次の言葉を紡ごうとしたその瞬間――世界からすべての音が消えた。
(えっ?)
自分の感覚がおかしくなってしまったのかと、オルタンシアは目を見開く。
目の前のジェラールの口は動いているのに、声は聞こえてこない。
それどころか、先ほどまで聞こえていた風の音、虫の声、公爵邸内のざわめきなども一切消えてしまったのだ。
(なにこれ、どうなっているの……)
混乱するオルタンシアに届いたのは、ノイズのような不思議な音だった。
耳に……いや、違う。頭の中で直接ノイズが響いているのだ。
(これ……誰かの声?)
意識を研ぎ澄ませれば、鮮明に聞こえてくる。
それは、誰かの……泣きたくなるような懐かしさを覚える声だった。
(お願い、もっと聞かせて……!)
少し意識を逸らせば消えてしまいそうな微かな音を、オルタンシアは必死に辿る。
そして、はっきりと聞こえた。
『 目 を 覚 ま せ 』
『 シ ア 』
(お兄様!)
直感的にわかった。
この声はジェラールの声だ。
それも、この世界のジェラールではない。
元の世界の、オルタンシアの義兄のジェラールのものだ。
(お兄様! そこにいるのですか!? お兄様……!)
オルタンシアは必死に呼びかける。
だがだんだんとノイズは遠ざかっていき――。
「オルタンシア!」
急に大きな声で呼びかけられ、オルタンシアはびくりと体を跳ねさせた。
「ぁ……」
気づけば、ジェラールが必死にオルタンシアの肩を掴み体を揺さぶっていた。
「いきなり呼びかけにも応えなくなって……大丈夫か!? やはりマルグリットが無理をさせたようだな……!」
目の前のジェラールは憤っている。
彼は、間違いなく「この世界の」ジェラールだ。
そう意識した途端、オルタンシアの心に芽生えたのは失望だった。
(あれは、夢? 私の幻聴だったのかな……)
先ほど聞こえたのは、元の世界のジェラールの声だった。
あまりにも彼が恋しくて、ありもしない声を聞いたのだろうか。
(そうだよね。だって世界が変わって「ジェラール」は目の前のこの御方なんだし……)
本物のジェラールは、気づかわしげな視線をこちらに注いでいる。
「すぐに医師のところへ連れて行く」
「そんな、大丈夫です! 今のは、えっと……ちょっとうたた寝をしちゃっただけですから!」
「うたた寝、だと……?」
「はい、そうです! 実はどこでも寝られるのが私の特技で……あっ、これ公爵家の採用面接のときにお話すればよかったですね!」
オルタンシアはなんとか誤魔化そうと、ことさら明るく振舞ってみせた。
それが功を奏したのか、ジェラールは呆れたようなため息をついた。
「やはりお前は変わっているな。……わかった。今日の工程は終わったのだろう。ゆっくり休め」
「はい! ありがとうございます!!」
ジェラールの手を借りて、オルタンシアは立ち上がる。
大丈夫だとは言ったのだが、結局ジェラールはいつぞやのように使用人用の入り口の前まで付き添ってくれた。
「本当にありがとうございました。ジェラール様」
「……あぁ」
礼を言って頭を下げたが、ジェラールは立ち去ろうとしない。
それどころか、何か訴えるような視線でじっとこちらを見つめている。
(あれ、私なにか言い忘れてる? ……あっ、もしかして)
前回はここで、うっかりジェラールに「おやすみなさい」と言ってしまったのだった。
……もしかしたらジェラールは、またその言葉を待っているのかもしれない。
「お、おやすみなさい……」
おそるおそるそう口にすると、ジェラールは心なしか満足げなひょうじょうになる。
「あぁ、おやすみ」
そう言って、今度こそ彼は去っていった。
その背中と、かつてずっと見ていた義兄の背中が重なる。
(お兄様……)
一人になった途端、こみ上げてくるのは元の世界のジェラールへの思慕だ。
先ほど頭の中に響いたあの声。きっとあれはただの幻聴だ。
そう何度も自分に言い聞かせた。だが、それでも――。
(お兄様……私を呼んでいるの?)
そんな気の迷いが消えない。
もしかしたらどこかに「義兄のジェラール」がいて、オルタンシアを呼んでくれているのではないかと思わずにはいられないのだ。
(会いたい、お兄様……)
この世界のジェラールの前では我慢していた涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
(もう一度お兄様に会えるのなら、なんだってするのに……)
頭の中に響いたあの声は、「目を覚ませ」と言っていた。
もしもこれが夢で、目が覚めたときすべてが元通りに戻っていたら……どれほど幸せだろうか。
(でも、それはお兄様の幸せじゃない)
オルタンシアの身勝手な願望は、ジェラールが本来手に入れたはずの穏やかな幸せとは相反する。
(だから……これでいいの。この世界が正しいの)
あふれ出しそうになる感情をぐっと堪え、オルタンシアは涙を拭う。
間に合うかどうかはわからないが、明日も早くに起きてマルグリットのドレスにアイロンをかけなくてはならない。
こんなところで立ち止まっている暇はないのだ。
もう一度ジェラールが去っていった方向を見つめた後、オルタンシアは迷いを断ち切るように建物の中へと足を踏み入れた。